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中二階のある家は感傷的か 14
10

「中二階のある家」には政治的メッセージも道徳的価値観の押し付けもない。

ただ、感傷的な名作である。

実際、当時のロシアの若者も「中二階のある家」を感傷的に感じたし、現代の読者もそうである。おそらく、百人にアンケートを取れば、大半が「中二階のある家」を感傷的な、そしてそれが魅力である作品だと言うだろう。「中二階のある家」が感傷的作品であることは、心理学的に十分根拠のある事実と言って差し支えない。にもかかわらず、「中二階のある家」が感傷的であることに価値を見出さず、どのように感傷的であるかを説明せず、そこから逃げるならば、それは批評の敗北である。

「中二階のある家」が感傷的作品である以上、私たちはその事実へ向けて、テキストから、テキストが指示している感傷を導かなければならない。

虚構テクストの類似記号は、表示体(Signifikant)の組合せを具体化するが、表示体は記号内容(Signifikat)を表示する役割はもたず、むしろ記号内容を生産するためのさまざまな指示を表示しているのである。(*14)


ここでイーザーが言う類似記号とは、登場人物などの作中の記号である。イーザーは「トム・ジョーンズ」の例で説明しているが、リージヤで説明し直すと、リージヤは理想的な女性であるように叙述されるが、それは理想的な女性を再現するためにあるのではなく、読者への指示としてある。テキストは、理想の女性としてのリージヤを示した後で、彼女が「わたし」にとって愛することもできず愛される可能性もない女性であることを示して、理想の女性とは何かについて読者により深く考え直させるが、そのようにテキストの指示によって導かれた読者が、潜在的にしか示されていないリージヤの記号内容を、自らの想像力を働かせて作り上げるのだ。

チェーホフは、そのような読者の戦略を十分見越して、この作品が道徳的、政治的に解釈できるようなそぶりをちらつかせながら、そのすべてを最後でぶち壊す。これはそのようなよく知られた小説とは違うのだと彼は宣言する。先行する長編小説とその作家たちに挑戦したチェーホフの「中二階のある家」が読者に指示しているものは、体験から導かれた概念ではなく、体験そのものの感覚である。リージヤやそしてジェーニャが作り上げられ、意味を持つ過程は、読者の現実の体験である。リージヤ‐ジェーニャの意味は、なつかしい夢のような私たちの読書体験そのものである。読書行為のあとで、リージヤ‐ジェーニャという言葉に接続する意味内容は、漸進的に変化するイメージをいちいち気に掛け心に刻んだなつかしい無二の私たちの読書体験そのものなのだ。

そして私たち読者がこの作品を読み終わったとき、私たちの心のうちに、リージヤ‐ジェーニャは過去のものとして確定する。リージヤ‐ジェーニャの意味はすでに体験され、読者の胸に事実として刻まれ、もう変化することがない。だから、私たちは、それと相同である類似記号「わたし」の気持ちがわかるのだ。彼もまた、思い出の中のリージヤ‐ジェーニャを永遠に忘れないからだ。

 ちょうどこの時、リーダはどこかから戻ったばかりで、鞭を手にして表階段のわきに立ち、均斉のとれた美しい姿体に陽射しを浴びながら、下男になにやら命じていた。彼女はせわしげな様子で、声高に話しながら、二、三人の患者を診察すると、事務的な、気がかりそうな顔つきで部屋から部屋をまわって歩き、あっちの戸棚をあけたり、こっちの戸棚をあけたりしていたが、やがて中二階に上がって行った。昼食の時にみなは永いこと彼女をさがしまわり、呼び立てていたが、彼女はもうスープの終わった頃に、やってきた。こうした細かい些細な出来事を、なぜかわたしは憶えており、なつかしんでいる。別に何一つ特別なことは起こらなかったのに、この日のことはすべて、ありありと思いだすのだ。食後、ジェーニャは深い肱掛椅子に寝ころんで、本を読み、わたしはテラスの下の段に坐っていた。どちらも沈黙していた。空全体が雲にとざされ、小粒の雨がぽつぽつと落ちはじめた。むし暑かった。風はとうの昔に静まり、この一日が決して終わらぬような気がした。(*15)


(了)

脚注・文献

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中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-17(Sat) 05:08:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 13



およそ小説の歴史が始まって以来、作者と読者は互いの戦略によって相互に作用するゲームを続けてきたと言えるだろう。

それは生物の進化に似たところがある。

というのは、たとえば、ある植物が繁栄していると、それを食料にするある動物もまた繁栄するが、植物は皮を厚くしたり棘を持ったりして、食われることに対抗し、それに対して、そのように進化した植物を食べることのできる新しい動物が現れ、他の動物より有利になる、といったことと似て、ある小説が誕生すると、それを読みこなす戦略を持った読者群が誕生し、次には、そのような読みをすることを前提として、その裏をかく戦略を持った新しい小説が誕生するといった具合である。

作者と読者は、相手の戦略を組み込んで自分の戦略を立てるのだが、相手の戦略が変化するのだから、それに合わせて相互作用が起こり続ける。

チェーホフが小説を書いた時代は、イーザーが好んで引用するような古典的長編小説が中心だった時代であった。さまざまな社会規範が小説に導入され、それぞれの人間の政治的道徳的価値観が対比され、読者は人間の本質を追及して、意味内容を引き出す努力を続けていた。

しかし、短編では、そもそもそのようなたくさんの人物や事件を比較対照する紙幅がない。かといって、チェーホフは、起承転結のはっきりした一幕ものの演劇のシナリオやコントのようなものを目指したのでもなかった。

チェーホフは当時の読者たちの戦略を十分心得ていた、彼自身がその時代の小説に精通した理想的な読者だった。そのようなチェーホフが短編において採用した戦略が、意味を排除したイメージの漸進的変化ではなかったか。

意味を離れて改めて考えてみると、ベロクーロフは人物ではなく、前半でリージヤと「わたし」の対立を隠す手法であると気付く。リージヤはジェーニャを子供扱いするためのトリックだし、ジェーニャは、リージヤの絶対美を浮き立たせる背景である。美人だがそっけない、献身的だが独善的にも見えるリージヤ、幼いようだがそうでもない、そうでもないが一家の主人であるリージヤには逆らえないジェーニャは、十分にありうる人物像であり、リージヤとジェーニャの対照も、女性の魅惑の典型的な二つの側面であり、そこに読者が止揚すべき対立はない。読者に複数の可能性が示されることもなく、可能性の否定が読者を刺激して弁証法的なより高いレベルでの意味内容を引き出すこともない。

けれども、読者がイメージの漸進的変化を緊張感を持って読み続けた読書行為は確かに存在した。そして色々な予感と共にあった、政治的テーマ、道徳的テーマがすべて投げ捨てられた結果、そこには、なつかしいものの魅惑の発見と喪失という体験だけが残った。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-16(Fri) 05:07:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 12


一見意味ありげなテーマが提出されて、それが確定しないままうち捨てられる構造は、同じチェーホフの「六号室」にも顕著に表れている。この作品では、大病院の院長であるアンドレイが、病院敷地内の別館である六号室に長く軟禁されているイワンという若者と哲学談義めいた会話を交わす。そのテーマを要約すると次の通りである。


  1. 無辜の人間が不当に拘束されることがある。
  2. 魂の不死すなわちキリストを信じるか。
  3. 外的な苦痛は何を意味するか。


一番目のテーマについて、イワンは、自分が不当に六号室に監禁されていると言い、アンドレイは、無意味な監禁はありえることだと笑顔で答える。しかし、イワンを治癒不可能な狂人だと診断したのはアンドレイその人である。そしてイワンは、あなたは病気だと言われて、そうだと答える。また、その後も、アンドレイがスパイであるという妄想を示す。

テキストは、イワンが狂人であると明らかに指示しており、イワンの病院収容は不当なものではない。彼の入院が正当かどうかは、彼が病気かどうかと関わっているのであり、彼は病気であり、そのことと、病院内での待遇が十分でないこととは、別の問題である。

二番目のテーマについて、イワンは魂の不滅を信じると言い、アンドレイは信じないと言う。ところが、アンドレイはその後、教会に通うようになるのである。そして冒頭の伏線について言えば、彼は若いころ宗教家を志したと確かに書かれてある。

三番目のテーマについて、アンドレイは、ストア派の哲学を持ち出して、六号室も自分の書斎も変わらない、真の幸福は内面にあり、生活を軽蔑するべきだと嘯くが、結末では、六号室に収容され、長年の患者たちの苦痛を思い知る。

つまり、アンドレイとイワンの対話はことごとく視点として確定する前に否定されるのであり、なんらの社会規範の導入にもなっていないのであり、アンドレイとイワンそれぞれの意見を勘案して意味を引き出し、そこから読者が美的価値を生産する契機にはなっていないのである。意味を引き出す前に、それが嘘であるとわかってしまうからである。

イーザーはテキストの空所と否定の構造について、「トム・ジョーンズ」を例に挙げて次のように説明している。

まず、記号の直接表示によると、ブライフィルは信心深そうに見え、オールワージイは完全な人間である。[中略]まずブライフィルがオールワージイの前に現れる。すると、それまで読者の記憶に保有されていたオールワージイについての遠近法が現在に呼び戻される。[中略]一方が偽善者、他方が純真とわかると、三種の遠近法のセグメント――その二つは人物の遠近法で、残り一つは語り手の遠近法――から等価系が作り出され、それは一貫した形態の性格をそなえている。(*10)

純粋なオールワージイ、偽善者ブライフィルという形態が完結したものと見なされるならば、結論は単に、オールワージイはタルチュフ的人間に欺かれる、ということにすぎないであろう。だが普通の読者なら、そのような形態的意味で満足するわけがない。[中略]そこで、読者の注意は、判断に耐える基準とはどのようなものかという問題に向けられる。[中略]ここで指標となるのは、語り手が発する信号の重みと、形態をうることで明らかとなったオールワージイの〈円満具足〉には、なにか欠陥があるという逆説的な発見である。(*11)


次々現れるモチーフを把握し、対照し、意味を引き出していく読書過程で、美的作用が現象化していくとイーザーは言う。イーザーはまた、その過程に、筋内容のレヴェルと意味内容のレヴェルの二種類の様態があると言って、ひとつは、人物の関係や筋の展開から浮かび上がるもので、ある程度の客観性を持っているが、二つめは、並立的に提示された複数の人物や事件から、弁証法的に読者が獲得する意味内容であり、それぞれの読者の主観的選択決定であるという。ただし、後者も前者と相互依存の関係にあるから、読者の恣意ではなく、相互主観的な妥当性を持つという。(*12)

「六号室」においては、いかにも社会規範を導入したかのような哲学談義めいた独白や会話が長々と続くのだが、それらから弁証法的に読者が意味を獲得しようとすると、その根拠が次々うち捨てられてしまう。アンドレイが世俗的な権力者を象徴しているなら、なぜこんなに弱々しく無抵抗に患者へと転落していくのだろう。無辜の人間が不当に拘束されるというテーマが提出されたのなら、なぜアンドレイが不当な拘束と戦う場を与えられることなくその翌日にあっさり死んでしまうのだろう。

狂人であるイワンは、病院の院長であるアンドレイを指差してこう叫ぶ。

あなたは生まれてこのかた誰からも指一本さわられたことがない、おどかされたこともなければ、ぶたれたこともない。そうして雄牛そこのけに頑丈ときてる。おんば日傘で育ち、親のすねをかじって勉強し、それから一足とびに結構な職にありついた。二十年もその上も、ロハの官舎で暮らして、暖房もあれば明かりもある、女中までついている、おまけにどう働こうが、どれだけ働こうが勝手きままで、だいいち働かなくたってかまわない。生来あなたはなまけもので、いくじなしで、だから何ごとにもわずらわされぬよう、じっとしていられるように自分の生活を築いてきた。仕事は准医師その他のやくざどもにまかせっきり、ご当人はぬくぬくと落ちついたところにすわりこんで、せっせと金をため、ときどき本を読んでは、いろんな高尚なたわごとを考えたり、(イワン・ドミートリチは医師の赤鼻を見た)酒をお飲みになったりして、なぐさんで来た。要するに生活をろくにみやしなかったんだ、生活なんて全然知りゃしないんだ、現実なんかただ理屈の上でしか知らないんだ。(*13)


イワンの批判は、ソファに座り、エアコンの効いた部屋で読書している私たち自身にそのまま当てはまる。私たちは、「六号室」がフィクションだと高をくくって読んでいるので、それを理屈の上でしか考えていない。そして結末において、アンドレイが病院の現実を思い知って驚いたのと平行して、言い知れぬ不安や恐怖を感じて驚く。もちろん、実在しないアンドレイと実在する読者の驚きが同じ原因に拠ることはありえない。しかし、作品中のイメージの変化が読者の読書体験の変化をなぞっている。

チェーホフは、現実の人間の変化を抽象的な理念に変換して、因果関係や論理によって理解し、その上で、それぞれの理念を象徴する人物や事件を創作し、架空の小説に再配置したのではない。

アンドレイがこのあとなぜ患者になってしまったのか、その心理的根拠は不明確で、因果関係を持った決定的事件も起こらない。ただ次第に内向きで無気力になっていくアンドレイの様子が、イメージの漸進的変化によって示されるだけである。チェーホフは、変化そのもののイメージを描いたのだと言える。そしてその変化は読者の読書過程での心理的変化とパラレルになっている。

「中二階のある家」に戻って考えてみると、リージヤ‐ジェーニャの漸進的イメージの変化もまた、社会規範の小説への導入ではなく、読者に止揚を促す緊張を持った対照でもない。イーザーが読者は空所を結合するという場合、それは、人物や事件から何らかの意味を引き出すということなのだが、リージヤの独善的イメージが次第に強まり、「わたし」が彼女を正しくないと言い、それに対照するかのようにジェーニャが芸術を賞賛し続けた先には、「わたし」のリージヤへの感情的暴言があり、それによってリージヤの政治的態度に関するテーマは、なんの意味づけもできないまま、投げ捨てられてしまう。結末に至っても、リージヤの政治的見解は不明のままであり、ジェーニャとの恋愛は頓挫し、そのような変化が暗示していたはずの意味が投げ捨てられてしまう。

ここにあるのは、変化のイメージそのものであって、それ以上ではない。しかしそれゆえに読者は常に緊張を保ちつつ読書行為を続けなければならない。

イメージが変化するたびに、読者は、それまで読んだ部分を地平として、現在読んでいる部分を主題化してみる努力を要求される。だから、漸進的イメージの変化は絶え間ない努力を要求する。それは結局実を結ばないまま捨てられる努力なのだが、読者がそこで努力することは間違いない。イーザーの言うとおり、読者は一貫性形成のために意味を引き出そうとする生きものだからである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-15(Thu) 05:04:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 11



事件を通じた心理変化に根拠付けられない人物のイメージの漸進的変化は、チェーホフの短編によく見られる構造である。チェーホフは、しばしば、心理的動機付けや因果関係をほとんど示さず、ただ言葉の配置の重点をだんだんに変化させてイメージを操作する。

たとえば、「六号室」の主人公、アンドレイの医者から患者へのイメージの変化を見てみると、因果関係や心理的原因が不明確で、また冒頭にすでに二つの対照的イメージが指示されている。

ひとつは、大病院の院長であり金持ちで権力者で、腐敗した病院を放置する怠惰な悪者のイメージ、もう一つは、小心で若いころは宗教家を志したことがあり、裸足の患者、モイセーイカを見かけて靴をあつらえてやれと命じ、また別の患者イワンに深く同情するイメージである。医者から患者への変化に合わせて、この二つのイメージの割合が変化して行き、最後には、病院のひどい状況を自分のこととして実感する。

「ケースに入った男」では、冒頭で規則ばかり言い立てるベリコフという男に毎日見張られ口出しされる息苦しさが語られる。この男は、もう少しで、快活で賑やかな女性、ワーレニカと結婚するところだったと語り手が言って、その顛末が描かれる。陽気なワーレニカが次第に前面に出てきて、回りもしきりにベリコフに結婚を勧める。本人もだんだんその気になっていくのだが、結末においてベリコフがあっさり死んでしまい、それを語り手はせいせいしたと言い、恋愛を称揚する話ではないとわかる。語り手は、ベリコフが死んでも、自由への束縛は社会に満ち溢れていると結論する。滑稽なベリコフに向けられていた視線が最後に不意に自分たちに向けられて、ベリコフの問題ではなく自分自身の問題として改めて実感する。

「中二階のある家」に戻って、リージヤの変化は、美人で有能で誠実で利他的なイメージから、頑固で独善的なイメージへの変化のように思える。そういうことは往々にしてあるし、それはまたある社会規範を予想させる、正しい行いのために必要なものは何かと言ったような。

けれども、「わたし」とリージヤとの対話で、まさにその問題が焦点化しそうに見えた途端、「わたし」の無責任で感情的な暴言によって、議論が打ち切られてしまう。

リージヤの、貧しい人々を少しも助けることにならない活動よりも、芸術のほうが尊いというテーマが新たに提出されたのだろうか。そう思って読み進むと、それに合わせるようにジェーニャが登場し、しきりと芸術を褒め称える。けれども「わたし」はすぐにこう言う。

「もちろんですとも。僕らは最高の存在ですからね、もし僕らが人間の天才のあらゆる力を本当に自覚して、最高の目的のためだけに生きるとしたら、最後には僕らは神のようになるでしょうよ。しかし、そんなことは絶対にありませんね――人類は退化するにきまってるし、今に天才など跡形も残らなくなってしまいますよ」(*08)


さてそうすると、芸術至上ではあるがその実現の可能性はないという虚無主義が、ここで提出されたのだろうか。それは先のリージヤとの対話で、現状を支持することになるから絵を描かないと言った言葉とも整合しているようだ。ところが、直後に「わたし」はこう言う。

わたしは画家としてジェーニャに好かれ、自分の才能で彼女の心を捉えたのであり、今はただ彼女一人のためだけに絵を描きたくてならなかった。わたしは自分の小さな女王としての彼女を想像してみた。この小さな女王は、これから先、わたしといっしょに、これらの木々や、野原や、霧や、夕焼けや、自然などを支配して行くことだろう。(*09)


これはまたずいぶん能天気な言葉が続くものだ。今まで、正しい行いとか、実業と芸術の対立とか、芸術と現実の相克とか、あれこれ考えてきたことがバカらしくなるほどではないか。「わたし」が絵を描かないのは芸術的矜持からではなかったのか。「わたし」の言う才能とは、世界を救い神に至る道ではなくて、ただ目の前の小娘を口説くための方便に過ぎなかったのか。

けれども、政治運動よりも小さな恋のほうが大切だという話なのかもしれない。「わたし」を省みないリージヤが独善的であるという証拠はどこにもないが、少なくともジェーニャは心を開いて「わたし」の言葉を聞いてくれる。人間にとって大事なのは、心を通い合わせることであって、それがなければどんな政治運動も、本当は人々を救えないだろう。

ところが、誠実な読者がテキストの指示に従って強いてそのように考えようとした途端に、結局、結末で「わたし」はジェーニャにあっさり袖にされてしまうのである。

ジェーニャから手紙が届いて、姉には逆らえないと書かれてあった。この言葉の意味を考えるに、言葉どおり、ジェーニャはまだ幼すぎたのか、いずれにせよ、それほどは「わたし」を好きでなかったのだろう。かくして大きな運動の影で心を通い合わせる小さな恋もまたばっさり否定され打ち捨てられてしまった。

あるモチーフがそれまでのモチーフを否定する形で提出されると、読者がその意味内容についてより深く考える契機を与えているように見える。しかし、「中二階のある家」においては、それらの新たなモチーフが十分機能しないまま次々使い捨てられていく。読書行為を通じて次々モチーフを作り上げていっても、それらはどれも安定した視点として確定するに至らない。「中二階のある家」において、因果関係や心理的原因が見えにくいのは、このためである。

リージヤは有能かつ独善的かもしれないし、無能かつ献身的かもしれないし、有能かつ献身的かつ独善的かもしれない。このようなイメージは互いに対立しあうように見えるが、一人の人格の中で両立しないものでもない。そしてリージヤが正しくないという「わたし」の言葉は、それを裏付けたり否定したりする証拠のないままうち捨てられてしまう。

「わたし」が単に無視されたことを怒っているだけであって、「わたし」の発言は信用するに足りないだろうという気もする。そしてそうであっても、リージヤが独善的である可能性が否定も肯定もされないことに変わりない。もしリージヤが独善的でないとすると、ジェーニャがしきりと芸術を褒め称え、「わたし」と心を通い合わせることも、独善的なリージヤの対照として提出されたモチーフではないことになる。

いずれにせよ、リージヤが独善的であるというのが、「わたし」の偏った視点によるものであるなら、その後で、リージヤが実際はそうではないというテーマが提出されなければならないはずだし、リージヤがやはり独善的だというなら、それを示す事件が起こらなければならないはずだが、テキストはそのことに無関心であり、肯定も否定もしないまま話が終わってしまう。

主人公が熱心に主張し始め、声高に叫びだすと、なぜか議論が空回りして、アンチ・クライマックスの様相を呈してくるのが、いつものチェーホフであるが、政治的課題や道徳的規範についてリージヤと論争しているのかなと思っていると、「わたし」のあまりに無責任な発言が全面に出てきて読者は困惑する。そしてその直後に、「わたし」は、ジェーニャが自分を慕ってくれるから、彼女は自分の小さな女王だ、と言い出すのである。

結局のところ、この男が気にしているのは、政治でも貧しい人々でもなく、自分自身の小さな自意識でしかないことが判明する。それはまた、リージヤの漸進的イメージ変化の再考を促す。「わたし」はリージヤを正しくないと言ったが、「わたし」はもはや信用できない語り手であり、やはりリージヤは誠実で献身的な女性である可能性が高く、とすれば、そのようなイメージに変化はない。変化は、「わたし」の主観的視点を通じて発現していたのであって、それは、なつかしい夢のようなリージヤから、地主階級で政治運動家としても優秀で、貧しい人たちを献身的に助ける人格者で、つまりはどうにもこうにも高嶺の花過ぎて、貧乏画家には手出しのしようがない完璧な美人へのイメージの変化である。

ジェーニャの変化については、ジェーニャもまた、目の前の夢のような体験から、過ぎ去った思い出に変化してしまった。ジェーニャは姉に反対されたと言い訳していたが、彼女が今後いくら成長しても、「わたし」との再会はない。なぜそのように断言できるかと言うと、日没直前の小さな輝きは、日没と共に消え去るほかないさだめだからである。

このような類推による決め付けは、現実の世界では暗黒中世的誤謬だと言われるだろうが、小説の世界では十分に有効である。二人の再会を暗示したければ、色々な小道具を使ったり台詞を入れたりして、テキスト構造がそれを暗示することはいとも簡単なのに、一切そのような構造が見られない以上、「わたし」がジェーニャと再会できる可能性は皆無であると断言できる。リージヤが反対しようと反対しまいと関係ない。リージヤなんか、本当は存在しないんだから。それに対して、テキスト構造は現に私たちの目の前に実在しているのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-14(Wed) 05:02:56】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 10

次に、ジェーニャのイメージを見ると、これもまた段階的に変化していることがわかる。


  1. 冒頭では姉妹がワンセットで描写されるものの、美人という言葉で修飾されるのはリージヤだけである。ジェーニャは「あどけないほどの若さ」「恥ずかしそうな様子」と描写される。そもそも男がある女性を美人だと言ったら、それは事実の指摘ではなくて興味の対象である。というのは、小説の外側の準拠枠だが、小説の冒頭において、まだそれぞれの言葉の対応関係がはっきりしないうちは、往々にしてそのような常識的な準拠枠で補ってしまうものであり、だから私たちは、最初のうち、てっきり、「わたし」がリージヤのほうに興味を持っているとの予断を持ってしまうのである。そしてその後ろにジェーニャの愛らしいイメージが隠されてしまう。
  2. 次に「わたし」が目撃するのはリージヤのみで、彼女について語るベロクーロフの言葉の中に、リージヤが「母と妹と三人で暮らしている」とあって、ジェーニャに関する言及はそれのみである。
  3. 祭日に家を訪問すると、まずはリージヤの描写があり、そのあとに今までよりはかなり長くジェーニャの描写がある。ジェーニャは「わたし」に親しく話しかけるが、彼女が家族から子供扱いされていることは、「わたし」の恋愛の対象外であるかのような印象を与える。
  4. リージヤに嫌われている描写が短くあり、そのあとにずっと長くジェーニャとのデートの次第が語られる。ジェーニャは「わたし」を芸術家として尊敬し、ボートを漕いだり果実をつんだり、芸術の話をしたりする。ジェーニャと「わたし」の交際は深まるが、「わたし」がジェーニャをどう思っているかはまだはっきりとは語られない。
  5. 「わたし」のベロクーロフに対する発言の中で、リージヤを賞賛しているそぶりを見せながら、なぜか最後に「じゃ、ミシュスは? 実にチャーミングだな、あのミシュスって子は!」という言葉が脈絡なく付け加えられる。
  6. リージヤとの激しい議論の後で、ジェーニャを愛していることが明示的に語られる。自分を好いてくれているジェーニャのために絵を描きたいという「わたし」の言葉は、現存の体制を支持することになるから絵を描かないと言ったリージヤに対する言葉と齟齬があり、「わたし」が信用できない語り手であるとわかる。


ジェーニャは、十七、八のお年頃である。そんなジェーニャがもし実在の少女なら、彼女をまだ若いと言うこともできるし、いや、十分に恋愛の対象であると言うこともできるだろう。それは彼女がどのような少女かという現実の根拠から導かれるだろう。しかし、残念ながら、ジェーニャは存在しない。

存在するのは、前半の子供扱いする言葉での修飾の繰り返しと、後半でそのような言葉がなくなって、「わたし」とのデートや愛の告白が語られるということのイメージの関係性である。このような言葉の配置が、読書過程における読者のジェーニャに対するイメージの変化を裏打ちしているのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-13(Tue) 05:01:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 09



「わたし」は、前半では姉妹を一体化して好ましい印象を語るが、後半ではリージヤが正しくないと言い、ジェーニャのみを愛していると言う。リージヤに対する悪感情は、話が進むにつれ、少しずつ小出しにされ、ゆっくりとイメージが変化していく。


  1. 最初に「わたし」が散歩中にリージヤを見かけるとき、すでに、「勝気そうな」「わたしの方になどほとんど注意を払わなかった」と書かれてある。けれどもその前に「非常な美人」とあり、すぐ後にジェーニャのはにかむ様子が置かれ、「この二人の愛くるしい顔」とひとまとめにした上で、「まるですばらしい夢でも見たような気持ち」になったとあり、リージヤのマイナスイメージはほぼ隠されている。
  2. 次にリージヤを見かけたとき、彼女の勤勉で利他的な様子が紹介され、ベロクーロフが、彼女を自立心の強い有能な女性であると語る。ただしリージヤはまったく「わたし」に話しかけない。
  3. 祭日にリージヤの家を訪れたときは、リージヤの「微笑も見せぬ、生真面目な顔」「問いただしていた」「非難がましく言った」そして「恥ずかしくないこと?」などの台詞はすべてベロクーロフに向けられ、「わたし」とリージヤの対立はその後ろに隠されている。あまつさえ「わたし」がベロクーロフを内心手酷く軽蔑するので、リージヤほど有能ではないにしろ熱心に働いているベロクーロフより無為徒食である「わたし」のほうがリージヤに近しいかのような錯覚さえ感じてしまう。
  4. 第二章では、初めて「わたしは彼女によく思われてなかった」という直接的な言及が登場する。しかしここでも、この発言の前に、リージヤの勤勉で誠実な活動や「美しい、常に端正なこの娘」などの賞賛の言葉が並び、この発言の直後に、ジェーニャの愛らしい描写が長く続き、途中ジェーニャには「それは姉さんが正しくないからですよ」と言いつつも、なにがどう正しくないのか説明のないまま、さらには、姉妹と母親と召使までひとまとめにして賞賛する言葉が付け加えられるために、リージヤとの根深い対立のイメージが薄められている。
  5. 第二章の終わりごろに、ベロクーロフがやってきて、章分けされていないものの、ここにイメージの区切りがあると指示されている。無能なベロクーロフ、うら悲しい「わたし」、リージヤ、ジェーニャの四つのモチーフがここまで繰り返しこの順序で登場してきたが、その構成を復習するかのように、ここでもその四つのモチーフが同じ順序で短く繰り返される。さらには、「わたし」の台詞が、リージヤとジェーニャのモチーフのこの順序が重要であることを念押しして繰り返す。今までは、リージヤの容貌や性格への長々とした賞賛と、愛らしいジェーニャとの数々の楽しいデートよって挟まれその間に密かに埋め込まれていたリージヤへの反発が同列に並べられ、それが他のモチーフと同等かそれ以上の強い力を持っていることが示される。
  6. 第三章では、「わたし」とリージヤとの対立が最大のモチーフになり、前景化される。


なぜリージヤのマイナスイメージは、小出しにされ、少しずつ読者に示されるのだろうか。そしてなぜ、リージヤのイメージの変化は、事件によって根拠付けられたり、登場人物の心理的変化を伴ったりしないまま捨て置かれるのだろうか。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-12(Mon) 04:59:50】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 08



さて、ベロクーロフも「わたし」も、リージヤもジェーニャも、並立する対照的な二つのイメージによって指示されているが、二つの意味を持つひとつのモチーフは、ミステリで頻繁に使われる手法である。

この問題に関心を持つ人々は、自分でもこれと類似した場所を選び出せることだろう。まさしく根本問題とは、いわばある一点から一本の線にたいして二本の垂直線をおろすことが可能かということになる。作家は一つの特徴を手がかりにして、一致するはずのなさそうな二つの事物が一致する場合を探している。(*07)


ここでシクロフスキーが言っているのは、ミステリで常套されるダブルミーニングである。

たとえば、シャーロック・ホームズの登場するある短編では、最初の被害者が「まだらの紐(band)」と叫んで死ぬので、それが犯人と係わり合いがあると考えられるが、紐(band)に二つの意味があるために、当初、ジプシーの一味(band)が犯人ではないかと思われるが、真相は、まだら模様の蛇が犯罪に使われていて、被害者はそれをまだらの紐(band)と呼んだのである。

つまり、二通りの意味に取れるモチーフの傍に、あるモチーフを配置すると、第一の意味を、また別のモチーフを配置すると、第二の意味を、読者は受け取るのだが、それというのも、読者がただ小説内の言葉と言葉の関係から意味を構成するからであり、読書過程において、時間を空けてそれを順次に獲得していくからである。

ベロクーロフについて見てみると、彼は働き者のイメージと無能な飲んだくれのイメージの二つのイメージを指示されているが、前半では、有能なリージヤと対比されるために、無能者のイメージのみが前景化される。ジェーニャは、まだ幼いというイメージと、恋するべく十分に成熟しているイメージの両方を持つことができるお年頃だが、前半では、家族に子供扱いされることばかりが強調され、母親がそれとなく結婚話をする年上のリージヤのイメージの後ろに隠れてしまう。

ダブルミーニングと並んでよく使われるミステリの手法が、レッドヘリングである。たとえば、アガサ・クリスティの「邪悪の家」では、以下少々ネタバレするが、いとこ同士の若い女性二人が登場し、その二人は、一方が活発でもう一方がおとなしい性格であり、ある男性がそのどちらかを愛していたのだが、彼がどちらを愛していたかが重要な手がかりとなる。けれども二人は仲良しでいつも一緒にいて、そしてその男性は二人のどちらとも親しくしていたので、どちらが彼の本当の恋人だったか、なかなかわからない。

あるいは、同じクリスティの「もの言えぬ証人」では、犯人が二人組であるだろうと強く推察され、容疑者グループがいずれも兄弟や恋人や夫婦などの二人ずつのグループになっており、どの二人組が犯人だろうと考えているうちに、結末で、単独犯であったことが明かされる。

ここではあえて「中二階のある家」で使われている手口と似たものをミステリの中から探してきたが、それは簡単に見つかったし、というのも、ミステリにおいてもまた、読者が構成するイメージをテキスト構造によって操作するというやり方で、真犯人や手がかりを隠すからである。

けだし、ミステリもまた言葉しか使わないのだから、文学一般の手法に拠るほかないのだが、ミステリ、特に本格推理小説に限っても、世界中に真砂の数ほど存在し、その多くが、たいていの読者から真犯人を隠すことに成功している。この事実が証明しているのは、モチーフの配置を工夫することで、読者のイメージ構成過程をかなり正確に操作しうるということである。

本格推理小説における真犯人のイメージは、結末直前までは無辜の善良な人物であり、結末において唐突に極悪な犯罪者のイメージに変化する。もちろん、真犯人は結末で急に犯罪者に変化するのではなく、最初から最後まで犯罪者であり、叙述的にそれを隠しているのである。

このような人物イメージの変化は小説全般から見ると少数派であろう。なるほど、たいていの小説では登場人物のイメージが変化するが、その場合、変化の原因が語られることのほうが普通だ。たとえば、少年が試練を経て成長するとか、少女が恋愛を通じてお金より大事なものがあると気付くとか、そういった登場人物のイメージの変化は、心理的変化であり、心理的変化は何らかの事件を通じて示される。

そのような意味において、「中二階のある家」の登場人物のイメージの変化は、一般的な小説と異なり、ミステリの手法に似ている。登場人物自身の心理的変化に根拠付けられることなく、叙述的操作によって人物のイメージを徐々に変化させているからだ。しかし、この愛らしい短編には隠すべき犯罪も真犯人も登場しないので、なぜダブルミーニングやレッドヘリングに似た構造が存在するのか、今のところ不明である。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-11(Sun) 04:58:20】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 07


小説はすべて虚構だから、その中に登場するどのモチーフもすべて現実に根拠を持っていない。リージヤだとか、ベロクーロフだとか、美しい並木道だとか、鐘楼の屋根の上の十字架だとかは、解釈以前はどれも同じ程度の重みしかなく、現実から遮断され、小説の中の言葉の組み合わせの中から意味を推測するほかない。

リージヤは人間でもなく女性でもない。ただの言葉である。

それが何を意味する言葉なのかは、小説中のその他の言葉を手掛かりに読者が構成していくほかない。モチーフは読者が作り出すのだ。

リージヤというのもモチーフだし、リージヤは美人だというのもモチーフである。リージヤは独善的かもしれない、というのもモチーフである。リージヤとジェーニャの対照から導かれる言葉では説明しにくい美的価値もモチーフである。モチーフによって読者の参与の度合いに濃淡があるにせよ、それらが読書行為を通じて引き出されるものであることに違いはない。読者の参与の大きいイメージは、テキスト極にある参与の小さいイメージに指示されている。人名は、最もテキスト極寄りのモチーフだが、そこから生き生きとした登場人物の活躍を思い浮かべるまでの間に、モチーフが対応付けられ、積み上げられ、イメージが豊かになっていく。

小説はたいてい、人物や事件についての説明が延々と続けられるのだが、それらは小説の美的価値を作り上げるために読者の前に並立して置かれている。たとえば、ベロクーロフが実在の人物ならば、「ベロクーロフは若く、早起きで、いつも半コートを着こみ歩き回っている」という言葉は、発話者のベロクーロフに関する判断である。だから、「ベロクーロフ」が実在の人物に付けられた名前で、それについての陳述の可否が問われる。「ベロクーロフは働き者だ」と約めて言えば、「ベロクーロフ」が主語で、「働き者だ」の述語と対応している。

ところが、ベロクーロフは虚構なので、この言葉はそのような命題の意味を持たない。読者から見て、それは、「ベロクーロフかつ働き者」なのである。だから、ベロクーロフと働き者とが並立するような位置に、自分の視点を移動させて、その意味を確定する作業が必要となる。この二つの思考プロセスはまったく異なるのであり、小説を読み進むにつれ、両者の違いはますます大きくなっていく。たとえば、「リージヤは正しくない」ということが、「わたし」の台詞として語られるが、あくまでも読者の前には、「リージヤかつ正しくない」なにかとして示されるのである。そのとき読者が考えているのは「なにか」であり、「リージヤ」と「正しくない」という言葉がそれを指示している。たとえこれが、三人称で地の文で語られていたとしても、事情は同じであって、リージヤをどう考えるか、正しいとはどういうことか、というものを同時に並立して考え、両者が共に成立する視点を探して、読者は移動し続ける。

現実の言葉は、現実を指し示しているから、それについての判断が示される。現実の何かから測って、すべての言葉の位置関係を決定することができる。一方で、小説の言葉はすべて現実から切断しているから、その言葉の位置関係は、他の言葉との関係によって決められるし、だから読者の前にはすべてが並立的に示されると言えるのだ。

並立するモチーフから読者が意味内容を獲得するとき、それもまたモチーフである。ベロクーロフを軽蔑していた「わたし」が、無為徒食であるためにリージヤに疎んじられるとき、ベロクーロフと「わたし」が異なる価値観で対照され、新しい意味内容の生成を読者に促す。

読者は、実務に没頭して神経をすり減らすベロクーロフのような生き方と、芸術至上主義の生き方を比較して、それぞれの価値規範の長所と欠点について考える。そのとき読者の生成した意味内容は、並立するベロクーロフや「わたし」の描写に足場を置いている。したがって、読書過程でのベロクーロフや「わたし」についてのイメージの変化と共に、その上に立脚しているモチーフのイメージも変化していく。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-10(Sat) 04:56:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 06
言葉しか寄る辺のない私たちは、冒頭で「わたし」が並木道を歩くとき、その言葉の意味を考えながら読んでいるのだが、それはつまり、並木道を歩くとはどういうことか、というイメージを思い描いているのである。それは、自分の知っている人や並木道について思い出すのとは、まったく異なる思考プロセスである。「わたし」と「並木道」と「梢の先の金色の光」の関係を考え、「鐘楼の屋根の上の十字架の輝き」との対応を考え、意味を構成するプロセスである。(*06)そして小説は虚構だが読書行為は現実であり、そのような読者の現実の行為に根拠付けられて、そのような事実の意味として、小さな輝きが浮かび上がってくる。

暗い並木道の中に一人の男が立っているイメージは、男を外側から見る視点である。読者は一度はそのような視点に立って想像してみるはずである。ところが、そのあとで金色のきらめきを発見するシーンでは、男の視点に立たなければ、うまくイメージできないだろう。金色は、梢の先のごく一部であって、また燃えるように輝く十字架は池の対岸の先に小さく見えるのみであり、全体は日没直前の暗い場所なのである。その中で、「わたし」という個人的視点が、客観的には無視できるほど小さく部分的なきらめきを、特別に発見するのである。

だから、そのとき、読者は「わたし」の内面に視座を置いて、「わたし」の立場になって情景を思い浮かべる必要がある。そうしなければ、この文章を十分に理解できないからである。

私たちは、文章理解の当然のステップを踏んでいるだけなのに、それが結果として、「わたし」の視点への移入を呼び起こし、小さな輝きを見ることが発見という特別な意味合いを帯びるのである。

こうして読者は、読書行為によって小さな輝きのイメージを獲得し、次に、(風景の描写のあとに置かれた)「なじみの深い、なつかしいものの魅惑」と、(姉妹の描写のあとに置かれた)「ずっと前から見知っている」「すばらしい夢でも見たような気持ち」という同じ系統の指示に従って、小さな輝きの発見と姉妹の発見を同一視するのである。

このとき、リージヤ‐ジェーニャ姉妹は、小さな輝きを発見した読者の読書行為そのものに結び付けられる。読書行為は、現実であり、あるひとつのイメージが構成されるまでの間、遂行されるひとまとまりの体験である。

ここに、リージヤ‐ジェーニャという虚構の言葉が、現実の実体的意味を持つのであるが、それというのも、作品の意味の対応関係は、テキスト内の言葉同士にとどまらず、テキスト極から読者極までの読書過程で生じるすべてのモチーフの対応関係だからである。テキストは読まれることを前提にその結果を先取りして指示しており、リージヤ‐ジェーニャとは、読書行為の過程で読者の心の中に生まれる構造に予めつけられた名前である。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-09(Fri) 04:54:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 05



中二階のある家が登場するのは、冒頭で「わたし」が姉妹を初めて見かける直前と、最終章でジェーニャに門のところまで見送ってもらったあと、未練がましく引き返したときである。

可愛らしく、あどけない、古い家が、中二階の窓を眼のように光らせてわたしを見つめ、すべてを理解してくれているような気がした。[中略]ミシュスの寝起きしている中二階の窓に明るい光がさし、やがて落ち着いた緑色に変わった――ランプにシェイドをかぶせたのだ。[中略]かれこれ一時間近くたった。緑色の灯が消え、人影も見えなくなった。(*05)


最後になって、ジェーニャの部屋が中二階にあるとわかり、中二階のある家と優しいジェーニャを「わたし」が同一視していることがわかる。

このようなテキストの指示を読者がどう解釈していくかを考えよう。

リージヤやジェーニャ(ミシュス)は、ロシアの女性名だから、そのような現実の歴史的意味をそのまま採用してかまわないように一見思える。けれども、ひょっとすると、リージヤは飼い犬の名前かもしれないし、テロの暗号名かもしれないし、スポーツカーの商品名かもしれない。それらはテキストの他の言葉との関係の中から推測していくほかない。

つまり読者は、小説中のすべての言葉について、現実の経験や知識による予断を禁止されている。そのような厳しい条件下で、古い家が「可愛らしく、あどけない」と修飾され、中二階がジェーニャの部屋であると示されると、ジェーニャと中二階のある家とを隣接して考えなければならなくなる。ジェーニャも中二階のある家も、どちらも小説の中の言葉として同等であり、現実的根拠を持たないから、両者を関連付ける小説の中の他の言葉のみが確かな判断材料なのである。

だから、現実の世界で「可愛い家」と言う場合とは、その言葉の重みがまるで違う。

現実の世界の家をいくら可愛いと言っても、家という実在は揺るがない。ところが、小説の中だけの言葉に過ぎない「中二階のある家」が、可愛いと修飾されるや否や、その家はいくらでもとめどなく可愛らしく変形しうるのだ。ゆえに、中二階のある家がそこに住むジェーニャを象徴しているという言い方すら間違いであって、なぜなら、すでに述べたとおり、ジェーニャもまた現実に根拠を持たないただの言葉に過ぎず、ジェーニャのイメージと中二階のある家のイメージがあい寄り添って、なつかしい魅惑のイメージを形成していると言うべきだろう。

冒頭で初めて「わたし」が中二階のある家のそばにきたとき、暗くなりゆく世界の中に、小さな輝きを発見し、その直後にリージヤとジェーニャを見て、小さな輝きと姉妹のどちらにも同じなつかしいものの魅惑を感じるのだが、それと対を成して、結末では、すっかり日が落ちて、最後の最後にジェーニャの部屋の明かりも消えてしまうし、それがジェーニャに会った最後の記憶でもある。読者は、このようなイメージの対照を当然関連付けて考えるべきである。

それを根拠付けているのが、小説の中の「わたし」の両者を同一視する視点である。

読者は、作中で、飼い犬がリージヤと呼ばれればそう思うし、ジェーニャと中二階のある家とが可愛らしくあどけないと指示されれば、そう思うのである。読者はそのような小説内の指示に従ってしか言葉の意味を構成できないからである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-08(Thu) 04:53:33】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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