FC2ブログ
カレンダー
06 | 2019/07 | 08
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
プロフィール
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
FC2カウンター
ブログ全記事表示
ブログランキング
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | 【--------(--) --:--:--】 | Trackback(-) | Comments(-)
登場人物の登場過程 12


ここまでの小説の形式をおさらいすると、構成としては、イワンの生い立ちから六号室収容までの小さなストーリーがあって、その後に、それと相似形の、アンドレイの生い立ちから六号室収容までの変化が描かれている。また、語りとしては、前半で、アンドレイを善良だの正直だの言って、読者を混乱させている。

次に、第十七章に至っても、ニキータの差し出した「囚人服」に唯々諾々と着替え、イワンに泣き言を言っていたアンドレイは、第十八章の冒頭で、監獄然とした六号室の様子を初めて見るかのように、あらためてまざまざと見つめなおす。これは冒頭のイメージの再現であり、そのような構成から、私たちは、これが人間の監獄についての物語である、チェーホフはそう主張している、という感じを感じる。またそれは今までの構成と整合して、無辜の囚人のイメージを喚起する。

アンドレイは、第十八章で、ようやく、どうしても煙草とビールが欲しいのだということに気付く。

この期に及んで、彼はようやく生活の感覚を取り戻す。煙草を愛し、ビールをやめられない、人間臭い、そしてそのような意味においてようやく構成のくびきを外れた主体的なアンドレイは、当然この牢獄を脱出しようと暴れ、ニキータに殴りつけられてしまう。

痛みにたえかねて、彼は枕をかみ、歯を食いしばった。と、急にその混沌の中から、いまこの月光の下では黒い影のように思われるこれらの人々は、これまで何年ものあいだ、夜となく昼となく、これとおなじ苛責をたえ忍ばなければならなかったのだという、恐ろしい、たえがたい想念が、まざまざと頭の奥に閃いた。二十年以上もの長いあいだ、彼がこれを知らないでいるようなことが、また知ろうともしなかったようなことが、どうしてありえたのだろう? 彼は知らなかった。苦痛についての理解をもたなかった。(*14)


まず、一般的な言葉の意味において、彼は知っていたのである。彼がそれを知っていたことは、再三再四記述されている。だから、ここでは、一般的な意味ではなくて、「苦痛についての理解をもたなかった」という意味において、「知らなかった」ということであろう。ここでは、知識としてではなく、実感としてそれを知っているか否か、ということが、問われているのである。

であるならば、この小説の冒頭で、チェーホフがしきりと、善良だの正直だの繰り返していた言葉も、再考が必要だろう。通常の意味では善良でも正直でもなかったアンドレイを、なぜチェーホフはしきりとそう言い募ったのか。

私たちは、アンドレイとイワンの間で長々と続けられる哲学談義を丁寧に読み込んで、いちいち要約して、その中から苦労して、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマを抽出する。そして、これがこの小説のテーマかなと思う。そのような観点から構成を見ると、不幸なイワンが六号室に収容されるまでが短く描かれ、それを一例として、その後に、アンドレイが同じように六号室に収容されるまでの変化が、長めに描かれているように感じる。この構成が方向付けているのも、やはり、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマのようだし、そのような構成理解の延長上には、イワンは実は正常であるという解釈の可能性が仄見えるような気もしてくる。

その辺り、「名作の読解法」という心強いタイトルの本を読むと、次のように解説してある。


  • すでに完全に正常であるのに、たまたま六号病室に入れられたためにそこから出してもらえないことになってしまっている、貴族の青年イヴァン・ドミートリチに、この土地で唯一の彼と対等に議論することのできる知的な人間を見出し、……
  • 野心家のホーボトフは病院の設立者である市に働きかけ、医学に無知な人々を説得して、精神が冒されたものとしてエフィームイチを免職にさせる。
  • 彼の最も親しい理解者であると自負していた郵便局長は、彼が不幸に見舞われたいまこそ友情を発揮すべきときと考え、……(*15)


しかし、まず、イワンはアンドレイによって治癒不可能と診断されたこと、イワン自身が自分は病気だと認めていること、最後の訪問時に、アンドレイを探偵だと疑う妄想を示したことから見て、正常ではないと思われる。また、そのことをアンドレイはよく知っていたのだから、彼を対等に議論することのできる知的な人間と思った、ということもありえないようだ。

次に、エヴゲーニイ・ホボートフが、アンドレイを失脚させるために積極的に働いたか、という点だが、そこのところを直接的に説明する描写はない。逆に、第十五章に、「彼がアンドレイをなおすのが自分の義務と考えて、げんにいま直しつつあるもののように思いこんでいる」という描写がある。

もしも彼がアンドレイを追い出し、自分が後釜に座ることを第一の目標にしていたのであれば、その目標を達成した後で、辞職して無一文になり、廃人同様である人畜無害なアンドレイをしばしば訪問する必要があるだろうか。一方で、ミハイルについては、借金を返そうとしない上に、第十六章で、アンドレイの幸福を願って入院を勧めているはずのところで、「ミハイル・アヴェリヤーヌイチはこう言って、ずるそうに片目で目くばせした」という記述がある。

おそらく、私たちは、読解終了後の豊かで幅を持った解釈ではなく、読解の過程に注目するべきだろう。ミハイルやエヴゲーニイは、最後まで、構成を形成する張子の背景に過ぎず、人物ではなく、人間的意思もない。対して、アンドレイは、いざ六号室に収容されるやいなや、突然、生き生きとした登場人物に変容する。さらには、そうやって変化した途端に脳卒中で倒れ、翌日には死んでしまい、そしてそこでこの小説は唐突に終わってしまう。私たちはそこに、奇妙な辻褄の合わなさを感じてしまう。

無辜の人間が不当に拘禁されることがあるということが言いたいならば、なぜ、アンドレイは、不当な拘禁と戦う人間らしい場をほとんど与えられないまま頓死させられるのか。なぜ、ここに至るまで、あえて彼の人間的側面が描かれないままにすまされてきたのか。

私たちはてっきり、それはアンドレイが人間的に魅力のない人物であるからだと考えてきた。彼は当時のロシアの知識人の批判的カリカチュアなんだろうと思った。読者にそう思わせるべく、チェーホフは周到に構成し、語ってきた。私たちは、彼を不誠実で不正直だと思い、次第に嫌いになっていた。そんな彼が六号室へ追い立てられていく様子を冷淡に眺めていた。だから、最後の最後になって急に生き生きと登場してくる人間アンドレイに驚いてしまうのである。

イワンは間違いなく狂人だから、彼が哲学談義でいくらもっともらしく主張しようとも、彼の入院の顛末は、無辜の人間が不当に拘禁されるという一例にはならないし、だからアンドレイの六号室収容も、イワンのそれをなぞった構成ではなく、そのようなテーマではない。

あらためて考え直してみると、アンドレイが善良で正直であるような伏線が冒頭に書き込まれていたが、またチェーホフが人間を忘れてないことがあちこちに暗示されていたが、読者である私たちがそれに取り合おうとしなかっただけであった。

私たちは、知識としてはアンドレイを知りながら、本当の彼を実感することなく冷淡に距離を置いて読んでいたことに突然気付く。

あまりにも長い間、登場人物の登場が引き延ばされ続けたために、もはやこの小説には登場人物の登場は期待できないのではないかと、諦め、冷淡になり、他人事として読み進めていった、その最後の最後になって、突然、生き生きとした登場人物を、チェーホフは鮮やかに描き出してみせる。人間アンドレイの登場を、私たちは目が覚めるような気持ちでじっと見つめる。そのような読解の過程で生ずる「驚き」が文学であり、それを生み出す形式が文学性なのだ。読解以降の解釈は、イワンが狂人だろうとそうでなかろうと、エヴゲーニイがどんな欲望の動作主であろうと、文学とは無関係だ。

私たちは、構成や語りなどの形式を内容理解の足がかりとしているので、最初に形式を見、次に形式を背にして内容を見る。ちょうど、英文和訳をするとき、まず文法を見て、次に意味を見るようなものである。アンドレイがまざまざと生活の実感を取り戻したとき、同時に読者が背中に感じているのは、構成や語りの形式であり、それを原因とする驚きである。

そうでないことは有り得ない、なぜなら、小説の内容はフィクションであり、登場人物は架空の存在であり、現に今ここに実在し実感可能であるのは形式のみだから。

そうやって驚きながら、そのとき、私たちは、人間アンドレイを見ている。そして、自分の驚きと彼の驚きがパラレルであるために、彼が驚いたから、自分も驚いたのだと原因を取り違えてしまうのである。

ここに、内容が小説の価値であるという錯覚が生ずるのである。

最後に、この小説の中で最初から最後まで唯一一貫して人間であったダーリュシカがやってきて、にぶい悲しみの色を浮かべたまま、まる一時間もアンドレイ寝台のそばに立ちつくしていた。

その夕方ちかく、アンドレイは息をひきとった。(了)

脚注・文献

スポンサーサイト
登場人物の登場過程 | 【2009-10-03(Sat) 08:54:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 11

第十二章から第十四章にかけて、アンドレイは「うろんくさげなまざなし」で回りから眺められるようになり、町議会に喚問され、とうとう退職を命じられてしまう。そしてミハイルに強く促されて一緒に旅行に出掛ける。

このミハイルの役割は、ひとつには、アンドレイが、自分への理不尽な扱いと向き合い戦う、生き生きとした登場人物として存在しうる機会を奪い、主体的人間というものに照らして、そのような自然なストーリーの方向性を力ずくで断絶させる。もうひとつには、その上で、アンドレイがミハイルを嫌いになることを通じて、元気で俗物であるミハイルという基準点から、アンドレイがどんどん遠ざかっていくイメージを読者に喚起する。

ミハイルが大いにしゃべり、食べ、朝から晩まで市内を歩き回るほど、それに対照されて、アンドレイの引きこもりぶりが強調されていく。

旅行から帰ると、アンドレイは病院長を解雇されて、エヴゲーニイが後釜になっており、そしてアンドレイにはまるで貯金がないことが明かされる。こうしてチェーホフは、強引にアンドレイを無一文にしてしまい、容赦なく彼を六号室へと追い立てていく。

第十五章の冒頭には、明らかなイメージの変化があるので、ここに分節の区切り目があると考えられる。

病院を追われ、貯金を使い果たしたアンドレイは、ダーリュシカを連れて、町人女の家に下宿することにした。そこには三人の子供がいたが、町人女の情夫が酔っ払って騒ぐ度、アンドレイは泣いている子供たちを自分の部屋に連れてきて、彼らを寝かしてやった。それが彼に、いつも大きな満足をもたらした。

アンドレイが満足したのは、これが初めてであり、特筆すべきイメージの変化である。

念のために繰り返すが、イワンは狂人であり、彼と知的交流をして満足したというアンドレイの言葉は嘘である。そもそもが、アンドレイがイワンを狂人だと認定したのである。そして、この章で、院長を首になったアンドレイがイワンに会いに行くが、イワンは、「一人きりで幽閉されることを願っている」と言って、断固彼に会おうとしない。仮に、今まで正常な自分が拘禁されていることに抗議してアンドレイを罵っていたのだとすると、もはや権力者でなくなったアンドレイにイワンが会おうとしないのはおかしなことである。イワンは狂人でまちがいない。

振り返れば、第九章において、アンドレイはイワンに単に同情したのであり、ただそれを認めると患者の待遇改善をしなければならなくなるので、そう認めることができなかったのではないか。とすると、あの似非哲学談義から、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマを抽出したことも再考すべきかもしれないが、それはまた後で考えることにして、今は町人女の家で静かに暮らすアンドレイのイメージに集中しよう。

単調で面倒な仕事が、一種不可解な形で、彼の思考を眠らせたので、彼は何事も考えず、時はどんどんすぎていった。台所にすわりこんで、ダーリュシカといっしょに馬鈴薯の皮をむいたり、蕎麦の中からごみを選りだしたりするようなことまでが、彼には興味ふかく思われた。土曜と日曜ごとには、教会へ出かけた。壁際に立って目を細め、賛美歌に聞き入りながら、父や、母のこと、大学、宗教などについて考えた。彼は落ちついた、うら悲しいような気持ちであった。(*12)


 まもなく死に行くアンドレイに対して、チェーホフのまなざしがずいぶんと優しくなっていることに気付く。

不死を信じないと嘯いていたアンドレイは、そして本当は宗教家になりたかったのに、父に強く反対されて医者になり二十年を無為に過ごしたアンドレイは、ここへ来て突然に教会に出掛けるのだ。それに、ダーリュシカである。彼女がどういう理由で無一文のアンドレイに付き従っているのか不明だが、そしてチェーホフはまるで彼女のことを説明してくれないが、こんな短いシーンからでさえ、彼女の優しい性格は、はっきりと伝わってくる。彼女は、この作品で唯一、正常な普通の人間なのだ。

後にわかるように、ダーリュシカは、チェーホフが人間を片時も忘れていないことの伏線である。チェーホフが彼女に台詞を与えないのは、まだここでは生き生きとした人間を登場させたくないからである。

つかの間やさしくなったチェーホフは、けれども、この直後に再びミハイルとエヴゲーニイを派遣して、アンドレイをとことん打ちのめしてしまう。

ミハイルやエヴゲーニイの騒がしい訪問や励ましに対して、アンドレイはとうとう我慢できずに彼らを怒鳴りつけてしまう。けれどもすぐに反省して、翌日にはミハイルに謝りに行く。ミハイルが強く入院を勧め、アンドレイはこう答える。

生涯の終わりにちかく、いまわたしが経験しているようなことを経験しない人は、珍しいといっていいですよ。世間の者があなたに向かい、あなたは腎臓がわるいとか、心臓肥大だとか言い出して、あなたが治療にかかる時分には、また、あなたは狂人だとか、罪人だとかいいだす時分には、つまり、一口にいえば、世間のものが急にあなたに注意を向けかけた時分には、あなたはもう出口のない循環論法に落ちこんだものと、覚悟しなくちゃいけません。出ようとしてもがけばもがくほど、ますます迷い込むばかりです。そうなったら、もう降参するのです。なぜなら、どんな人間の努力も、もうあなたを救うことはできないからです。(*13)


 この悲痛な告白が、けれどもさして胸に迫ってこないのはなぜだろう。

私たちはずっと以前にアンドレイを嫌いになっているし、そして彼の物言いは、この期に及んでも、一般的な哲学談義のような他人事めいた雰囲気に彩られている。彼は作者の薀蓄を語るための操り人形のようにしか見えない。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-10-02(Fri) 08:52:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 10


第九章と第十章を読んで、私たちは、アンドレイが嫌いになってしまった。そこにはチェーホフの意図があるのだろうとわかっていても、やっぱり嫌いだという自然な感情が消えるわけではない。言葉には理性的な意味と同時に、感情的、生理的イメージが必ず伴うものだし、それを切り離すことはできない。ましてや、文学は、その冗長性のために、実用的文章に比べてずっとたくさんの心的エネルギーを使う。だから風を受けて風車が回り、帆船が進むように、私たちは読解につれ自然とアンドレイが嫌いになってしまうのである。

さて、第十一章には、エヴゲーニイが再び登場するのだが、もし彼が第八章で紹介されず、ここで新しく登場したのであれば、第十章と第十一章の間に、大きな分節の区切りを感じて、ここからしばらくは、新しい別の話が始まるのかなと思うだろう。けれども、第八章でエヴゲーニイが割りと丁寧に紹介されているので、それがその後のモチーフとどう繋がるのかということを、私たちはずっと頭の片隅で気にしてきた。だから、ここで再びエヴゲーニイが登場すると、ちょうど係り結びのように、第八章から第十一章までが、ひとまとまりの分節であるだろうと気付くのである。

すなわち、文章の理解作業が、自動的に、より高次の、物語的視点をある方向に方向付けるのだが、その原理とは、そのような構成が読者にそれを促すのである。

私たちは、第九章と第十章を読んでいる間は、第八章を棚上げして、大権力者アンドレイがイワンをからかっているのを、憤りを持って見るのであるが、第十一章で、エヴゲーニイが、狂人イワンと話しこんでいるアンドレイを盗み見て、「うちの爺さんも、どうやらほんものになったようだね!」とつぶやくのを聞いて、そのような目であらためてアンドレイを見直すのである。

つまりここには二段階の異化が機能していて、冒頭でチェーホフが作り上げた、善良だが意志薄弱であるアンドレイのイメージが、イワンの目を通して、権力者であり抑圧者であるイメージに置き換わり、さらには、エヴゲーニイの視点から、狂人と親密になるような社会規範に背く正常でない者として見直されるのである。

このめまぐるしい視点の変化を掴み取ろうとして、私たちはいっそう身を乗り出して、物語の中に入り込んでいく。それに合わせて、ストーリーは加速度を増し、アンドレイは第十二章で町会議員たちに喚問され、第十三章の冒頭で退職勧告を受けてしまう。

このあと、アンドレイは六号室に向けて追い立てられ、医者から患者へと転落してしまうのだが、その段階的変化のイメージは、大きく三つに分けられる。

第一には、第十二~十四章で、ミハイルとの旅行の顛末が描かれている。第二には、第十五~十六章で、無一文になったアンドレイが、安アパートでぼんやり過ごし、ますます人間嫌いになっていく。第三には、第十七章以降で、とうとう六号室に拘禁されたアンドレイの様子が描かれる。

ところで、アンドレイが本当に精神を病んだのだとすると、彼を登場人物としてリアリティを感じることは困難ではないか。彼が何を言い、何をしたところで、それは病気のせいかもしれないのであり、だとすれば、彼をかわいそうに思うけれども、生き生きとした登場人物として共感することはむずかしい。といって、彼の精神はまったく健康であるのに六号室に収容されてしまうのだと考えると、それにしては、彼はあまりに無抵抗すぎて、生き生きとした人間精神がまるで見られないために、やはり登場人物としてのリアリティがない。

彼はなお、六号室の鉄格子の内部では、ニキータが患者たちを打擲することも、モイセーイカが毎日町をほっつき歩いて、施しを乞うていることも承知している。(*11)


右は第七章の地の文である。アンドレイは、六号室を含む病院内のひどい状況を知っていた。普通なら、決して自分がそこへ入院することを承諾しないだろう。

彼の素直すぎる諦観は、イワンとの会話においては他人事であり、それなりに哲学談義のような体裁を保っていたが、いざ自分のことになれば、まったく話は違うはずである。

なるほど、ミハイルに対して明確に入院を承諾したわけではなく、エヴゲーニイに、騙されて病院まで連れて行かれるのだから、話の辻褄としては合っているようだが、生き生きとした人間らしい人間を描くという点から見て、不自然なのである。彼の言動は、彼自身の主体性の発現ではなく、作者に操られ、構成に従属しているように見える。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-10-01(Thu) 08:51:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 09
さて、第二のテーマについて、イワンは魂の不滅、人の不死、つまりはキリストを信じているが、アンドレイは信じていない。けれども、それは科学的態度ではなくて、何をどう変えようとどうせ人は死ぬのだから、監獄や病院の不道徳な状況が改善されなくても本質的には同じだ、という言い訳に使われている。第三のテーマについて、イワンは、人間が尊いのは痛みを感じる能力があるからであり、それの放棄は生活の放棄であり、だから外的な苦痛を無視したり生活を軽蔑したりすべきでないと言う。一方で、アンドレイは、ストア派の哲学を持ち出して、六号室も自分の書斎も変わらない、真の幸福は内面にあり、生活を軽蔑するべきだと言う。それはたちまちイワンのまっとうな反論にさらされる。

あなたは、仕事を助手やそのほかの悪党どもに押しつけてしまって、自分は暖かで静かな部屋にすわりこみ、金を貯めたり、本を読んだり、いろんな高尚がったくだらぬことを考えたり、(イワン・ドミートリイチはドクトルの赤い鼻を見て)飲んだくれたりして、ひとりでいい気になっているんです。これを要するに、あなたは生活を見ていない、生活をすこしもしらない、現実ともただ理論の上でだけなじみになっていられるにすぎん。(*10)


この一節は、アンドレイについて語りながら、それは同時に、私たち読者の態度でもある。私たちはイワンの苦しみもアンドレイの不誠実も、ただのフィクションだと高を括って見物している。

アンドレイは、「あなたとの会談はわたしに、このうえない満足をもたらしてくれます」と言う。

これは、はっきりと、嘘である。

イワンを診断して六号室に送ったのはアンドレイであり、だからアンドレイはイワンが病気であると知っており、彼と知的会話を楽しんだと思うなどありえない。アンドレイは嘘を付いていて、だからイワンに罵倒されるのだが、何しろ相手はただの狂人だから、まったく痛痒を感じずに、動物園で檻の中の動物を見て慰められるように、高を括ってイワンを見物していられるのである。

ニキータが牧羊犬並みの存在感しかなく、エヴゲーニイがアンドレイを追い立てる機能でしかないように、人間アンドレイもまた、いまだに登場していない。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-30(Wed) 08:50:31】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 08



第九章と第十章では、ふとしたことから六号室を訪れたアンドレイがイワンと話をして、彼に興味を持ち、長々と哲学談義を行う。

アンドレイは病院の院長であり、ニキータが直立不動で命令を聞く様子からもわかるように、大権力者である。現代でも医者は金持ちだが、当時のロシアでのアンドレイの地位は、相当に高かったようだ。そういえば、同じ医者であるエヴゲーニイは、アンドレイが金持ちだろうと羨んでいたし、つまりは、医者の中でも、病院長は特別に地位が高いのだろう。一方で、イワンは、貧しい孤独な狂人である。二人の社会的地位の懸隔ははっきりしている。

ところが、イワンはアンドレイを激しく罵り、アンドレイはそれをにこやかに聞くのである。

それぞれのテーマについての、アンドレイとイワンの言い分を聞いてみると、いや、正確に順序を言えば、アンドレイとイワンの言い分を聞いた後で、テーマを抽出したのだが、第一の、無辜の人間の不当な拘禁については、イワンはそのようなことが行われると言いながら、自分については、病気だと素直に認める。だとすれば、彼自身は、不当に拘禁されているのではないのに、イワンは、アンドレイたちが極めて不道徳であり、自分たちばかりが贖罪の山羊としてここに閉じ込められているのはおかしいと言い立てる。彼の入院が正当かどうかは、彼が病気かどうかとかかわっているのであり、彼は病気であり、そのことと、病院内での待遇が十分でないこととは、別の問題である。彼は精神を病んでいるので、話の辻褄が合わないのもしかたのないことかもしれない。一方で、アンドレイは、道徳も論理も関係ない、イワンがここに拘禁されているのは、ただ、無意味な偶然があるきりだ、と言う。これも医者として不可解な発言である。単に、イワンが病人だから病院にいるのだ、とだけ言えばいい話のはずである。

このような奇妙な逸脱は、これが単に、六号室の天井に取り付けられた監視カメラの映像と音声をテキストに起こしたものではないことを示唆している。

もちろんそうに決まってるのだ、性病予防のための漫画冊子が、若い少年少女を登場させながら、彼らに口々に性的な行動を慎むよう呼びかけさせるのもそうだし、自動車のテレビCMに、家族がドライブしたりキャンプしたりする様子を映し出しながら、家族愛の称揚ではなくて、そのような車付きのライフスタイルへの羨望をかきたて、車を売ろうとしているのであるのと同じように、ここでは、アンドレイやイワンを客観描写しているように見せかけて、その狙いは、「監獄や精神病院が無辜の人間を不当に拘禁することがある」というテーマを読者に伝えることだ。

そうかな?

物語を装った政府広報やテレビCMは、その意図がちゃんと伝わってくるために、それが物語ではなく、ましてや文学でないとはっきりわかる。もしも、チェーホフの意図が、「監獄や精神病院が無辜の人間を不当に拘禁することがある」というテーマを読者に伝えることならば、そこには物語もなく文学もない。

実は、そのような意味の抽出の完了前に、その過程で、アンドレイやイワンの顔つきや身振り手振りや声の調子をまざまざと感じることが、文学である。文学の文学性は、読解の後、その先にあるのではなくて、読解の過程の中にあるのである。だから、読解が完了した後、プロットを掌握した後、テーマを理解した後、登場人物が登場した後、つまりは意味を引き出したそのあとに、それらをこねくりまわしても、そこにはすでに、文学の技法はないのである。

バルトは、聖書の一節の記号論的分析をしたあとに、次のように言う。

これでおわかりのように、この挿話の構造的開発とでも呼べるものは、大いに可能である。いや、是非とも必要である。とはいえ、終えるにあたってつぎのことを言っておこう。つまり、この有名な一節のなかで、もっともわたしの興味をひくのは、《民間伝承的》モデルではなく、読みとり可能性の衝突や中断や不連続性であり、明白な論理的分節から少しはずれた物語的実体の並置である。(*09)


快楽は、読解の過程で生じているのだ。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-29(Tue) 08:48:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 07


次に、もう一人の主要な登場人物候補であるミハイルの人物描写を見てみると、「ものごしの上品な、気持ちのいい、大きな声の持ち主である。彼は善良で、情の深い男だった」とあって直後に、「むかっ腹を立てやすかった」とあり、ミハイルは郵便局に勤めているのだが、客のうちで少しでも気に食わない者がいると、紫色になり全身をぶるぶる震わせ、雷のような声で「黙れ!」と一喝するそうである。おかげで、よほど前から郵便局はこわいところという評判になっていたそうだ。

到底、ものごしが上品とも善良とも思えない。

チェーホフはこのような矛盾する形容に執着していて、先に見たアンドレイもそうだし、イワンも、猜疑心が強く、友だちが一人もおらず、町の人たちを頭から軽蔑し悪口を言う、その一方で、デリカシイで親切で上品で方正な品行と記述する。そう言えば、五人目の患者も、「善良らしい、だがどこかずるそうな人相」をしているし、イワンの話の中に出てくるだけの、彼の父親についても、「僕はずいぶんひどく親父に打たれたものです。僕の親父は、鼻の長い、首の黄色い、痔持ちの、厳格な官吏だったのです」(*08)と描写されている。

厳格な官吏と厳しい躾はなんとなく繋がるようであるが、痔持ちと厳格な官吏の関係が、わからないのである。確かに、このような全体としてひとつにまとめることが困難なような形容詞を埋め込んでいく手口は、生真面目に要約を続け作者の独創を類型的な物語に還元しようとする読者を立ち止まらせ、注意深くさせ、よって異化効果を発揮せしめるかもしれない。けれども、このような表現が、この小説において、生き生きとした魅力的な登場人物の創造にまで到達しているかというと、ここまでのところ、そうは思われない。アンドレイは、意志薄弱なテノールだし、イワンは、病気なんだからしかたないけど、六号室に閉じこもったままぶつぶつ言ってるだけの不活性な男である。ミハイルについて言えば、彼はおよそ印象不鮮明な背景でしかない。

主要な「動作主」であるらしきアンドレイ、イワン、ミハイルのいずれも、今のところ、なんだか魅力がない。さてしかし、この三人を除くと、あとは端役ばかりである。

けれども、登場人物の資質という観点から言えば、彼らのほうが、まだしもましのほうである。

第八章で簡潔に紹介される若い医者、エヴゲーニイの描写は、実務的で行動的なイメージで統一されている。外観は長身、黒髪で非ロシア的、蔵書はたった一冊の臨床医学の実用書、アンドレイが大変なお金持ちだろうと疑って、密かに羨んでいる。

彼は欲望し行為する、主体的な動作主である。けれども、平面的で非文学的人物である。

もう一人、アンドレイの家政婦のダーリュシカは、この小説の中で唯一、正直で親切な人間らしい人間である。舞台監督たるチェーホフが、この役者にまったく台詞らしい台詞を与えないのは、残念至極である。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-28(Mon) 08:47:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 06
第六章と第七章においても、どこか奇妙な「客観描写」が続く。アンドレイは昼のうちに仕事を切り上げ、後は助手に任せて自宅に帰ってしまう。そしてウオッカを飲みながら読書にふける。外に患者を持たないために(貧乏人が病院に送られてくるという記述があるので、当時のお金持ちは自宅に医者を呼んだのだろう)収入はないが暇はあるという状態らしい。

夜には、友人のミハイルが訪ねてきて、二人で会話する。またその後、深夜まで独りで思索にふけるが、そのテーマは次のとおりである。


  1. 知性が人間の本質であり、不死の代償であり、悦楽の唯一の源泉である。人生はいまいましい罠であり、存在の意味も目的もわからないまま死が訪れるが、知的な交流によってこの罠を感じずにすむ。この町に知的な人がいないために、その唯一の悦楽が奪われているのは残念だ。
  2. アンドレイの勤務する、田舎の、不道徳で患者に有害な病院に比べて、都会では先進的治療を行っている病院がある。しかし霊魂は不滅ではなく、人間は不死ではない。人が病気になり死ぬという、事物の本質は変わってないから、両者に実質的違いはない。
  3. アンドレイは、有害な職務に従事し、自分の欺いている人々から俸給を受けている。自分は正直ではない。しかし、自分自身が悪いのではない。単にやむを得ざる社会悪の一分子たるに過ぎない。自分の不正直の罪は、自分にあるのではなくて、今の時代にあるのだ。


ここには、三つの相似形の屁理屈がある。第一に、知性が人間の本質であると言い、知的交流のすばらしさを謳いながら、すぐに、自分の周りにそれがないという後ろ向きな悲嘆に落ち込む。第二に、霊魂は不滅ではないという科学的態度を持ち出した後、それを自分の病院が不道徳であることの言い訳に使っている。第三に、自分は正直でないと認めながら、悪いのは社会だと言う。

まったく気色の悪い抜け作である。毛筋ほども共感できない。

チェーホフ、あなただって、アンドレイを嫌いなんでしょう? なぜはっきりそう言わないんですか?

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-27(Sun) 08:45:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 05
第五章のアンドレイの身上書を読んで感じるのは、チェーホフが嘘を付いている、少なくとも率直でない、という感じである。

アンドレイは、病院が不道徳で非衛生的だと気付きつつ放置し、職員の不正を知りながら黙認し、医者としての仕事を怠惰からさぼっている。まったく擁護すべき点のない情けない男である。にもかかわらず、町の人たちが不道徳な病院を容認しているとか、彼独りで病院改革は無理だとか、知性と正直をこの上なく愛していたとか、当初は熱心に仕事をしたとか言うのである。それでは作者はアンドレイに同情的なのかというと、まったくそうではない。慇懃な「客観描写」を装いつつ、アンドレイが知的でも正直でもなく、単に怠惰であるだけのくせに、死は避けられないから治療も無意味であるというような屁理屈によって自分の仕事を放棄している様子が、はっきり読者に伝わるように書いてある。

小説を読むときも、私たちは実用的文章を読むときと同じ要領で、客観描写を装ってあると、そのようなモードで読むし、書簡形式であれば手紙を読むような印象を感じつつ、また、話し言葉のようであれば、友人の話を聞くような態度を知らず知らずのうちに自分の内面に作り上げながら読んでしまう。ところが、小説家は嘘つきであるから、そのように身構えた読者に対して、それとは違うものを入れ込んでくるのである。詐欺師の話が一見辻褄が合っているようでどこかうさんくさいように、チェーホフの「客観描写」も、何かしら奇妙な違和感がある。

私たち読者は、登場人物を愛する心の準備がすでにできているのである。そのような開かれた心は、何も道徳的な理由からではなくて、文章の内容理解にどうしても必要だからである。物語を理解し全体を把握するためには、一度は語り手を信じて一通り読解してみる作業が、どうしても欠かせないのである。チェーホフが、アンドレイのありのままの姿をありのままに伝えようとすれば、そうすることは簡単なのである。

たとえば、「アンドレイは、知性と正直をこのうえなく愛していたが……」と書く代わりに、「アンドレイは、知性と正直をこのうえなく愛していると思っていたが……」とほんの少し書き換えるだけで、私たちはチェーホフの態度をすぐに読み取ることができる。ところが彼はどうしてもそうしない。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-26(Sat) 08:44:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 04
六号室の五人の患者の紹介を終えた後、第五章において、チェーホフは、ようやく、本物の登場人物かもしれないとの期待を感じさせる男を紹介する。ドクトル・アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンである。


  1. アンドレイは、若いころは非常に信心深く、宗教家になりたかったが、父に強く反対され、医学にまるで興味がないと思いつつ、父と同じ医者になった。
  2. アンドレイの外貌は、重々しく、粗野で、百姓然として、顎鬚、癖のない頭髪、がっしりした不恰好な体格、太った、放恣、頑固、街道筋の居酒屋の亭主、顔は荒削り、青筋がいっぱい、目は小さく、鼻は赤い、背が高く、肩幅が広い、手足も人一倍大きい。
  3. 足音は静か、歩き振りは注意深く、慇懃、まず自分のほうから道を譲る、期待されるバスでなく、細い柔らかなテノールで「失礼!」、首のちょっとした腫れ物のため、襟の柔らかいリンネルか更紗のシャツを着ている。
  4. 概して医者らしくない服装、同じ三つ揃いを十年も着ている、年中同じフロックコート、吝嗇ではなく、風采への無頓着が原因。


これらの描写をさらに短く要約することもできるが、そのような要約された命題を言いたいだけならば、そして読者はそのように要約しようとする生きものなのだから、最初から手短にそう言えばいいのである。

だから、そうではない冗長性が、文学と関係があるに違いない。

言葉のレベルで言えば、「重々しく、粗野で、百姓然として……」と似たような言葉を(内容の要約という点からは)不必要なほどたくさん並べていくやり方。また、構成のレベルでは、粗野な大男の外貌を示した後で、期待を裏切るテノールを持ち出すやり方。語りのレベルでは、チェーホフは客観的な態度を装いつつ、登場人物に距離を置き、彼を素気なく扱うことによって、読者の感情移入をむしろ拒んでいるようだ。

このような手口は、すべて引き延ばしの技法だと言える。言うまでもなく、神経を緊張させれば感覚が鋭敏になり、精神を集中させればイメージが鮮やかになるから、読解に際して、引き延ばしは、無意識かつ自動的に、読者の胸のうちにイメージを活性化し続ける。

読者が、実用的文章と同じ手順で内容理解を続けながら、それと比べて――ちょうど母国語に比べて苦手な外国語を読解するときのように(*07)――ずっと過剰な量の心的エネルギーを注ぎ込むために、それに比例して、過剰なイメージの奔流が読者を襲うのだ。

では、チェーホフは、いよいよ、そのような文学的技法を駆使して、アンドレイを生き生きと描いてくれるのだろうか。そう思って読んでいくと、しかし、アンドレイはどうも好きになれない魅力に欠ける男なのである。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-25(Fri) 08:42:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 03


小説の文学的理解とは何か、それは難しい問題だが、その前に、小説は言葉であり文章から成っているのだから、まずは言葉の理解、文章の理解作業がある。そこで私たちが文章をどう理解するかについて考えてみると、母国語についてはあまりに簡単に無意識の内に行われてしまうので、そうではなくて、中学のときの英語の授業で英文和訳したことを思い出してみると、英文和訳をするとき、中学生はまずすべての単語を予め辞書で調べておく。そして最初に利用する知識は、単語の意味ではなくて、品詞である。どれが動詞か、修飾語は副詞か形容詞か、そしてその分析結果を利用して、全体を基本文型にあてはめ、センテンスを主部と述部に分ける。次に、ひとつひとつの単語の意味を、文型に合わせて選択し結び付けていく。そのような困難で時間のかかる作業の果てに、不意に、センテンス全体の意味が立ち現れてくる。

以上のプロセスとの類推から、小説の文章レベルでの理解過程を考えてみると、逐次的に文章を読み進めながら、因果関係や意味関係によってモチーフの結びつきを分類整理し、それをまた新しく読み進めた部分と比較対照してその結びつきを考えていく、ということであり、読書は絶え間ない要約の過程だと考えることができるだろう。

そのような文章レベルでの理解と並行し、それに基礎付けられながら、なんらかの文学的理解が行われるのであり、文法がセンテンスの理解を方向付けるように、小説の形式が文学の理解を方向付けるだろう。

そこで小説の形式について考えてみると、そこには常に冗長性があるように見える。たとえば、言葉の冗長性、構成の冗長性、そして語りの冗長性である。

脚注・文献


登場人物の登場過程 | 【2009-09-24(Thu) 08:41:02】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
次のページ

お薦めサイト

福岡ストーリー|無料で読みやすい小説・ライトノベル

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。