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はい、まいどー朝野十字でございます。またまた不条理ディックです。不条理不条理言いながら、文章はとっても読みやすいですね。翻訳の良さもあるのか、場面のイメージがすっと入ってきて、スラスラ読み進められます。で、読み終わった後、あんまりよくわかってないことに気づいて、そこをあれこれ考えることも読書の楽しみなのでしょうが、最近はなんでもすぐネットで調べて、Wikipediaの概要を読んでわかったつもりになるのが流行ってますね。いかがなものか。なんて思ってないです。ざっとググると、このページ。
「流れよ我が涙、と警官は言った」の結末
http://okwave.jp/qa/q6477917.html
わかりやすくまとまっていて、なるほど、そうだったのか。池上彰もびっくりですね。
冒頭から主人公然として登場するジェイスンは、マッドサイエンティストが自分の精子を使って作った遺伝子を改造した新人類で、普通の人間より優秀です。実際テレビスターとして大成功してる大金持ちです。でも共感能力が欠けていて、次々女をとっかえひっかえして捨てていく薄情な男で、しかもそれに対してまるで罪悪感を感じないのです。
一方途中から登場する警察本部長のフェリックスは、冷酷な男然として登場し、ラスト直前までその役を演じ続けます。この小説における警察は、相当にビッグブラザーで、盗聴でも暗殺でもして、あらゆる個人情報を収集し、大学を武力で弾圧し、反体制派を強制収容所送りにする恐ろしい存在です。
全世界に三千万人のファンを持つ人気テレビスターのジェイスンは、ある朝目が覚めると、誰も自分を覚えてないことに気づきます。親しい恋人でさえ自分を知らないと言うのです。しかも身分証明書もない。身分証明書がないことが警察に見つかると即座に強制収容所に送られるので、ジェイソンは必死で逃げます。
一方、これはビッグブラザーにとっても困った事態で、まったく個人情報が特定できないジェイソンを体制の敵とみなし、強制収容所に閉じ込めようと追いかけまわします。
そうすると、ほら、先行作品が思い浮かびますよね。古いところで恐縮ですが、知らない若い人はググればいいと思いますが、北北西に進路を取れ、とか。ちょっとちがうけど、要するに、自分が誰かとか、自分が当然と思っていたものが冒頭でひっくり返って、敵に追われてっていうスリラー。
冒頭を読むと、当然そんな話だろうと思うし、アマゾンの帯書きにもそう書かれてるので、そういうスリラーだと思うよね。実は前回の宇宙の眼も前々回のユービックも惹句を読むとそういう軽いノリのスリラーっぽいので読んでみたらちがってたという。
おれってそういう軽いノリのスリラーが好きなんだよね。そのような軽いノリの読者を騙して不条理世界に引きずり込む悪い男ですな、ディックは。でもまあ3回連続同じ手口で騙されたんだからしょうがない。
で、なにが言いたいかというと、前回の宇宙の眼はマーシャの美乳小説でしたが、今回登場するのは、ID偽造屋のキャサリン。見た目は16くらいで、オッパイは大したことないが脚が綺麗。でも実年齢は19歳で、映倫的にOKというギリギリ・ガール。最初はオッパイ大したことないと思ったジェイスンではあったが、だんだんに、なかなか美人じゃないかと思い直す。
昔々、光GENJIってアイドルグループいましたけど、元ネタは光源氏っていう平安時代に書かれた日本の古典小説の登場人物だって、知ってました? そうすると、ジェイスンも、光源氏みたいな遺伝子改造美男テレビスターなんですよ。だもんで、こう、若い子引っ掛け放題なんですね。で、結局キャサリンも食っちゃうという。
というわけで、前回の美乳小説に対して、今回は微乳小説と言えるでしょう。おっぱい星人ディック、お薦めです!
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フィリップ・K・ディックって、リベラルなんですね。
本作品では、白人の人種差別主義者、共産主義者、共和主義者が出てくるんですが、人種差別主義はポリティカリー・コレクト的に論外として、後者二つの立場があり、共産主義者を憎悪するアメリカの共和主義者が赤狩りを繰り広げる世界において、あなたなら、どっちに与しますか?
主人公の奥さんはマーシャと言って、オッパイはそれほど大きくないのだが、ほっそりした美人です。ほっそりした美人というのは、出てるところは出てるって意味を当然暗黙的に内含してますから、日本国憲法が個別自衛権を暗黙的に内含しているのとまったく同じで、憲法上、幼児体型でガリガリなのはほっそりした美人じゃないからね。AV業界の人たちもそのへんはちゃんとしてタグの設定とかもね。ほんとそういうことはちゃんとしてもらわないとね。困るから。
というわけで、巨乳ではないがオッパイ星人全員納得の美乳なんですねマーシャ。それはテキストに明示されてませんが文理上確定なんですね。これはもう、読解力の問題です。自分の読解力のなさを棚に上げて、ストーリーが平坦とか唐突とか文章がわかりづらいとか。すべておまえの頭が悪くて単に読解できてないという一点で説明可能なバカレビューアーが、たとえばアマゾン界隈にボウフラの如く大発生してますけどね。おまえら全員死ねばいいよ。この明解な文章からマーシャ美乳を読み取れないなら、この文学世界におまえら全員不要だから。
そう思ったら本当にそれらが消滅してしまう世界が描かれてます。たとえば、共産主義ロシア=ソ連は不要だとある人物が思ったら、実際にロシアが消滅してしまうんですね。
ちょっとSFとしても根拠なく世界設定が急激に変転するので、これは筒井康隆言う思弁小説ってやつなのかな。そうすると、マジック・リアリズムな純文学でもよさそうなものだが、あえてエンターテイメント側にとどまっているのが、マーシャの美乳。これがもう、とにかく美乳なんですね。
政治的にはリバタリアンね。それで名前がロシア風だし本当は共産主義者じゃないかと疑われれるんですがね。
主人公はマーシャの美乳にぞっこんなんだが、マーシャ自身はちょっと自信がなくて、シルキーっていう巨乳美女が主人公を誘惑すると、やっぱオッパイ的に負けてるかも、とちょっと不安になるところがヌキどころですよね。その時のその表情が、イイ!
ちょっとネタバレになってしまうんですが、ラストで主人公は、「仕事なんかいつでも見つかるけど、女房は簡単に見つかりません」と言うんですね。どういう意味かというと、だいたいほら、付き合うとなると、容姿は十人並みだが性格はいいか、美人だけど性格は悪いか、どっちかになっちゃいますよね。確率的にね。でもマーシャは性格もいいしほっそり美人でその上美乳なんですね。そういうフィクションならではの夢のあるストーリーで、最後はハッピーエンドなんですよ。
ラストは毎度おなじみディックのちゃぶ台返し。昔々、SFマガジンにディックの短編が載って、タイトルが「火星のタイムスリップ」だった。おそらくその後長編化して、長編のみが邦訳されているようですが、子供のころの朝野は、ラストのちゃぶ台返しを読んで、プロットが破綻している、と思ったものです。
これをどう捉えるかですが、子供のころはビールをただ苦くてまずいとだけ思っていたのが、大人になって味覚が鈍麻し生き生きとした生命感がすり減ってくると、苦味さえフレバーオブライフな快楽になってくるものです。
ちょうどそのように、長年の酷使のせいでシラフのときですらやや朦朧としている大人の感受性に、プロット破綻の苦い刺激が快感になってくるということがあるのでしょう。
でも今「火星のタイムスリップ 短編」でググったら何も出てこなかったので、火星のタイムスリップの短編版など存在せず、ここまで書いたことすべて今思いついたばかりの朝野の妄想かもしれません。
朝野の短編「インターフェース」でもこういうちゃぶ台返しをやってるんですよね。書いてるときは意識してなかったけど、後から思うとディックからのパクリ感ハンパない。
だれかディックを深読みできる理想の読者にインターフェースも読んでもらって、そうして感想してほしいものだなあ。
インターフェースを書いていたときのことを思い返すと、物語内のリズムというか法則というか、そういうものに従って書いていくと、そういうラストしかありえないんだよね。
ただ、読者の立場で考え直すと、読書体験というものは読者の現実の読書行為から生まれる現実の存在なのだ。ディックばりのラストのちゃぶ台返しは、物語内にとどまらず、果たして自分は本当にひとつの物語を読み終えたんだろうか、なにか欠けたピースがあるんじゃないか、だとすれば自分の読書体験自体なにかが欠けており存在が成立しないのではないか、という不安をかきたて、現実に現実として現実までもを侵食してしまうのだ。
それを不詳と見るか魅力と見るか、とりあえずその強烈なパワーに朦朧となりながら楽しんでみるか。
結論、楽しんでみたらいかがでしょうか?
ポツダム宣言読んでないのかよ!
まあ、朝野も読んでないですけどね。
ただ、リーダーにはそれくらい読んでおいてほしいなと思いますね。でもそれも、人によりけりで、安倍首相を支持している人たちは、安倍さんは正直だなあ、おれたちと同じだ、みたいに肯定的に捉えてる可能性、ありますからねえ。
ブッシュ・ジュニアだって、左派は一生懸命こいつはバカだバカだ言い続けたけど、なんの効果もなく、根強い人気で2期8年もアメリカを迷走させました。
逆にオバマは頭の良さを鼻にかけているようで気に入らないとか、冷たいとか思われてるようですね。
そのような考え方にも一理あるかもしれません。リーダーに頭の良さばかりを求める気持ちの裏側には、主権者の一人として国政の結果責任を背負い、自らの判断でリーダーを選び評価することの重圧から逃れたいという責任逃れの卑怯な感情が隠れているのかもしれません。
おれたちはバカブッシュを選んだ。その結果責任は甘受する、と言い放つ貧乏レッドネックたちがいたとして、それに比べてなんて恥ずかしい態度でしょう。
朝野はそこらの若者を見るたび、ずいぶん長生きしたものだと思います。若いころは、実用的な勉強をしようと思って、理系の学部を選択しましたが、振り返ってみると、この世界は現実に文学にまみれているなあと痛感します。
アンダー・コントロール、集団的自衛権、ついでにロスチャイルドのバイオリン、巷の偽装感想から政治家の偽装公約まで、事実をごまかす方法は、すべて、文学の技法の範疇に含まれます。ソフィストたちの嘘を見抜くための唯一の方法は、ソフィスト以上に修辞法を勉強する他ないのです。
メディアリテラシーなんて目新しい言葉を持ち出すまでもなく、文学こそが現代人の必須の教養です。レトリックでごまかす政治勢力が、同時に文系学部の削減を画策することは、実に理にかなったことです。
でも、別に文学部に行かなくても文学の勉強はできますからね。そこで修辞に満ちた円城塔ですよ。もしあなたが選挙権を持っているなら、ポツダム宣言はともかく、円城塔くらいは読んどけってことです。
トータルリコールおもしろかったなあ。ふと思い出したのは、Huluで再演していたからです。で、再見してみたが確かにおもしろい。プロットがいいですよねえ。
プロットとはテーマを再認(異化)させるための戦略であるとも言えるでしょう。
トータルリコールのテーマは、アイデンティティの不安、昔風の言葉で言えば、実存的不安ってことだろうと思います。原作者のフィリップ・K・ディックのテーマはたいていそれですからね。
しかし原作と言われるディックの短編とは似ても似つかぬプロット。それでも脚本家がトータルリコールの名を冠したのは、ディックのテーマ性に深く共感し、そのテーマを映画でより強く表現するための戦略を追い求めた結果、このような素晴らしいプロットに辿り着いたのでしょう。
以前、知人に、文学理論の殊にプロットの異化に興味があり、文学の解析を紡績工場の仕組みを解き明かすことに例えたシクロフスキーに共感すると言ったら、それは文学の愉しみからかけ離れていてとてもつまらなそうだ、と言われたことがあります。
まあ、人それぞれってことですかねえ。朝野は美人として有名なさる女優さんについて、実はブスなんじゃないかという疑いを予てから持ち続けているのだが誰にも話してません。だから彼も私につまらなそうだと言わず黙っていればよかったのに。
ビデオで登場するハウザーが自信満々なんですね。そしてラストでは長官と肩を組んで、クエイドに、自分を返してくれ、それが当然だ、と言うのですね。だからクエイドは超絶不安になっちゃうわけですね。
2012年のリメイク版ではこの辺りがすっかり改変されて、ビデオの中のハウザーがビデオを見ているクエイドに、自分はまもなく長官に自分自身であることを奪われてしまうから、それを取り戻してくれと嘆願するのですね。だからクエイドが正統であって、そのことになんの不安もない。一見プロットはオリジナルを忠実に辿っているように見えながら、テーマに関わる要所要所でことごとく改変されてますね。
夢現の不安感ということでは、マトリックス パート1のほうがずっと近い感じがしますね。とりわけあの出だしがいいですね。そして麻薬の売人の女の子の首にウサギの刺青がしてあって、不思議の国のアリスを思い出して急に興味が湧いてついていって、トリニティに出会うあたりが最高おもしろい。
朝野はこういう夢と現実がごっちゃになっている感じがとても好きなんだなあ。だから同じような雰囲気の作品を探しているのですが、なかなか見つからない。
というわけで、バーチャルゲームと現実世界の行き来を描く本作品も、なんかそういう雰囲気の話かなあと期待して読み始めたのですが……。
これがまったく違ってました。いや、最終章のエキストラ・ラウンドを読む前までは。
朝野はエキストラ・ラウンドがこの作品のキモであり必須であると思うのですが、もともとは外伝としてあとから書かれたもので、当初は入ってなかったようですね。ですので、これの入ってないスラムオンラインではなくて、入ってるスラムオンラインEX版を読むことを強くお薦めします。
エキストラ・ラウンドから気になる台詞を引用しますと、ある登場人物が、「腕立て伏せをすれば現実に筋肉がつくが、ネットの格闘ゲーム内で練習して強くなっても幻想でしかない」という趣旨の発言をして、それに対して、彼の影のような存在が、「ネットも現実も人は幻想をまとっている。そしてネットゲーム内は、現実と無関係ではなくて、現実のプレイヤーの一部を増幅するので、ゆえに両者の幻想は交差している」というようなことを言います。
これぞ、夢うつつの快楽! それを味わえる読書体験! ネットゲームにも格闘ゲームにも縁遠い朝野であるので、冒頭から延々と、「Aボタンをクリック、クイックフォーワード、キャンセルからパンチ、パンチ、SE、SE、SE」と連打されて、なんだかなあという感じだったし、リアル世界のドラマのほうもラストまで淡々とした感じで読むのに時間がかかりましたが、最終章で大爆発、大変興味深くそしておもしろく感じました。
お薦めです!
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はい、三年前からハードカバーで買うのでなくkindleでダウンロードして読もうと決めていた貴志祐介の最新長編、とうとう読みました!
前回のブログで「あえてハッピーエンドを信じて読む」と宣言しましたが、みなさん、朝野はこの賭けに勝ちました! 本書は、ラストで真犯人が罰せられ、真犯人に対して仲間と協力して戦ってきた側が最終的に勝利しました!
映画は見てないし予告の宣伝すら一切見てません。ただサイコパスが学校を舞台に殺しまくるという以外にまったく予備知識がなかったが、あくまで詩学的根拠から、朝野はこの長編がハッピーエンドにならざるをえないことを予見していました。
ミューズの女神の決定により、いかな才能ある作家が挑戦しようと、このようなタイプのエンターテイメントはハッピーエンドになる宿命なのです。未読の方はアマゾンの糞レビューなど一切見ないで安心してさっさとダウンロードしてください。
さて、全体の構成について見ますと、たとえば十三番目の人格 ISOLAでは、前半と後半で話が割れてます。通常話が割れるのはよくないとされてますが、十三番目の人格 ISOLAの場合、モチーフの因果関係はつながってるんですね。そうではなくて、前半は犯人探しに焦点化されたオカルト調のミステリ仕立て、後半はホラーでプロットの展開はスリラー。
端的に言えば前半と後半でジャンルがちがってるんですよ。さらに正確に言えばそのような印象を読者に与えるという意味なんですけれども。
さてそこで、朝野の中の人は、金を払ってまでアダルトビデオを見たいというほどではないんですけれども、というのもネットに無料サンプルみたいな形でいくらでも転がっていて、そのようなものをたまたま目にすることがないわけではないのですが、そうするとかなりジャンルがはっきり分かれているようなんですね。そしてジャンルごとのイケてる設定だけを取り出して、ドリームチームみたいなアダルトビデオを作ったらどうなるかということを考えてみますと、ふと思い出すのはオリンピックのチームで、アメリカのバスケットだったかな、プロの著名選手ばかり集めて、プロバスケットでは実現しないようなドリームチームを作ってオリンピック代表としたらボロ負けした、というニュースをどこかで見たような記憶があるのですが定かではありませんが、それに倣って、女子高生設定で始まって、制服を脱いでそのあとちらり顔がアップになったら明らかにオバサンだった、みたいなAVについて考察しますと、女子高生モノは女子高生モノでよいものがあるし、熟女モノは熟女モノでソソるものが確かにあるにも関わらず、二つを合わせるととっても腹が立ってくるという、そのような動かしがたい生理的事実があります。
同じ観点から、悪の教典は、上巻は、論理的で緻密な犯人が周到な策略で自分の欲望を実現していくピカレスクとかノワールとかの路線なのに、後半はサイコパスと戦う素人集団が知恵を絞って対抗するが次々殺されていくという、映画のエイリアンみたいなスプラッター風味のスリラーになってるんですね。
ゆえに、前半のピカレスクロマンに感心した読者は後半のスプラッターに鼻白むし、後半のホラーなスリラーをおもしろいと思った読者は、前半の緻密な策略が長すぎて中だるみしたように感じるしで、両者から不評を買う要素が、あるかないかと言えば、あると言わざるをえないでしょう。
やっぱりジャンルを混ぜるのは基本はよくないですね。けれども朝野の感想としては、前半のノワールも超興味深いし、後半の知恵比べ殺人ゲームも超ワクワクするしで、両方楽しめました。それに、サイコパスというものは、常人を超えて妙に緻密な面がある反面、人間として大きく欠落した部分もあるので、常人から見ると不思議だが、後半の行動もサイコパスの頭のなかでは論理的に整合していたのだろうし、そのような意味でストーリーのモチーフのつながりは話として割れておらず、ちゃんとつながっていると思います。
ですので、そのこと――前半と後半で作品のスタイルが変わっていること――を予めわかった上で、読者の側から先にそれぞれ読書のスタイルも変えて読んでいけば、きっとだれでも一粒で二度おいしい傑作として楽しめると思いますよ。
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これはまた可愛らしい物語ですね。作者は中年男なんですけどね。登場人物が全員いい人。まあその、真犯人は除いてね。会話もたわいない。私のような年寄りが読むとちょっと場違い感というか……。
でもそれを物足りないというのはないものねだりでしょうけれども。
登場人物が、時をかける少女もバックツーザフューチャーも夏の扉も知っているというくだりがありますが、そのようなタイムトラベルものを踏まえた上で、この作品では、物質は時間を移動せず、主人公の意識だけが時間を行ったり来たりするという設定です。だから同一時間に同一物が2つ存在してしまうというおなじみのパラドックスは回避できるのですが、未来を知って過去に戻ったとき、すでに起こった過去と違う行動を取るとバラドックスが起こり、未来が変わってしまうので、そのような行動はとってはいけないとされます。
でもラストは未来で習得したある技術を使って過去を変えたような気がしたけどあれはいいのかなあ。
タイムトラベルものの魅力は、ミステリの密室ものに通じるものがありますね。どちらも読者がパラドックスを感じて頭をひねるうち作品世界に入り込んでしまいます。
主人公は恐怖を感じると、その場から逃げ出すためにタイムリープしてしまうのですが、そんなことを繰り返しているわけにはいかないので、その恐怖の瞬間に立ち戻って直面しなければならいと友人に諭されます。
このあたりわかる気がしますね。嫌なことを思い出したくなくて別のことをしているときに、やっぱ逃げてばかりじゃダメだと碇シンジ君みたいに独白してしまうこと、ありますよね。そういう誰にでもあるある感を、SF的ギミックで前景化させることがこの小説の戦略なのだろうし、それは成功していると思います。
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毎度のことながら臨場感溢れるバトル描写が圧巻です。とにかく読み始めるとやめられない。たとえば、狐火の家に収録されていた盤端の迷宮では、将棋の対局の描写があって、朝野は将棋の駒の動かし方もあまりよくわかってないし戦略などまったく理解不能であるにもかかわらず、対局の緊迫感が伝わってきて読み続けるのをやめることができませんでした。十三番目の人格 ISOLAでは、終盤に主人公たちとISOLAが、廃校になった校舎だったかな、建物の地理関係を利用して追いかけっこを続けるシーンがあって、とにかく読み進めたい気持ちばかりで、建物の構造も主人公の戦略もよくわからないまま、ハラハラドキドキして読み進めたことを思い出します。
なんでしょうか、バトル描写が魔法のようにうまい。いずれ研究したいと思ってますが、いくつか気づいた点をメモしておくと、新世界よりでもそうだったですが、一人称的描写に徹していること。
今回は特に二人のライバルの対決に焦点化されているので、似た作品を思い浮かべると、横山光輝のバビル2世とか。江戸川乱歩の黒蜥蜴とか黄金仮面とか。丁々発止、一方が優位かと思うとすぐに立場が入れ替わってバトルが続く。アムロと赤い彗星でもいいですが、この場合、敵役の心理も描きたくなって、三人称多視点を使いたくなるものだと思うのですが、内面の心理描写が徹底的に主人公たったひとりのみに限定されている。主人公以外誰の心理も表面しかわからない。これは不安ですよね。それから、「これがあとで失敗だったとわかるのはこの後ずっと先のことだった」みたいな文がちょこちょこっとあちこちに書き込まれていて、さらに不安感を煽る。ジェラール・ジュネット言うところの先説法ですね。
そのような文学の戦略や技法がてんこ盛りになっているからやめられない止まらない読書体験がだれであっても普遍的妥当性をもって再現されるわけであり、つまりは科学的再現性があるということであり、文学を科学的に分析するとき、本書こそ文学であり大人の文学者の研究対象なのであって、対極、なんとなく雰囲気やモチーフがいわゆる文学的であるなんてのはお子様向けの駄菓子みたいなもんでしかないと思います。
貴志祐介はもっと普通にハッピーエンドの作品を書けばいいのになあと思います。こういうエンターテイメントは、ありがちでも一見平凡でも、ハッピーエンドにするのが王道です。十三番目の人格 ISOLAはホラーだからあの終わり方でいいと思うけど、朝野が今のところワーストだと思うのは、青の炎ですね。あのセンチメンタリズムは本当にいらないと思う。どうしてあんなふうにするんだろう。
天使の囀りの中に、純文学作家が登場して、彼の小説の一部が引用されるのですが、これがとってもつまらない。どうも貴志祐介は、純文学ってこんな感じでしょ、と思っているんじゃないか。まずそれがちがうし、ちゃんと理解しないままなんとなく憧れというかコンプレックスをもってるんじゃなかろうか。ちがってたらごめんなさい。
なんとなく結末を薄ぼんやりとセンチメンタルにするのは、純文学とは無関係であり、そのような凡百のお子様向けの駄菓子的凡作が純文学と銘打って出版されていることは承知してますが、出版社の宣伝に惑わされてそんなものを気にかけるのはやめてください。ハッピーエンドがふさわしい作品は臆することなくハッピーエンドにしてください。そしてエンターテイメントは概ねハッピーエンドがふさわしいです。
優れたエンターテイメントこそが文学の本質を具有具現しているのであり、堂々とその王道を進んでいただきたい。
![]() | 模造記憶 (新潮文庫) (1989/07) P.K. ディック 商品詳細を見る |
久々の更新です。先日ブックオフで見つけたんで、懐かしくなって買いました。105円でした。これは決してディックの最高の短編集ではないのでしょうが、それでも十分楽しめました。
その中の特に一番面白いというわけではない「欠陥ビーバー」のあらすじを紹介しますと、妻に虐待され精神科医にぼられる安月給のしがないビーバーに、「あなたを愛しています」という手紙が届いて有頂天になって返事を書こうとすると、それは妻の策略で、浮気者め、とさらに罵られてしまう。そして再び、別の女性から同様の手紙をもらうのだけれども、彼女が妻の作り出した罠なのか、実在の女性なのか非常に不安であり、何度も手紙のやりとりをして確認し、とうとう会いに行く。何より彼女が妻の罠でもなく自分の作り上げた妄想でもなく、実在することが肝心だと考えているビーバーの前で、その女性は三人に分裂し、そのそれぞれが魅力的な女性だった。彼女たちはますます強く実在し始め、おしゃべりし続け、一方で、ビーバーのほうはだんだん実在しなくなって、影のように消えていく。
あまりうまい要約とは言えませんね。とにかく、非常に実験的な作品で、にもかかわらず面白く、そして「現代人の存在の不安」というやつが素直に伝わってきます。実験といえば、純文学こそが最も前衛的な実験を行える場であるはずですが、そういった実験はすべて何十年も前にSF作家たちがすっかりやってしまったのかもしれません、しかもずっと面白く。
100年後、古典として残るのは、凡百の現代文学ではなく、フィリップ・K・ディックかもしれません。
2007/03/03
逃避シンドローム(模造記憶、P・K・ディック、新潮文庫、1989)
- 深夜の高速道路で、ジョン・クパチーノはスピード違反で警官の尋問を受ける。彼はガニメデの植民地から地球に来て間もないらしく、何もかも非現実的に見える病気で、精神科医の治療を受けているらしい。警官は、ジョンがガニメデに自生する麻薬の一種、フロヘダドリンの中毒で、今もガニメデにいて地球の幻覚を見ているという妄想に捕らわれているのではないかと言う。するとジョンは、車の計器盤に手を突っ込んで見せる。手首までが計器盤を突き抜けて消えた。警官は不安になり、ジョンの掛かりつけの精神科医、ドクター・ハゴビタンに電話する。ジョンは、どういうことかそのわけはわかっている、妻のキャロルが死んだせいだ、とつぶやく。
- サンノゼの下町にあるドクター・ハゴビタンの診療所で、ジョンは、キャロルを殺すんじゃなかったと言うが、ドクター・ハゴビタンは、キャロルは生きている、ロサンゼルスで暮らしている、キャロルを殺したというのはジョンの妄想だと言う。そしてキャロルの住所をメモして渡し、キャロルに会いに行くよう勧める。
- ジョン曰く、ジョンは以前ガニメデの六惑星教育企業で働いていた。ガニメデで反乱が起ころうとしていて、それに六惑星教育企業が関わっていた。キャロルはジョンへの憎しみと個人的虚栄心から、それを新聞社に漏らそうとした。ジョンはそのことで腹を立て、レーザー銃でキャロルを殺し、その後地球にきた。ドクター曰く、それは妄想だ、ガニメデでジョンがキャロルを殺したと思っているその夜その現場にキャロルはいた、だからキャロルを訪ねて話を聞け。
- ジョンはキャロル宅を訪問する。キャロルは言う、2014年3月12日、ガニメデのニュー・デトロイトGにある高層アパートで、ジョンはキャロルを殺そうとした。理由は、キャロルが離婚調停の裁判で到底受け入れられない経済的条件をジョンに突きつけ、ジョンがそれを断ると、反乱計画を新聞社にばらすと脅迫したからだ。ジョンはレーザー銃でキャロルを撃ったが、外れた。キャロルは逃げ出し、ジョンは逮捕され、心神喪失だったとして、強制的に精神科の治療を受けることになった。
- ジョンがなぜ自分はキャロルを殺したと記憶しているのだろうと聞くと、キャロルは言う、六惑星教育企業のドクター・エドガー・グリーンがそのような偽記憶を植えつけたのだと。理由は、反乱計画のことをキャロルに話したのはジョンであり、そのことで自分を責めて、ジョンが自殺することを恐れたためだ。ジョンはその後すぐにガニメデを離れ地球に向かうが、その旅行の途中で自殺を図った。そのときの新聞記事の切抜きを持っている。キャロルはそう言ってその新聞記事を取りに部屋を出て行くが、ジョンはそんな新聞の切り抜きなど見つかりっこないと思う。キャロルが戸惑った表情で戻ってきて、ばつの悪そうな表情で、新聞記事をなくしてしまったと言う。
- キャロルは流星会の取締役会長のコンサルタントの仕事をしていた。流星会は持ち株会社で、六惑星教育企業もその傘下にあるという。キャロルは自分だけ朝食を食べ、ジョンには何も勧めなかった。ジョンは、自分がガニメデの牢獄か精神病院にいると考える。病院食をキャロルの朝食だと思い込み、看守か看護人をキャロルだと思い込んでいるのだろう。ただしドクター・ハゴピアンは実在する自分の精神科医だろう。
- ドクター・ハゴピアンから電話がかかってくる。ジョンは、自分がガニメデにおらず、地球の自由な市民なら、治療を拒否できるだろうと言うが、ハゴピアンは、妻殺害未遂の罪で精神療法を受ける義務があるからだめだと答える。ジョンは、キャロルが六惑星教育企業の親会社に雇われていることがわかった、彼女は自分を見張るために雇われていたのだろう。自分がキャロルに反乱計画を話してしまったため、信頼できないということになり、キャロルに自分を殺させようとしたが失敗し、関わったものはみんな地球の当局に処罰されてしまった。キャロルだけは六惑星教育企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れたのだろう、と言う。ハゴピアンは、一応もっともらしく聞こえるが、反乱は実際に成功したのだと言う。キャロルも、反乱が失敗したというのはジョンの妄想だと言う。ジョンが片手を伸ばすと、手がテレビ電話のスクリーンの中に入って消えた。この幻覚システムはよくできているが十分ではない、とジョンは思う。ジョンはハゴピアンの治療を打ち切ると宣言するが、ハコピアンはそれはできないと言う。ジョンは電話を切り、彼は嘘をついていると言う。
- バークレーにあるアパートに戻ると、ジョンはガニメデの六惑星教育企業のドクター・エドガー・グリーンに電話した。ジョンはグリーンに見覚えがなかった。グリーンは反乱計画に関わっていたと認めた。ジョンはグリーンに、反乱計画を守るため自分の頭に妄想を埋め込んだのではないかと問う。グリーンはそのようなことは(技術的には可能だが)やってないと答える。ジョンは会社での心理療法の記録ファイルを送ってくれと頼み、グリーンはビデオ回線で地球に送ると答える。しかしその後で、ジョンは、六惑星教育企業なら容易にファイルを改竄できると気付く。夕方届いたファイルには、妄想を埋め込むような治療を行った記録はなかった。ファイルが改竄されたか、キャロルが思い違いまたは嘘をついているのか。ファイルは手書きであり、その筆跡を分析すれば、三年前の反乱当時に書かれたものかどうかわかる技術があるので、ジョンはカリフォルニア大学の言語学者に電話して、鑑定を頼んだ。
- スピード違反で尋問を受けたとき、警官がフロヘダドリンの常用者であると自分を疑ったのは、実際にそのような症状を呈していたからではないか、もしかすると幻覚の世界を維持するために、フロヘダドリンを食事に混ぜて投与されているのかもしれない、とジョンは考えた。それをはっきりさせるために即刻血液検査を受けるべきだと考え、検査設備のある勤務先に向かおうとするが、不意に、自分がどこに勤めているかわからないことに気付く。ハゴピアンに電話すると平然とジョンの勤務先を教えてくれる。ジョンは、キャロルはやはり死んだのであり、自分は狭い場所に閉じ込められていると訴える。ハゴピアンは、ここが幻覚の世界なら血液検査も大学に筆跡鑑定を頼んだファイルも幻覚かも知れず、意味がないと言う。ジョンは、ハゴピアンが筆跡鑑定については知らないはずだ、だからこの世界は現実ではないとハゴピアンの矛盾を指摘する。さらに、キャロルをもう一度殺してみることによって、幻覚か現実かわかると言う。
- ハゴピアンは、いくつか隠していたことがあると言う。反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。戦況は芳しくなく、非常食で生き延び、後退し続けている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームであり、密告したキャロルもガニメデの牢獄にいる。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。
- キャロルは、ケチな個人的恨みから反乱計画を挫折させ、ガニメデ全体を憎むべき負け戦に陥れたのだ、とジョンは思う。ジョンは箪笥からレーザー銃を取り出し、タクシーを呼び、ロサンゼルスのキャロルのもとへ向かう。
- ジョンはハゴピアンのオフィスで、ロサンゼルス・タイムスを読んだ。再度キャロルを殺したというはっきりした記憶があるのに、ロサンゼルス・タイムスにはそれが載っていなかった。ハゴピアンは、暴力沙汰を避けるため、ジョンをキャロルに会わせなかったと説明する。そしてジョンが見ている新聞はロサンゼルス・タイムスではなく、ガニメデのニュー・デトロイトG・スターだと。それでもジョンは、自分は確かにキャロルを殺したと言い張る。ハゴピアンはテレビ電話にキャロルを呼び出し、ジョンと話をさせる。
- ハゴピアンに説得され、車で自宅に帰る途中、ジョンはもう一度やってみることはできると気がついた。おれはいつも失敗する運命にあるということにはならない。ジョンは再びロサンゼルスに向かうことにした。おそらく今度こそ反乱は成功するだろう。そう思いつつ、自分の理屈にどこか欠陥があるようだとも思うが、それを指摘するには疲れすぎていた。おかしい、なぜ新聞にキャロルの殺害の記事が載らなかったのだろう? ジョンは車を自動運転に任せ、目を閉じた。車は時速160マイルで、ジョンがロサンゼルスだと信じている方向に、そして妻が眠っていると信じている方向にむかって勢いよく走っていった。
さてそこで逃避シンドローム、短い作品なのに要約しようとするとなぜか長々しくなってしまうのは、状況を変化させる動的モチーフが非常に多いからだ。いや、一般的にいうところの動的モチーフとはちょいと異なっていて、いくつものストーリー候補が重ね合わせられ、一行ごとにどっちがメインかがくるくる変っていくのだ。
まず、基本的な設定としては、三年前、ガニメデは地球に対する反乱を計画していた。多くのガニメデ人が愛国的立場から反乱計画に協力していて、ジョンもその一人だった。ジョンは反乱計画を妻のキャロルに話してしまうが、その後キャロルと関係が悪化して、離婚することになって、キャロルは離婚調停を有利にするため、反乱計画を新聞に売ると脅迫する。ジョンは憤ってキャロルをレーザー銃で射殺しようとする。
第一のストーリーは、ジョンはキャロルを射殺し、裁判で心神喪失が認められて、精神科医に定期的に治療を受けるということを条件に、地球に行き、そこで一般市民として暮らしている。ガニメデの反乱は成功している。
第二のストーリーは、ジョンはキャロルの殺害に失敗し、キャロルはロサンゼルスで暮らしている。ジョンは反乱計画をキャロルに話してしまってガニメデを危機に陥れた自責の念から自殺の恐れがあり、ガニメデの彼の職場の精神科医が、キャロル殺害に成功したという偽の記憶を植えつけた。それ以外は第一のストーリーと同じ。
第三のストーリーは、キャロルはジョンの監視役としてジョンの勤務先の親会社から秘密裏に派遣された女である。ジョンがキャロルに秘密を漏らしたため、キャロルはジョンを殺害しようとするが失敗。また、ガニメデの反乱も失敗して、ジョンを含む反乱に関わったものは地球の当局に逮捕された。ジョンは今、ガニメデの牢獄か精神病院の中で幻覚を見ている。ただし、キャロルは反乱に関わっていた企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れた。
第四のストーリーは、反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームであり、密告したキャロルもガニメデの牢獄にいる。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。
2007/03/17
「逃避シンドローム」は、まず基本的な設定としては、三年前、ガニメデは地球に対する反乱を計画していた。多くのガニメデ人が愛国的立場から反乱計画に協力していて、ジョンもその一人だった。ジョンは反乱計画を妻のキャロルに話してしまうが、その後キャロルと関係が悪化して、離婚することになって、キャロルは離婚調停を有利にするため、反乱計画を新聞に売ると脅迫する。ジョンは憤ってキャロルをレーザー銃で射殺しようとする。
第一のストーリーは、ジョンはキャロルを射殺し、裁判で心神喪失が認められて、定期的に精神科医の治療を受けることを条件に、地球に行き、そこで一般市民として暮らしている。ガニメデの反乱は成功している。
第二のストーリーは、ジョンはキャロルの殺害に失敗し、キャロルはロサンゼルスで暮らしている。ジョンは反乱計画をキャロルに話してしまってガニメデを危機に陥れた自責の念から自殺の恐れがあり、ガニメデの彼の職場の精神科医が、キャロル殺害に成功したという偽の記憶を植えつけた。それ以外は第一のストーリーと同じ。
第三のストーリーは、キャロルはジョンの監視役としてジョンの勤務先の親会社から秘密裏に派遣された女である。ジョンがキャロルに秘密を漏らしたため、信用できないということになり、キャロルはジョン殺害を命じられるが失敗。また、ガニメデの反乱も失敗して、ジョンを含む反乱に関わったものは地球の当局に逮捕された。ジョンは今、ガニメデの牢獄か精神病院の中で幻覚を見ている。ただし、キャロルは反乱に関わっていた企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れた。
第四のストーリーは、反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームである。ガニメデにおいて、ジョンは処罰されず、密告したキャロルは牢獄に入れられた。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。
四つのストーリーのどれが正しいともどれが幻覚ともはっきりしないまま話が終わってしまう。つまりこの小説は、あるひとつの物語内容を、効果的に読者に印象付けるために物語言説化したのではない。そもそもディックは物語内容にまるで興味がないように見える。でもそれは、特に珍しいことでもないし、SFならではのことでもない。
小説とは、複数の異なる視点を順番に読者に提示していくものだ。これは当たりまえのことだし、小説の書き方本にもしばしば書かれてあることだ。けれども、それを本当に自覚して小説を書いていくことはとても難しいことだと朝野は思う。作者は、読者が読む順番と同じように小説を冒頭から少しずつ書いていく場合であっても、読者よりもずっと多くのことを知っている。ここでは悲しんでいる美女が実はちっとも悲しんでないくて陰謀を企んでることや、元気な若者が次の章では死んでしまうことを知っている。だから(朝野のような)シロウト作家は、ついそれが行間から滲んでしまって、微妙にネタバレしてしまう。キャラの書き分けみたいなわかりやすい例だけじゃなくて、テーマについても、結末の衝撃的イメージについても、作者がそれを重要だと思ってるほど、すべてのシーンに無意識のうちにそれをにじませ、それと矛盾しない表現を選んでしまう。結局、完成後に読者が読むと、同じテーマ性やモチーフの解釈が各章に同じように表れてきて、平坦だと感じてしまうのだ。プロの作品はそれとは全く違う。ダイナミックな変化が読者の読解の順序に合わせて示されている、その当たりまえだがそれゆえに自覚しづらいことが、ちゃんとできている。
まず目に付くのは、はっきりした真相なんかないにもかかわらず、伏線が丁寧に小出しにされているところである。冒頭ではキャロルが死んだとだけ記述され、次に、殺した、となり、中盤でようやく殺意を抱いた理由が紹介されるが、まずはキャロルの個人的虚栄心から反乱計画を新聞社に売ろうとした、とあり、その後でようやく、離婚調停で揉めていた話が出てくる。そしてキャロルに反乱計画を話してしまったのはジョンであり、ジョンがそのことに強い自責の念を持っていることが明らかになる。実はキャロルがジョンを殺そうとしたのだという新たな仮説が提示され、ジョンの疲労困憊する様子が長く描かれた後で、最後の最後に、「キャロルは、ケチな個人的恨みから反乱計画を挫折させ、ガニメデ全体を憎むべき負け戦に陥れたのだ」と、ジョンの義憤が述べられる。そして最後まで読んでみると、どこまで幻覚なのかは別として、ジョンの激しい憤りが読者の心に強く伝わってくる。
ジョンは、キャロルと会っている間は、キャロルが美しいとか自分には朝食を用意してくれないとかブツブツ言っていたのである。キャロル殺害の動機よりも、これが現実か幻覚かを見極める判断材料としてキャロルを見ているようだったのである。ところが、結局現実か幻覚かは捨て置かれて、元妻を激しく憎み同時に自分を責め続けるジョンのどろどろした憤怒がラストに湧き上がってきて、それがこの構成の戦略だったのだろうと気付く。
タイトルからも明らかなように、この構成は、自分が認めなくない事実を少しずつ認めていく過程をなぞっている、いや、正確には、自分が認めたくない事実を少しずつ認めていくときのあの嫌な「感じ」をなぞっているのだ。事実ではなく、事実の「感じ」を読者に伝えることこそが小説の目標であるのだ。
2007/03/24
名探偵は事件の真相を追及することによってプロットを展開させるが、ちょうどそのように、ジョンもこの世界が現実なのか幻覚なのかということにこだわり続け、それを追求し続ける。しかしてその過程から伝わってくるものが小説のテーマ性であり、真相の暴露それ自体は小説の戦略という視点から見てそれほど重要ではない。
すでに要約した1~4の四つのストーリーは、そのような順序で読者に示されるのだが、この順序を見ていくと、一番目では、キャロルに反乱計画を話してしまったものの、その代償としてキャロルの殺害に成功している。二番目では、それすら失敗してしまう。三番目では、ガニメデの反乱自体が失敗してすでに地球に降伏している。四番目では、反乱が中途半端に失敗して、地球との消耗戦が続いているが、ガニメデに資源が乏しく、兵糧攻めされていて勝目のない様子が描かれ、そういった意味では、完全な失敗よりさらに救いのない状態だとも言える。つまり状況のイメージがどんどん悪化し続けてるんだね。そういう方向への一貫したイメージの変化が描かれているのだね。
もしもこの四つの中から選べと言われたら、四つ目が真相なのかもしれない。ガニメデの救いのない状態から逃げ出したい、ガニメデの救いのない状態を作り出したキャロルを殺してしまいたい、しかし本当は、なにより、キャロルに軽はずみに反乱計画を話してしまった馬鹿な自分自身から逃げ出したいのだろう、ということが、最後になって読者に伝わってくる。最後に本人が独白するとおり、ジョンは何度やっても失敗してしまうのだ。現代の閉塞状況とか現代人の実存的不安とか、そういったものを連想させる興味深いテーマ性を備えた作品と言えるのではないか。いや、別に現代が閉塞してるなんて感じ、ぼくにはないけどね。そんな鋭い芸術肌の感性があれば、とっくに傑作小説書いてるだろうけどさ。でもまあ、小市民・朝野は、失敗続きのジョンに共感してしまうなあ。
さて、とにかくも、この取っ掛かり皆無の取り付く島のないように見えた小説が、四つのストーリーを語る四つのパートから成るということがわかったのは、良かった。これを手掛かり足掛かりとして構成を分析して行こうではないか。そうすると、ひとつ目と二つ目のストーリーでは、共に車の計器パネルやテレビ電話のモニタ画面に自分の腕が突き刺さってしまうという不可能事が起こってしまう。だから読者はこれが幻覚で、幻覚を暴こうとする方向にストーリーが進んでいくんだろうなと思う。キャロルは腹を空かしたジョンに食事を勧めることを思いつきもしないし、ドクター・ハゴピアンは、ジョンが治療を拒否すると言うと大いに慌てる。ジョンが自殺未遂したという新聞記事は見つからない。ここまでは、ジョンが外側の世界を追求する体裁が守られているのだが、三つ目では、ジョン自身が自分の勤務先の名前や住所を思い出せなくなってしまう。また、血液検査をするべきだと思いつきながら、なぜか尻込みしてしまう。四つ目に至っては、ハゴピアンが、ここはガニメデで、ジョンは幻覚を見ている、と認めたにもかかわらず、ジョンは、地球の自宅近くからロサンゼルスへ向けて車を走らせていく。ジョンの周囲の世界が幻覚か現実かと考えているうちに、いつのまにかジョン自身が信用できない語り手へと変容していってしまうのだ。ここがミステリと違うSFの醍醐味だ。
2007/03/31
「逃避シンドローム」の構成について改めて考えてみると、結局のところ、第四のストーリーが一番耐え難いわけである。ガニメデは敗北必死の兵糧攻めで苦しみながら死につつある。その原因であるキャロルを罰することにも失敗している。そしてキャロルに秘密を漏らしてしまった自分も、心神喪失だか耗弱だかが認められて、無罪放免。そこから逃げるために第三のストーリーが作られたわけである。自分は罰せられ、キャロルはそもそも悪くない。ガニメデは兵糧攻めで苦しんでいるのではなくあっさり負けている。でもそれでもまだ苦しい。そこから逃げるために、偽の記憶を植えつけられた、という第二のストーリーへ。そこからさらに逃げて、地球で一般市民として暮らし、キャロルは殺せている、という最初のストーリーへ。
ストーリーの順に考えると、地球で普通に暮していて、ガニメデの幻覚を見てるというのが、一番ましで、でもなんか納得できない。深層意識から、自分がウソをついているという感じが常に突き上げてくる。そこで、医者から偽の記憶を植え付けられたのだという第二のストーリーへ逃げ込む。それでも逃げ切れない。やっぱり自分は失敗したのだ、それを認めざるを得ない、ただ、ちゃんと罰せられているのだ、という第三のストーリーへ。けれども、最後に、最も見たくないストーリーに直面する。キャロル殺害にもガニメデの反乱にも失敗し、その責任を負うべき自分は発狂して周りから同情されているという第四のストーリーへ。
読者はジョンが何から逃避しているかを考えつつストーリーの変化を追っていく。そうしていくうちに、逃避の感覚それ自体を実感するのだ。
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いまさらですが、いやあ、乙一、すごい。
感動したっ!
これが処女作かよ。やっぱ、才能ある人にはあるんだなあ。
読み始め、久しぶりにハリーの災難を思い出しました。ご案内のとおり、ハリーの災難はヒッチコックのコメディタッチのスリラーですね。
次々問題が発生して危機が訪れるんですが、それぞれの問題の解決のほうはわりとあっけない。こういうタイプのスリラーの出自は、アメリカの連続活劇映画じゃないかと思うんですが、というのもウィキペディアの「連続活劇」の項を見ると、「ヒロインが線路の上で縛られていて、列車がどんどん迫ってくる」ような単純明快な危機で観客に続きを見たくさせ、でも次の回ではわりとあっさり助かってしまうんですね。というのも、そのときどきで観客をハラハラドキドキさせることがスリラーの眼目であるからでしょう。
この作品では、そのようなスリラーの基本どおり、主人公が次々困難にぶち当たるんですが、主人公の機転もあるが、偶然助かったみたいなこともけっこうある。でもそれは少しも印象悪くなくて、ずっとドキドキハラハラできますね。
スリラーとしての 24 TWENTY FOUR の分析を以前しましたが(文学は社会と関係ない参照)、24では、敵の気を逸らす方法として、コーヒーを相手の机とか服にぶちまけるという手口が何度も出てきてほほえましいわけですが、この作品でもその方法、使ってますね。
そしてオチはホラー。
スリラーは楽しいんですが、軽いし結末がチープになりがちです。そこでかったるい人間ドラマとか恋愛要素を盛り込んで、テーマ性もあるよ、みたいにまとめるのが常套だと思うんですが、そこを潔く切り捨て、ホラーなオチにしたところが男前だね。
しかもその伏線の張り方が熟練プロレベル。
完璧です。