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小説の方法
大江 健三郎
小説の方法 (〈特装版〉岩波現代選書)

大江 健三郎
小説の方法
私は小説の書き方関連の本を読み漁った結果、小説の構成法について具体的・論理的に書かれた本がほぼ皆無であることに気付きました。言わば、カレーの作り方関連の本を読み漁った結果、どれもカレーの作り方の手順については書かれておらず、材料の買い付け方のコツとか、お皿に盛り付けるとき見栄えがする方法とか、カレー粉の成分と種類とか、カレー作りに欠かせない鍋やガスコンロの選び方とか、自分がカレーを作るようになったきっかけとカレーへの深い愛情とか、はたまたログハウスの作り方を長々述べた後で、何かを作るという点ではカレー作りも同じことだとか、そんなことばかりが書かれてあったようなものです。そういうバカバカしいことが、なぜか小説の書き方本に関してだけは、堂々と許されています。そんな中で、小説の構成法を小説を書く立場から具体的・論理的に描こうとしたほとんど唯一の小説の書き方本が、これです。この作者によると、小説の構成法のキモは、小説を分節化して把握していく、ということです。小説とは分節が組み合わさった立体的な構造物であって、そのような構造物として小説の構成を立体的に捉える捉え方が、本書では具体的に説明されています。分節化について作者の言葉を引用しておきますと、「ある長さの文章・パラグラフにおいて、ひとつのイメージのかたまりを作る。そのようにして分節化したイメージを、かたまりからかたまりへ連結する。それをつうじて、小説の全体が作りだされる」(p.194 新しい文学のために)
実は引用部は、「新しい文学のために」のほうなんですね。「小説の方法」をわかりやすく書き直したのが「新しい文学のために」だと作者本人が言ってますから、これでいいんです。けれども、「小説の方法」の白眉、「浮かれ女盛衰記」の構成分析が、「新しい文学のために」のほうには載ってませんから、やっぱりこっちも読んどかなきゃなりません。で、こっちは「新しい文学のために」よりもさらに悪文なので、何度も読み返す必要があります。借りるんじゃなくて買ったほうがいいでしょう。

小説の基本構成




2001/10/06

この本は全編に渡って小説の技法である「異化」について語られている。大江は冒頭で異化を定義して、およそ創作の全ての過程(構想、言葉、文章、分節、小説全体)で「異化」が有効であると述べている。また「分節」という言葉を、この本だけで通用する用語として、「多様なレヴェルにおいて、はっきりしたまとまりをなすある部分を、他からくっきりと分離して把握し、全体への繋がりを考えるという意味(p.11)」と定義する。

この本で言う大江の「異化」は社会運動や人類の未来にまで役立つようだが、とりあえずシロウト作家の創作という卑近な例に当てはめて考えると、小説は言葉が集まって文章になり、文章が集まってひとつの意味的固まりになり、それらが集まって小説全体ができている。そしてその組み合わせを工夫することによって、読者に驚きや感動を与えることができるということのようだ。当り前じゃんと一瞬思うが、当り前だで済ませて実はわかっていないのがシロウトという奴かもしれないと反省しつつ先を読む。

具体例として、大江は第四章でまずバルザックの「浮かれ女盛衰記」を取り上げる。筆者は未読だが、大江によるこの小説の要約をさらにここで要約すると、魅力的な娼婦エステルが、リュシアンという男を愛するようになり、それを契機に一旦は娼婦をやめる。ところがリュシアンが何かの理由で危機に陥り、彼を救うために娼婦に戻り金満家の男爵の思い者になることを自ら決断する、という話らしい。「思い者」ってなんだろうな。妾になっちゃうのかな。


大江は、エステルが娼婦に戻るシーンを特に取り出して解説する。このシーンは二つの部分から成っており、前半では「エステルの悲嘆に満ちた決断の清らかな美しさをくっきりと映し出している(p.79)」。その直後にエステルが元の魅力的な娼婦だった頃の感覚を取り戻したかのように下品な言葉で召使いをからかい、すっかり観念したように「つまりさ、ひとっぱたらきしましょうよ」と言うシーンが続く。大江は前半を第一のシーン、または第一のエステルと呼び、続く第二のシーンとのつながりにおいて「ダイナミックな転換」があると言う。

大江がわざわざ分節という言葉を定義しておきながら、ここでシーンと言い換えているのは、シーンが分節の一例だからだろう。そして分節の構造上の工夫から異化の効果が生まれると言うことの具体例なのだろう。

しかし、創作系のウェブによくある小説の書き方の中の、「キャラを立たせるには意外な一面を持たせると良い。たとえばマッチョな大男なんだが実は甘い物好きとか」なんて書かれてあることに比べて、ここで大江が言っていることは何ほどか高級なことなんだろうか。確かにこのワンシーンは、ここだけを読んでも魅力的であると認めるが、それは単にバルザックの小説が面白くて人物が魅力的であるということではないのか。

大江は第一と第二のエステルは、一人物中に並立する二つの性格ではなく、第一のエステルが第二のエステルに「転換」するのだと言う。そして最初の愛を知らない娼婦と、最後の愛する人のために男爵の「思い者」になることを決断した娼婦とは、外見が同じでも中身が違う、その変化が読者の想像力を活性化すると言う。しかしそれは物語上の理由だろう。エステルがそういう魅力ある女性だという話だろう。それを思い付いたバルザックは天才だなあということじゃないのか。分節を注意深く構造化することにより読者に物事の新しい感触を与える「異化」という技法を説明するための具体例に、なってるのか。



異化 ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何物かを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」としてもっているものを「感触」として伝えたということだ。異化とは、つまるところ「独創性」の同義語である。(p.88 小説の技巧、デイビッド・ロッジ、白水社、1997)


2001/10/06

大江が「小説の方法」を書き、その中で文学の技法として「異化」を取り上げ、その具体例としてバルザックの小説を持ち出してるわけだろうが、ゴルァ! でだな、大江がそこまで言うんならだな。その技術ってやつをちょこちょこっとパクッてさらさらっと小説書いて、それを応募して賞金ゲットなんだよ、shit!

分節のある特定構造が異化という文学上の効果を生み出すんだよな、間違いないよな。じゃあ、試しに置換え不可能な構造を残してその他を総入替えしてみよう。

  1. コワモテの殺し屋、エースの輝(てる)(通称エース・テル)がいた。
  2. 竜さんという風俗店経営者と親しくなり、それを契機に殺し屋をやめ竜さんの会社の経理事務の仕事をするようになる。
  3. ところが竜さんはヤクザと揉めて命を狙われる。
  4. 竜さんが死ぬと堅気の職を失ってしまう。かといって、竜さんを守るためには、対立するヤクザの親分を殺すしかない。
  5. 輝は殺し屋に戻って、ヤクザの親分を殺す決意をする。


ばかばかしいよなあ。構造主義の本、これから読もうかなと思ってるが、そんなもんで文学を語れるわけないと思うけどな。……でも、未練たらしくもう少し考える。エースの輝、確かに冒頭の殺し屋であるという設定と、ラストにまた殺し屋に戻るということの間には大江の言う通り、外見は同じでも中身が違うと言えるかもしれないなあ。ただ、その変化が私の想像力をまるで活性化しないのが難点だな。

ところでしつこくつまらない思い付きに拘るが、例の創作系ウェブのマッチョな大男が、大暴れした後で救出したヒロインそっちのけで苺ケーキ食べてたらちょっと笑えるかも。おお、そうだ、なかなか微妙だが、マッチョがケーキを食べた後で大暴れしても別に笑えない。私は前回「マッチョな大男なんだが実は甘い物好き」と書いた。この「なんだが実は」の部分にすでに物語が潜在しているではないか。逆にエステルの話をわざと平坦な設定にしてみると、こんな感じかな。「美人で蓮っ葉な娼婦。しかし惚れた男には一途に尽くすような一面がある」。キャラ設定したり最初のシチュエーションを決めると、プロットを書かなくても物語を転がしていけると言う人がいるが、物語を潜在させたキャラやシチュエーションを思い付くってことなのかもしれないね。

結局、エステルの話は、魅力的な娼婦一般に対する読者の同情がなければ成立しない話なんじゃないか。だったらごちゃごちゃ言わずに、魅力的なキャラを描け、でいいじゃんか。魅力的な人物が多面的な性格を持っていて、多様な面を描き分けることにより立体的な人物描写をするわけだろ。いちいち分節の構造化による異化効果とか言うほどのことかよ。どこが異化なんだよ。わかんねえよ。なんだそのキツネザルみたいな眼鏡、マジ似合ってると思ってんのかよ、あー?

結局、構造主義の構造ってなんのことなんだろうな。まずそれを調べないといかんのだが、面倒なので想像で話を進めるが、もしも、娼婦がどの民族にも共通する神話的存在であり、その死と再生を描くことが物語の構造だ、なんてことならどうしよう。なんとなく、構造ってからは建物の柱みたいなもので、物語でいえばプロットをもっとすかすかにしたやつかいなと思っているのだが。大体が、社会科学系で言う構造って違和感あるよなあ。普通構造つったら、花にはおしべとめしべという構造があって、虫とか風とかで受粉する、その花の機能を裏打ちするのが構造だみたいに使うものだろ。複数の民族間に共通の規範ってのは、民族に共通の構造が生み出す機能と言うべきじゃないのか。

すみません、無知のため止めどなく妄想が広がってしまいました。

2001/10/06

エステルに戻ろう。「第一のエステルの次に第二のエステルを置くことにによって順番に読み進む読者の想像力を活性化する」というのは小説の立体的な構造により踏み込んだ方法論だと言えるだろう。第一のエステル、第二のエステル、そしてそれに先立ってまだ愛を知らない魅力的な娼婦の描写があり、それらがこの順番で並ばなければならないというのは感覚的に分かるような気がする。

娼婦エステルを最初に描写する時、そこにはまだエステルが純愛に目覚める可能性について明示されていない(はずだ、読んでないけど)。そして読者は、正にフォルマリズムの言う「自動化」によって娼婦一般に対するイメージを自分の中に作り上げ、その中には純情と背反する多情というようなイメージが無意識の内に組み込まれる。次にリシュアンと出会うことにより、純情可憐なエステルが新たに提示される。この時点で読者は既にスリリングな印象を受けるのであるが、それはまだ、自動化された「多情」のイメージが「純情」のイメージに置換えられたに過ぎない。ところがラスト(かどうか読んでないのでわからんが)で第二のエステルが現れた時、読者は「娼婦」の中に「純情」のイメージを不可避的に見出す。それは無意識の内に読者の中に自動化され手垢のついた「娼婦」のイメージを打ち壊し、また「純情」のイメージを打ち壊し、それらの再構築を読者に強要(=異化)する。

ということかな。いきなり結論でちゃったけど。大江はこの部分でそれほどはっきりとこう言ってるわけじゃない。もう一度この本を最初から注意深く読み直せば、全体としてはこのような方向で話をしているかもしれない。でも、今直ちに再読するのは面倒なので、今回はこの辺で勘弁しといてやろう(爆)。みなさん、自分で読むように。まあ、私もそのうち再読するかもしれない。

で、最後にもう一度しつこく「マッチョでケーキ好き」を再考してみよう。もし大江の理論がなにがしか応用可能な技法となり得る可能性があり、単にバルザックが天才と言うことでなく、エステルという特定の人物が魅力的であるというだけでないなら、同じ理論で「マッチョでケーキ好き」を説明してみやがれ、糞野郎!

まずマッチョが悪漢をやっつけるシーンを見ると、なんかそういう正義の味方に関する手垢のついたイメージが湧いてくる。その後でヒロインそっちのけで苺ケーキ食ってりゃ、そりゃイメージ壊れるわな。苺ケーキのシーンを先に持ってくるなら、まず女性的でエレガントなヒーローにするだろうな。趣味はケーキ作り。暴力反対の平和主義者で。でも、最後の最後で実はカンフーやってて、ヒロインを救出してしまう。あら、意外と内面はマッチョね、ってことだ。つまり分節の順序によってキャラに対するイメージの定着の順序が変わってくるので、結果キャラも変わってしまうのだな。じゃあ、エースの輝は。エースの輝は、最初に殺し屋としてのイメージを定着させる。それは冷酷非情とか、金を貰ってきっちり仕事するとかいうイメージだな、きっと。そしてラストで自分の地位や収入を守るためにヤクザの親分を殺すと決意しても、それは手垢のついた殺し屋のイメージの範疇に収まっているために、イメージの再構築の必要もなく、想像力が活性化されることもなかったのだろう。

2001/12/15

およそ芸術とか、芸術の発生とはどのようなものだろう。本当はそれら芸術一般についてもっともらしいことを述べた上で論を進めたいのだが、知識もないし時間もない。ただ、今、私が思い付いたことは、芸術は実用的なものから派生し、次第に非実用的なものとして発展しているように見える。たとえば、大昔は絵文字が使われていたし、図形は土地の測量のため研究されてきた。そして次第に絵画やデザインが芸術と呼ばれるようになった。歌は神話の伝承や遠隔地の連絡に使われていたし、建築や衣服もまた実用的なものだ。実用的なものが芸術に移行する境目はどこだろうか。根拠を示さず結論を急ぐが、実用からの逸脱による異化効果が人に感動を与えるのではないだろうか。

実用からの逸脱には二つの効果がある。まず実用に見えることでそれに向き合う者の態度が定まる。次にそこから逸脱することで新しい感触が与えられる。

古く仏教では「機」ということを言ったそうだ。お坊さんがいくら説教しても聞く耳がなければ効果はない。いや、別に宗教の話じゃないんで、要するに、小説に向き合う人の態度がある一定の範囲内にあることが大事じゃないかってことですね。読者がある一定の範囲内の態度を取るということが予め予想できなければ、彼らを驚かせ感動させるための小説の仕掛けを作ることもできないだろう。小説は直接観客の前で演じるものじゃないから、アドリブはきかないんだよね。

近代小説が生まれた初期には、伝記小説が最も一般的で人気があったという。たとえばロビンソン・クルーソーも実話であるかのように宣伝され出版されたという。また書簡形式の小説も好んで書かれたという。作家がそれらの形式で小説を書き、人々がそれを自然に受け入れたのは、伝記や書簡が当時一般的であったことと関係があるに違いない。

文字はまさに実用的なものであり、特に近代以降多くの人が教育を受け日常的に文字を扱うようになった。私たちは小説を読む時、無意識のうちに普段文字に接する時の態度を内面に形成する。ちょうど絵画を見る時に色彩や図形に注目するように、この文字の並びはどのような単語か、おのおのの単語はどのような意味的関係にあるか、さらには文章全体として何を伝えようとしているのかを考える。読者は頭ではフィクションだとわかっていながら、文字を読むことの長年の習慣からまるで事実の伝達を受けているような感覚を味わう。だから小説の枠組みを暴露するような描写には鼻白むし、論理的矛盾や感情的齟齬にも敏感だ。つまらない小説を読むと、つい、「何が言いたいんだよ、馬鹿」とか叫んでしまう。

文章をコミュニケーションの道具として考える時、それの主旨(テーマ)、それを書いた人の動機(モチーフ)、文章の意味的構造(プロット)がひどく気になるのは自然なことだろう。

結局、テーマ、モチーフ、プロットが重視されるのは、第一義的には、読者の読解のための慣習的態度から来ているのではないか。

2001/12/23

しかし小説はコミュニケーションの(実用的)手段ではない。

私たちは小説が最も自由な形式の芸術のひとつであると知っている。そして私たちが知りたいのは小説の一般的傾向や類型的構造ではない。面白い小説と面白くない小説の構造上の違いである。なによりそれは、創作の方法論として有効でなければならない。構造の理解が、実際に小説を書くことに役立たねばならない。

読解の立場から使われるテーマやプロットやモチーフという言葉。それらから無自覚に類推され当てはめられた「作者の言いたいこと」「設計図」「創作動機」などという無邪気な言葉。さらには人間や人間の社会を分析する科学を目指した構造主義。これらは創作のための役に立たない。彼ら読者は創作を目指していないし、創作について考えていない。

今までハウツー本を参考にしながら考えてきた中で、小説の具体的方法論に踏み込んでいるのは、「分節の構造化による異化効果」だけだ。小説の多様な広がりを見れば、他にも方法があるだろうと思う。けれどまず「異化」についてもう一度おさらいしよう。
異化
ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何物かを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」としてもっているものを「感触」として伝えたということだ。異化とは、つまるところ「独創性」の同義語である。(p.88 小説の技巧、デイビッド・ロッジ、白水社、1997)

現実の慣例的、習慣的描写により描写され得るモチーフがあって、それは我々がすでに「観念的知識」としてもっているものである。つまり異化効果を発揮させるには、平凡で手垢のついたモチーフが必要なのだ。次にそれを新たな感触として伝える。そこにテーマはない。ありきたりの事物に新たな感触を与える技法があるだけだ。新たな感触を受けた読者が人間や人生について考え直すことはあるだろう。読者はそれをその小説のテーマだと考えるだろう。テーマは読者の読解を助ける有効な方法と言えるだろう。けれど創作の際には関係ないのだ。

次に分節についておさらいしよう。
分節
…分節化(は)…多様なレヴェルにおいて、はっきりしたまとまりをなすある部分を、他からくっきりと分離して把握し、全体への繋がりを考えるという意味(p.11 「小説の方法」、大江健三郎、岩波書店、1993)

この分節の定義が作者の立場からなされていることに強い印象を受ける。分節は意味的なまとまりであり、それぞれの分節は意味的な違いによって互いに分離される。分節の意味は作者が読者の中にあるイメージを喚起させようとする仕掛けのことである。喚起されるイメージとその仕掛けは一対一に対応しているためにほぼ同じ意味で使われることがあるが、ここでは創作するという立場から使っていく。

以前私たちは分節の構造化による異化効果の例として、バルザックのエステルを取り上げた(第一部・5~7)。そこではエステルと言う人物のある一面を描写する分節と別の一面を描写する分節を順次並べることにより異化効果を生み出していた。異化効果を生み出すための分節は読者にあるイメージを喚起させるための仕掛けである。分節の最小単位は、ひとつのイメージを喚起させるためのひとつの仕掛けである。分節を他の分節と区切るものは段落でも場面でも章分けでもなく、ひとつのイメージを喚起させるひとつの仕掛けである。


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評論/ノンフィクション | 【2005-01-30(Sun) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
AA716,juji
どんどん、にゃー!

未分類 | 【2005-01-30(Sun) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
散文の理論
散文の理論散文の理論
(1971/01)
ヴィクトル シクロフスキー

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これは必読書ですね。まず目次を見ますと、「主題構成の方法」とか「短編小説と長編小説の構造」とかありまして、なにやら小説の書き方にソク応用できそうで読む前からワクワクしてきます。そして読み始めてすぐに気付くことは、シクロフスキーは、詩的言語と散文を区別して考えており、小説は散文であり、小説における異化の技法とは、別に詩的表現を小説に組み込むことじゃないのですね。ここいらへん、文学部唯野教授ですら少々勘違いしているようですが、詩の異化と散文の異化は別の話です。シクロフスキーは、「詩の言葉は構成された言葉である。散文は、簡潔で理解しやすく、文法に適った普通の言葉である」と述べています。なるほど本書の冒頭で詩的言語について触れられていますけれども、それは話の枕に過ぎず、詩的言語とは違う方法で、散文は異化されるのですね。つまりは先行する詩の文学研究に対比しての、新しい、「散文の理論」なわけであり、散文である小説に関してフォルマリズムを語るときにはヤコブソンなんかじゃなくてまずシクロフスキーこそを参照すべきなんですが、それではシクロフスキーの言う散文における異化の技法とは何かというと、視点及び構成です。視点については、始めの方にトルストイを例に挙げて詳しく説明してあり、その後はずーっと小説の構成について書かれてます。もう絶対必読書決定ですね。
私はこの本を強く推薦しますが、しかしながら、当時のヨーロッパ文学やフォルマリズムが依拠または批判する先行研究の知識が前提とされていること、結論をわざとぼかすようなシクロフスキーの独特の言い回し、翻訳の問題などがあり、浅学な私には大変読みにくかったことを付け加えておきます。

小説の基本構成




2003/03/15

「散文の理論」(ヴィクトル・シクロフスキー、せりか書房、1971)は目次も題材もなにやら興味深げな雰囲気を醸し出しているが、大部である上、読んでいても内容が頭に入ってこないのである。第一には、この本が当り前のように参照しているロシア文学やヨーロッパの文学史やフォルマリストが批判の矛先を向ける先行の文学論について、私が全く無知であるということがある。しかしそれにしてもたとえば、
探偵の登場する小説は《犯罪小説》の特殊な例でありながら、盗賊の登場する小説を圧倒しているのは、たぶん、秘密の動機付けに便利だからという理由からにちがいない。(p.230)

という一文を取っても、特に難しい表現はなさそうだがなぜかにわかには意味を掴むことができない。わからないのは「秘密の動機付けに便利」というところである。さらに読み進めると、ここのところは「秘密を持った短編小説」の章の後半なのだが、お馴染みのシャーロック・ホームズについて取り上げいて、本編中最も解りやすそうなくだりである。そして、
ワトソンは虚偽の謎解きによって動機付けられている。(p.234)

とあって、さらっと読み流してしまうけれども、よくよく考えるとわからない。どうも「動機」というと人間の感情のように思ってしまうし、ワトソン、動機と一文の中にあると、ワトソンの動機のように思ってしまうが、それだとやはり変である。色々考えた末、モチーフの関連付けのことを「動機」と言っているのではないかと気付いた。つまり探偵小説は、プロットに秘密を組み込むのに便利であり、またワトソンの作劇上の役割は、読者に虚偽の謎解きを提示することである、という意味のようだ。どうも翻訳の問題もあるのではないかという気がする。この章の最後の一文は次の通りであるが、そういう目で見直すと、確かになんか変である。
主題として展開される文学をロシアに創造せんとしている者はすべて、コナン・ドイルの使用した暗示と、そこから導き出される結末に注意を向けるべきである。(p.263)

難しい言葉は使われてないのだけれども、やっぱりなんだか意味不明なのである。まず「主題として展開される文学」がわからない。そしてそれは今もってわからないままなのであるが、コナン・ドイルの使用した「暗示と結末」とは、恐らく、推理小説における「伏線と真相」の意味だと思う。

さてそこで、ロシア語の原著に当たるなど思いも寄らない貧しい――ああ、知識の貧しさこそが真に不幸な貧しさである――私は、なんとかこのホームズを取り上げたくだりだけでも、何度も読み返して内容をこれ理解し、みなさまにお伝えするつもりである。およそ人に説明できて初めて理解したといえるのであり、自分の言葉で説明し直す努力はむしろ人のためでなく私自身の理解の深化のためであるに違いないからである。

2003/03/22

前回に続いてシクロフスキーの「散文の理論」のうちの一章「秘密を持った短編小説」を読んでいこう。

シクロフスキーは章の始めで次のように言う。物語の叙述法として、ひとつは、トルストイの「戦争と平和」のように、「一貫した時間の流れの中でほとんど何の省略も無しに進行していく」(p.225)書き方があり、もうひとつは、「後になってようやく明るみに出る《秘密》を物語の中にはらませて語る」(p.225)書き方がある。そしてその実例をトルストイなどから引用した後で次のように一旦の結論を出す。
ここでわたしは、特殊な場合には《秘密》の創造に利用され得る時間の中断と、主題を展開するプロットの方法が明白にされている秘密そのものとのあいだにある相違を示そうと試みたのである。(p.229)

なんとも自然な日本語の理解に挑戦する文章である。まず「時間の中断」であるが、これはどうやら前述の「一貫した時間の流れの中で」語る書き方に対照させて、時間の順序を入れ替えたり結果を先に示したりする書き方のことのようである。そして結果を先に示しても《秘密》の創造にならない例を示す。ある人物の死を述べた後で彼の死に到る奮闘を描写するトルストイの例である。そこでは結末がどうなるのかという興味は捨て去られていて、シクロフスキーはそれを、プロットとの格闘、プロットの拒否とまで言う。どうもそれは言い過ぎじゃないかと思うが、この章の本題はそれではなく、そのような文学と対照的に「主題を展開するプロットの方法が明白にされている秘密」を持った探偵小説なのである。

シクロフスキーは一連のシャーロック・ホームズものがどれも似通った構成をしていることを指摘する。どの作品でも、たいてい、冒頭でホームズが窓から外を見ていると依頼人がやってくる。彼または彼女の身分や職業についてのちょっとした推理が披露され、依頼人が驚く。次に詳細な事件の説明があり……といった具合である。またワトソン博士の三つの役割について述べる。私の言葉でまとめ直すと次の通り。
  1. ワトソンはホームズの推理を外側から眺め、連続した推理の流れをいくつかの事件のまとまりに分ける。
  2. ワトソンは間違った推理をしてホームズに訂正の機会を与える。
  3. ワトソンはホームズに質問したり反論したりすることにより、ホームズの推理を物語に引き出す。

しかしこの、二つめの「ホームズに訂正の機会を与える」のは、三つめの「ホームズの推理を引き出す」に含まれるのではないか。むしろ間違った推理は結末を引延ばす働きをしているのであり、シクロフスキーの普段言っていることから考えても、そこが重要なのではないか、だからこそ三つめと分離して二つめの項目を立てたのではないかと思うが、ともかくもここでは「ホームズに訂正の機会を与える」と確かに書いてある。

シクロフスキーはその後ホームズが毎回決まったように依頼人の袖口に注目して、擦り切れているからタイピストだとか泥が跳ねてるから幌馬車に乗っただろうとか言うのを面白そうに引用する。コナン・ドイルがいつも同じ形式を使いゆえに形式の研究に適していると言いたいのだろう。そして次にこう述べる。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズは、ときたま秘密めかしく表現されているが、そのようなことには、秘密は遠まわしに表現されているだけである。(p.236)

この文章のわかりにくさはどうだろう! この前後の辺りもよくわからない。ここで言う「そのようなこと」とはその前の一文を指しているようである。
秘密の方法は、小説の本体そのものに、登場人物を招き出したり、登場人物についての作者の意見を述べるやり方に根拠を置いていることがよくある。わたしはこのことをディケンズの作品分析を通して指摘しておいた。(p.236)

しかしこの章にはディケンズの作品分析はないのである。そこでこの辺りの理解は諦めて次に進む。このあとは、コナン・ドイルの「まだらの紐」が多くの引用と共に詳しく取り上げられる。私たちは「まだらの紐」の邦訳を青空文庫で読むことができるので、それを手掛かりにして今までよりはずっと楽にシクロフスキーの言うことを理解できるようになるはずだ。


2003/03/29
私は「散文の理論」の「秘密を持った短編小説」の章の後半を繰り返し読んだ。そして(第82回ですでに取り上げた)最後の一文の「主題として展開される文学」の意味がわかった気がした。もう一度引用しておこうか。
主題として展開される文学をロシアに創造せんとしている者はすべて、コナン・ドイルの使用した暗示と、そこから導き出される結末に注意を向けるべきである。(p.263 散文の理論)

理解の前段として「展開」という言葉を考える。シクロフスキーは、シャーロック・ホームズから静的なモチーフを引用して、それを、「その後のプロットの展開においてそれが意味を持たない」という言い方をしているところから、「展開」という言葉にはそれほど重い意味はなくて、「プロットの展開」は、「車輪の転がり」みたいな重複による意味の強調であると考えて良いようだ。つまり「プロットの展開」は「プロット」とほぼ同じ意味なんだけれども、小説を読み進むにつれ段階的にプロットが提示されていく様を強調しているのだと思われる。

次に、本文中には「主題を展開するプロット」という表現が何度も使われるが、その意味は、読者がプロットを読み進めるにつれ主題が露わになっていくということだろう。それをプロットを主語にして言いかえると「プロットが主題を展開する」となるわけだろう。そして私たちもプロットの働きがそのようであることに同意するから、「主題を展開するプロット」は、「プロット」とだけ言ってもほぼ同じ意味として通用するだろう。

さてそこで、「主題として展開される文学」の意味だが、これがなぜ受身になっているかというと、主題を展開する主体はプロットであるから、文学の側は受身になるのである。つまり「主題として展開される文学」とは、「プロットによって主題を展開されるところの文学」のことであり、要するに、「プロットを持つ文学」のことであり、まあ、大体、(当時の)現代文学と同じ意味だろうと思われる。

要するに、シクロフスキーはこの章の最後で、現代文学を書こうと思ってる人は、シャーロック・ホームズ読んだ方がいいよ、と言っているのである。主題を展開する方法が明白である小説と、それほど明白でない小説があって、シャーロック・ホームズは前者である。「ラドクリフあるいはディケンズの作品では、われわれはつねに自然描写や心理分析などを見出せるのに、この短編(ホームズもの)には、犯罪と追跡のほかにはなにもない(p.261)」ためにプロットの仕掛けがずっと分かりやすい形で露出している。だから分析しやすいよ、と勧めているのである。


評論/ノンフィクション | 【2005-01-27(Thu) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ロシア・フォルマリズム
ミシェル オクチュリエ, Michel Aucouturier, 桑野 隆, 赤塚 若樹
ロシア・フォルマリズム

マイナー路線まっしぐら! ブログランキング上位を早々すっぱり諦めた朝の書評、第二弾は、ロシア・フォルマリズムの全体像をコンパクトにまとめた良書です。実のところ、専門用語が頻出して、私の知識レベルでは読みにくいのですけれども、妙に興味深く、今回ぺらぺらと読み直してみて、以前は素通りしたところですが、新たな発見があって、トゥニャーノフが、我々は構成と素材(おそらく形式と内容という言葉に準ずる意味のようだ)の不均衡から美的意図を認める、と言ってるようですけれども、そのあたりが面白かったです。けれども、この本の中で私が最も興味を惹かれたところは、やはり、ゴーゴリの「外套」についての伝統的な解釈をフォルマリストが批判して、「(『外套』の主人公の人間性が露になる印象的なシーンに)ある種の芸術的手法以外のものを、私たちは見ることができない」と言ったところです。さらに別のところで、「トルストイがロシアの軍隊で行われている体罰を告発するとき、彼は、そこで鞭打ちの刑を『異化』し(そうすることによって、その残酷さと愚かしさを感じさせ)」というくだりがあります。私の理解では、フォルマリズムは形式を強調しますが、それは内容を軽んじるという意味よりはむしろ、内容(外套の主人公の人間らしさや鞭打ちの刑の残酷さ)を読者に訴えるためには技術が必要だ、と言っているように感じました。「スマトラ沖の津波で20万人以上死んだ」という言葉は真実ですが、その言葉からだけでは、津波の真実の恐怖が伝わってこないようです。文章によって真実を伝えるためには、技術上の工夫が不可欠であり、その技術こそが真実そのものよりも(伝えるという見地からは)重要だ、と言えるかもしれません。そして、小説の書き方という見地からは、天才に突然降臨するモチーフよりも、「石を石らしくするため」の技法の方が重要であり、つまりは、学ぶに足る小説の書き方があるに違いない、という根拠をフォルマリズムが与えてくれている気がします。

小説の基本構成
http://juji.hp.infoseek.co.jp/essay/kihonkosei.htm
登場人物の登場過程
http://juji.hp.infoseek.co.jp/essay/tojojinbutsu.htm


評論/ノンフィクション | 【2005-01-25(Tue) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
はじめに
自分自身の読書のモチベーションを高めるために、読んだ本のメモを日記風に書いていきたいと思います。当面は、過去にすでに読んだ本の紹介も交えて、週1回以上の更新を目指します。普段あまり本を読まないのですが、これを機にがんばりたい。ダメならブログ削除して消えます。最初から弱気。まあ、あんまりがんばると続かないので、やっぱりがんばると言ったのは取消して、ぼちぼちやっていこうかな。

未分類 | 【2005-01-23(Sun) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
新しい文学のために
大江 健三郎
新しい文学のために (岩波新書)
これは実践的な小説の書き方について書かれています。そして作者はなるべくわかりやすく書こうとしていますが、それでも言葉遣いが小難しい。だから、さーっと読んでいくと抽象的な内容のような印象がしますが、実は違います。たとえば、「読むと書くとの転換装置」という耳慣れない言葉が、見慣れない模式図と記号A、B、Cなどを使って説明されていて、つい読み飛ばしたくなりますが、ひとつひとつの言葉の意味を把握しながらゆっくり読んでいくと、誰にでもわかるように書かれてあります。手法に意識的な読解が手法に意識的な創作に役立つ(その逆も真)というふうに私は理解しました。また、ロシアフォルマリズムの説明に際しても、海外の古典だけでなく、俵万智や夏目漱石を例に引いて説明しているので、わかりやすいでしょう。それでも、異化、明視、トリックスター、グロテスク・リアリズムなどの文学用語について、私はまったく素養がなく、小難しいという印象は最後まで拭えませんでしたが、フォルマリズム関連の本をもう少し読んでみたいと思うきっかけになりました。つまりこれはそれだけ興味深い内容を持った本です。

31.「白昼の悪魔」を分解する・其の八
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00013.htm
35.分節を考える・其の一
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00035.htm
170.チェーホフを読む・其の二十六
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00170.htm
180.チェーホフを読む・其の三十六
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00180.htm
322.知らないことを想像してみる・其の十一
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00322.htm
小説の基本構成
http://juji.hp.infoseek.co.jp/essay/kihonkosei.htm


評論/ノンフィクション | 【2005-01-23(Sun) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)

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