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エクセルVBAで継承しちゃうよ!の巻 第3回
メインプログラムとその実行結果を次に示します。

メインプログラム

Option Explicit

Sub Main()

Dim Dog As Object, Cat As Object

Set Dog = CreateUserObject("DOG")
Set Cat = CreateUserObject("CAT")

Debug.Print "犬は"; Dog("LEGS"); "本足です。"
Debug.Print "猫の尻尾は"; Cat("TAIL"); "本です。"
Debug.Print repeatCRY(Dog, 3)
Debug.Print repeatCRY(Cat, 2)

End Sub

実行結果

犬は4本足です。
猫の尻尾は1本です。
ワン
ワン
ワン

ニャー
ニャー


VBAではオブジェクト変数の代入は頭にSetをつけるので、DogとCatにオブジェクトが代入されていることはまちがいないですよ。次に実行結果をみてください。なぜ犬が四足とわかるか。DogがMAMMALクラスを継承しているからです! 猫の尻尾は1本!! なぜならばMAMMALだから!!!

どーですかみなさんどーですか!どーですかぁああああ!!! これはほぼほぼ継承と断言して過言でないと言い切れないとは限らなあい!!!!!!!!!!!

repeatCRYはMAMMALクラスのメソッドで、指定された回数鳴き声を表示します。同じコードを共有しつつ、犬はワンワンワン、猫ニャーニャー!!!!!!!!

どーですかぁああああ!!

VBAで継承。あなたは今奇跡の目撃者となったあああああ!!

もはや全米が泣いた。映画化決定!!


あー騒いだ騒いだ。夜も更けたし寝るとするか。
トシちゃんお休みー

ネタバレは次回。



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評論/ノンフィクション | 【2016-06-19(Sun) 11:39:48】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
エクセルVBAで継承しちゃうよ!の巻 第2回
クラスとは何かというと、実行するプログラムの外側にあり、プログラムから参照できる鋳型であると考えられます。

んじゃシートにクラスの定義を書いとけばプログラムから参照できるじゃん。クラスモジュールに書くとガチガチにインタプリタに解釈されてVBAが継承をサポートしてないからできないって話になってしまうが、シートならば少なくともユーザーからはより自由に参照しやすくなる。

その先のことはまだ見えないが、とりあえずやってみよう。

で、次のような表を作りました。後からプログラムで扱いやすいようにテーブルオブジェクトにしておきましょう。テーブル名はMAMMAL(哺乳類)とします。

テーブル名:MAMMAL
mammal.png

ほらね、ほらほら。ほら。すでにそこはかとなく継承の香りが漂ってきました。

哺乳類出したってことは、このあと犬とか猫とか出てくること決定だよね。継承って絶対そんな感じ。でなきゃ人間の年齢とか性別とか。でなきゃテレビのスイッチがどうのこうの。うぜー。ぼのぼののシマリスか!(解説:説明が回りくどい上にヤマもオチもなくつまらない話の場合のツッコミ例)

ほんとどうなのかなー。次に犬と猫、絶対出るとわかってて出す? 出しますか? もしあなたが新人漫才師だったら本当にそれでどうなのか、マジ胸に手を当てて考えていただきたい。

でもまあ、出しちゃいますか。

どーん!

テーブル名:DOG
dog.png

テーブル名:CAT
cat.png

出た―! ますだおかだか! もとい、ますだおかだの岡田か!

出ました犬と猫。キタコレEXTENDS。これ継承だよ継承。もう継承の予感しかしない。

後はこれをプログラムから参照すればよいね。

熱い期待を胸に、次回へ続く!





評論/ノンフィクション | 【2016-06-17(Fri) 06:14:12】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
エクセルVBAで継承しちゃうよ!の巻 第1回


エクセルVBAで継承しちゃうよ!

よくある質問:implementsのこと? あれインターフェースだから。継承じゃないよ。

ちがいます。知ってます。

よくある質問:じゃー無理。

想像してください。CでC自身のコンパイラが作れるならVBAでインタプリタを作れるかもしれないと思いませんか?

よくある質問:もしかしてVB? VBで遅くて重い表計算ソフトを作る話?

まったくちがいます。エクセルVBAしか使いません。

よくある質問:無理。破綻確定。VBAでエクセルを改造できないでしょ?

だから、イメージですよ。想像力を使ってください。自由な想像こそ創造の母なのです。

よくある質問:何言ってんのかわかんないけど、仮に何か作っても遅くて重くて実用性皆無であることはまちがいない。

問題は時間じゃない! 愛だ。エクセルへの愛があるかないかだ!

よくある回答:まったくないです。

いや、ちょっと待って。一度落ち着こう? おれだって仕事でむりくり使ってるだけで本当はJavaScript勉強したいし作るならゲーム作りたいよ。

ただ、今日ちょっとおもしろいコードのアイデアを思いついたので、みんなに見てもらっておもしろがってもらえたらいいなと思っただけだから。今夜もう一度考え直してみて、おもしろかったら次回アップするよ。

というわけで、まさかの第2回へ続く!!



評論/ノンフィクション | 【2016-06-15(Wed) 19:45:55】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
映画芸術

映画芸術映画芸術
(2012/09/12)
寺田 寅彦

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水島寒月のモデルだよね。それくらいしか知らなかったが大量の著作があるのだね。これは個別作品についての評論というよりは、映画芸術についての抽象度の高い論考でおもしろかった。俳諧連句と映画はモンタージュの技法において共通点があるという。ラストは次代の日本の映画製作者への檄文になっていて感銘を受けた。


評論/ノンフィクション | 【2012-12-23(Sun) 09:36:22】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
長篇小説時評

長篇小説時評長篇小説時評
(2012/10/04)
坂口 安吾

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坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、エッセイスト。 - wikipediaより

坂口安吾って昭和30年まで生きてたのか。いくつかの長編小説を論評しているがどれも読んでないのでつまらなかった。




評論/ノンフィクション | 【2012-12-19(Wed) 21:41:45】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
植物知識

植物知識植物知識
(2012/09/13)
牧野 富太郎

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 牧野富太郎は日本植物学の父だそうである。この著作はしかし、一般向けの平易な薀蓄に終始しており大変読みやすい。けれども吾輩がまず興を感じたのはたとえば本文中の次のような言い回しであり言葉遣いである。
人間は生きている間が花である。わずかな短かい浮世である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智を磨き、人のために尽くし、国のために務め、ないしはまた自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死するほど馬鹿なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為に過ごしてはもったいなく、実に神に対しても申し訳がないではないか。

 吾輩は一等最初に夏目漱石を思い出したが、その実は明治期に教育を受けた男子が好む言い回しであり言葉遣いに過ぎぬのであり、それをまた漱石も多用しただけのところを、漱石ぐらいしか読まずにすましてきたためにこれをもって漱石の文体だと迂闊にもかんちがいしていたのであろう。
 誠どのような文章であれ読むこと自体が知識になり喜びになる。ただし留保すべきことがひとつあり、というのもこの植物知識に挙げられている花や実が人の愛でる花や食用になる甘い果実のみであるのと同じに、すべての文章と前提しながらその実体は真善美を求むる文章のみに限定されておるからである。
 無論人が詩を読み歌を謳うのはただ芸術的感興のみに基づき、実用の文章を書くのは真実を他人に伝えんがためだけであるから、それら文章を読むことにおいて美しい花や甘い果実に同等する価値を見出さぬわけがないと尋常な人間なら誰しもそう思うであろう。ところがこの世には尋常ならざる者が文章を書くこともありうるから油断ならん。
 卑近な例を挙げるならばキンドル版「小説の基本構成」についた最初のレビューがそれである。本を買ってもおらん、読んでもおらん、内容も判断せん。が、言い回しのここが気に入らない、言葉遣いのあそこが理解できんと赤子の夜泣きのような無内容な文章が綴られておる。いったい気に入らんなら黙って遠ざけておけばよいものを、他人の尻にへばりついて、今こいつが屁をひった、いくつ屁をひった、何番目の屁がとりわけ臭かったと言い立てる輩がなぜか存在する。そのようなことに時間を費やして人生を無駄にするなぞなんともったいないことだろうと思う。そんな暇があれば自分を省み、自分の好きなことに時間を使うほうがなんぼか本人にとって幸福であろう。ところが自分の好きなことをするかわりに他人の屁の匂いを嗅いで、さっきは臭かった、今度のはさらに臭かった、とレビューすることに血道を上げる連中がいるのは摩訶不思議という他ない。
 デカルトは、人間の定義について、我思う故に我ありと、三児でもわかるようなことを述べて歴史になったが、それを言い換えれば、思わざるものは人間にあらず、すなわち人でなしと呼んでよかろう。自分の思うところを思うために時間を使わず、他人の屁の数を数える連中は人でなしである。ブログで宣伝した直後に書き込まれたようだが、売れたと知って脊髄反射で書き込んでしまったのであろう。
 いやはや、「小説の基本構成」が売れたのは淡々とした事実であり、これからも売れるだろうからそう言ったまでであり、それが気に入らん、それで傷ついた、くやしくて夜も寝むられん、せめてレビューに悪口を書き込むくらいはせんと気が済まんと言うことなら、そのように感じたご当人の心性のほうが曲がっており腐っており汚れておるのである。そのような文章を書いてネットにアップすることは、己の心は曲がっております、腐っております、汚れております、と万人向けに証言するに等しい。そしてそのような文章を読めば、大方のまともな読者は、なるほどこの文章を書いた者は、心が曲がっておる、腐っておる、汚れておるなあと思うのみである。
 ちょうど甘い果実と苦いだけの雑草の実とが、同じ植物の原理から作られながら、その結果においてまったく別物であるが如く、人々の役に立とうとして書かれた実用の文章や、楽しませようとして書かれた小説と、自らの下劣さを暴露するだけの文章は、まったく別物である。


評論/ノンフィクション | 【2012-11-19(Mon) 23:34:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物

欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物
(2003/10)
マイケル ポーラン

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まずこの人――この本の著者は、植物が好きですね。自分の家の庭に種をまき、お好みの植物を育てるのが子供のころからの趣味なんですね。それは、庭弄りとか、庭園を造るとかよりは、植物そのものへの興味が先立っていて、珍しい野生のリンゴを植えたりジャガイモを収穫したり、かつてはマリファナを育ててみたこともあるそうです。

それから、彼には小説家のような描写力があります。冒頭では、アメリカの伝説的人物で、アメリカを横断してリンゴの木を植え続けたというジョン・チャップマンが19世紀の初めにオハイオを川を下っていくシーンが生き生きと描かれます。

これはねえ、まず、植物についての科学的知見が必要ですね。それからそのような科学的事実を興味深いアングルから見つめなおすジャーナリストとしての識見。そしてそれを一般向けにわかりやすく説明する文章力。その中には小説家裸足の描写力も含まれている。こういう総合力を持った書き手が科学的にもジャーナリスティックな目でも現代的でおもしろいモチーフを取り上げて、一般向けノンフィクションを書き、それがベストセラーになる。アメリカって豊かな国だなあ。そしてそういうのを小まめに邦訳する日本の出版社がある。

とにかくこうゆう本はおもしろいですね。おもしろいだけでなくてなにがしかの科学的で現代的な知識に触れて、ちょっと頭がよくなったような感じもするし、そういう満足感もありますね。

そもそもの興味のきっかけは、なぜ麻薬の原料となるような植物が存在するのかということでした。麻薬となるような植物は、人間が一生懸命育てるので、生存競争でほかの植物よりも有利なのかなあと思ったり。本書でも触れられていますが、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」これ発売されたときとても話題になって私も読みました。つまりそういう見方からすると、麻薬だけじゃなくて、リンゴもジャガイモも、人間の興味をひき役に立つ性質を持つことによって、人間に守られ育てられ、他のどの植物と比べても特段に繁栄している、だからこれはそういう植物の側の意志に人間が操られている、ということなんですね。

それではチューリップはどうなんでしょうか。チューリップは甘い果実も実らずおいしい塊茎も作らない。いやちょっとググってみるとオランダでは食用のチューリップも栽培されているそうですが。とにかくいわゆるオランダのチューリップ熱についてはどこかで耳にした記憶はあったのですが全体どういう事件だったのだろうとずっと気になってたところ、この本で大きな章を割いて詳しく説明されていて、のどの小骨がとれたというか、溜飲が下がるというか、長年のしゃっくりがとまったというか、背中のね。肩甲骨の内側がずっと痒くてね。子供のころだったらおばあちゃん背中かいてかいて、言ってね、かいてもらいましたけどね。本当におばあちゃんというものは、与えてもらうばかりでなんのお返しもできずに死んでしまう存在ですねえ。おばあちゃん、ありがとう。ちょうどそういう、かゆいところに手が届く、楽しい作品でした。

お薦めです。





評論/ノンフィクション | 【2012-06-10(Sun) 12:55:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説の技法―視点・物語・文体
小説の技法―視点・物語・文体小説の技法―視点・物語・文体
(1989/03)
レオン・サーメリアン

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2006/10/21

レオン・サーメリアン「小説の技法」(旺史社)には、構成とモチーフの関係に関するおもしろい例が載っている。(p.p.182-187)
「エウリピデスのヒッポリュトス」ヒッポリュトスは狩猟に明け暮れ愛と結婚から逃げていたが、アプロディテーはそれを侮辱と感じて彼の命を奪う。

「アンナ・カレリーナ」既婚のアンナは独身のウロンスキー伯爵と不倫し、世間はアンナを非難する。アンナはウロンスキーと同棲するが、ウロンスキーから以前のようには愛されてないと感じ、自殺する。

「アルメニアの叙事詩の主題となった実話」オスマントルコと戦い、アルメニアのために命を捧げると誓ったキリスト教徒のアルメニア人のゲリラ兵士の男が、イスラム教徒のクルド人の娘と恋に落ち密かに結婚するが、そのことが仲間にばれて、革命法廷で裁かれ、クルド人の娘は死刑を宣告され、男は革命兵士として復帰を許されるために妻の処刑を命じられる。男は妻を射殺し、ゲリラに復帰する。

よくわからない要約をさらに要約したのであれなんだけど、要するに一言で言えば、古いってことさね。特に3番目、ハリウッドでの映画化は不可能だね。夫婦が宗教の違いから殺しあうなんてストーリー、ありえないわけで。いや、実は、これはオスマン・トルコ時代の話らしいけど、現代でも、テロも起こってるしイスラム教徒とキリスト教徒が憎み合い殺しあってるのは事実なんだけど、でも現代小説の構成としては使えないということなんだね。

クルド人の娘をアンドロメダ星人に変えてもだめだろうね。たとえば、ギャラクシークエストでは、主役級の男がタコ型異星人の女と恋に落ちてラストで結ばれるし、タイムラインでは、中世にタイムトラベルした現代の若者が、中世時代の娘と恋に落ちて、中世にとどまりそこで一生を過ごす。今や、ハリウッドには、愛し合う若い二人以上の大義は何一つ存在しないのだ。同じように、2番目も古臭くて、不倫程度で死ぬことはないだろ、と読者は思ってしまうだろう、いや、「アンナ・カレリーナ」読んでませんけど。

つまりね、ぼくがここで言いたいのはね、構成っていうと、技法とか技術とかテクニカルなものって感じだけど、実はモチーフと不可分なんだね。でもって、モチーフは現代社会と不可分なのさ。

2001/12/29

レオン・サーメリアンは「小説の技法」(旺史社、1989)の最初の章で、小説を書く方法を場面と要約に分けている。場面とは戯曲のような文章、要約とは梗概のような文章のことである。しかしそのすぐ後で、場面もまた要約の一種であると認めている。なぜならどんなに忠実に場面を描写しても、文字が伝えることのできる情報量は映画に遠く及ばず極めて少量であって、常に作者による省略が行われるからである。結局彼は、生き生きとした臨場感を持つ描写を場面と言い、誰かの報告を聞いているような説明調の部分を要約と呼んでいるようだが、それは読者が読解の過程で受ける印象である。たとえば、臨場感溢れる場面描写の前に短い要約がつくことはよく行われるが、場面に先立つ要約を場面へ読者を導入するための単なる説明と考えるよりも、本来場面と要約が同じものであるならば、場面と要約が共にあるイメージを喚起するための仕掛けであると考えた方がずっと整合的ではないだろうか。小説の中には特に戯曲を思わせる描写もあるが、演劇と違って場面転換がなく、生き生きとした場面描写の中にも外にも説明的要約を挿入したり回想を交えたり心理描写を書き加えたりできる。それら一体となった仕掛けを戯曲的特徴や報告書の印象や手紙や会話や内的独白のイメージによってばらばらに分解していくことが創作の役に立つだろうか。同様に、主人公や脇役や小道具を抜書きする方法も、ただ小説の創作と言う立場からは疑念を禁じ得ない。たとえばある人物の性格は彼の事件への態度や実際の行動によって示されるのである。作者はある人物とある事件を分かちがたく連想する。またある場面に登場する男Aが女Bに対してある行動を取った時、それはAの描写であるだけでなくBの描写でもある。さらには後段に起こる事件の伏線でもある。主人公の事件に対する行動をぼんやり連想し始めている創作初期の重要な段階で、主人公の細かな性格付けを先に完成させたり、事件を抜き出してここにスリルがある、ここに葛藤があるなどと数え上げることがより良い創作方法だとは思えない。正に切り落とした魚の頭と切り身と尻尾を別々に用意して、生きた魚を生み出そうなど正気の沙汰ではない。

一方で分節を単位にして小説の構造を考える時、私たちはずっと自然に小説の創作の実態に即した理解へ流れ着く。私たちはまずあるイメージを読者に喚起させる仕掛けを作ろうとする。そのために最も適した文章は生き生きとした場面描写なのだろうか。歯切れの良い簡潔な要約なのだろうか。たいていはそれらを混ぜ合わせたひとつの意味的まとまりであろう。そこには、人間の記憶がそうであるように、女の顔があり心に残る警句があり美しい自然や都会の喧騒やじっと見上げる子供の瞳や亡き祖母の心配そうに差し伸べたしわくちゃの手がある。それらが渾然一体となった分節は、語句や文章や小説全体など様々なレベルがあるけれども、ここでは代表的な分節として、それが読者の中にあるイメージを喚起するある程度の長さの文章のまとまりであるものを中心に考えよう。以前に触れた娼婦エステルの描写、聖女のエステルの描写、そして娼婦の中に見る聖女のイメージの描写というように。振り返れば分節の構造化が異化効果を生む理由として、第一のイメージ、それと相反する第二のイメージ(大江の「小説の方法」においては第一のシーンまたは第一のエステルと呼ばれていた)、そして背反するイメージの両面を具有する第三のイメージ(大江における第二のシーンまたは第二のエステル)をその後に置くことによって、読者の中に自動化された知識を生き生きと活性化したイメージに変換することができるはずだという仮説を立てたのであった。大江はエステルを取り上げた次にいくつかの小説を例として引いて、たとえばトーマス・マンの「ヴェニスに死す」の冒頭の短い書き出しに、小説全体を覆うレベルの仕掛けを読み取っている。つまりある程度の長さの描写や会話から成り立つ分節に限っても、それらの組み合わせや仕掛けの全体との関わりは色々な形態があるということだろう。


評論/ノンフィクション | 【2011-05-14(Sat) 16:00:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ミステリの書き方
H.R.F.キーティング, H.R.F. Keating, 長野 きよみ
ミステリの書き方


2001/09/29

まずどこが面白かったかと言うと、トリックの書き方について具体的に触れているところだ(第一章第四節 手がかり)。キーティングは、具体的な手がかりの描写方法を述べつつ、手がかりの基本となる技術は、文学研究家が「習慣的反応」と呼ぶものに頼っているという。そして例として、ある部屋の様子を事細かに描写すると、読者はこの部屋に住んでいる人物を説明しようとしていると思うだろう、そしてその中に重要な手がかりが書かれていても見逃してしまうだろうと言う。これを読んで私が目からウロコを落としたのは、推理小説において、

1.騙す相手は、読者
2.騙す方法は、叙述

という当り前の事実に初めて気付いたからだ。作中の知能犯が考え抜いたトリックであっても、作者はそれを謎でもなんでもなく解説することができる。実際小説の最後ではそうするのだ。それが謎になるのはトリックではなくて、推理小説の小説としての構造によるのだ。叙述トリックの話ではない。どんなトリックもそれを謎にするのは小説の叙述なのだ。

実際の犯罪者は、まず状況を観察し、次にトリックを思い付く。確かにこのような方法で完全犯罪を思い付くには、特別に頭が良くなければならないだろう。だが作者は状況をいかようにも作り上げることができる。だからまず謎にし易そうな犯罪を(頭の中で)犯して、その後でそれをどう謎にするかじっくり考えれば良いのだ。万一奇抜なトリックを思い付かなくても、状況や解明の手順を工夫すれば魅惑的な謎を作ることができる。推理小説においてトリックとプロットが密接に関係するというのはきっとそういうことだ。

普通の小説では、作者はテーマや人物をより印象付けるために様々な叙述上の工夫をする。それには前述の「習慣的反応」を利用する。ある人物を描写するために彼の部屋を事細かに説明するのだ。ところが推理小説は、このような小説の技法を逆手にとって読者を騙すのだ。文学の技法をメタに利用すると言う意味において、推理小説は文学と正反対な方向を向いていると言えるだろう。

この本では、推理小説を書くコツとして、J・D・カーの「逆から考えろ」という言葉を紹介している。これは推理作家の間では有名な言葉なのかもしれない。と言うのも、二階堂黎人のホームページに、推理型の小説の書き方として次のように述べられているのである。
  1. トリックやプロットを考える(結論)。
  2. トリックやプロットに状況や舞台をあてはめる。
  3. 状況に人物を当てはめる。
  4. 状況と人物にふさわしい物語を考える。
  5. 全体のプロットを再構成する(発端)。
(全体のプロットを、ほぼ最初に立てる必要がある)二階堂黎人のHP:http://homepage1.nifty.com/NIKAIDOU/

文学界に連載中の河野多惠子の「創作心得」を立ち読みすると、小説の書き方として、先に結末を書くなどもってのほかだというようなことが書かれてあった。普通の文学はそうなのかもしれない。そしておそらく推理小説はそれとは逆さまなのだ。

この本にはその他にも大変興味深い内容が書かれているので、ミステリ好きの方はぜひ一読されれば良いと思う。私は今年の正月に生まれて初めて推理小説を書いた。出来はともかくとして、推理小説を一本書き上げることが出来たのはこの本のお陰である。


評論/ノンフィクション | 【2011-05-13(Fri) 22:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
阿含経典 第三回
阿含経典〈第1巻〉 (1979年)

新年明けましておめでとうございます。
さて、まさかまだつづくとは思わなかったでしょ? シリーズ!

(承前)要するに、増谷文雄によると、仏陀が亡くなった直後に弟子たちが仏陀の教えを暗唱したと。そのときの内容を今に最もよく伝えているのが南伝の相応部経典と、それとかなり似た内容の漢訳の雑阿含経だと。

うーん。どうなんでしょう。知りませんが。

それで本書はそういう古い経典をそのまま訳したんではなくて、その中から編者が重要と思うものを選んで再編成しているのですね。そしてなにを重要とするかというと、もちろん文献学的検討とか仏教学的選別とかを詳しくやったんでしょうけど、だいたい、なるべく短くて口承的表現の経がより古いだろうしゆえにより仏陀の言葉に近いだろう、みたいな感じのようです。

さてそんな、サンスクリットなんか当然、さらにパーリ語の文献も読破しちゃうよという碩学・増谷兄ぃが、第一巻の一等最初に持ってきたのが、ズバリ、縁起の法を説いた短いお経であった。

比丘たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって触がある。触によって受がある。受によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦の集積によって起こるところである。比丘たちよ、これを縁によって起こるとはいうのである。
(p.90 阿含経典 第一巻、増谷文雄、筑摩書房、1979)


現代語訳と言いながら微妙に古語的な訳し方が鼻につきますね。(つづく)


評論/ノンフィクション | 【2010-01-01(Fri) 21:04:30】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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