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登場人物の登場過程 09
さて、第二のテーマについて、イワンは魂の不滅、人の不死、つまりはキリストを信じているが、アンドレイは信じていない。けれども、それは科学的態度ではなくて、何をどう変えようとどうせ人は死ぬのだから、監獄や病院の不道徳な状況が改善されなくても本質的には同じだ、という言い訳に使われている。第三のテーマについて、イワンは、人間が尊いのは痛みを感じる能力があるからであり、それの放棄は生活の放棄であり、だから外的な苦痛を無視したり生活を軽蔑したりすべきでないと言う。一方で、アンドレイは、ストア派の哲学を持ち出して、六号室も自分の書斎も変わらない、真の幸福は内面にあり、生活を軽蔑するべきだと言う。それはたちまちイワンのまっとうな反論にさらされる。

あなたは、仕事を助手やそのほかの悪党どもに押しつけてしまって、自分は暖かで静かな部屋にすわりこみ、金を貯めたり、本を読んだり、いろんな高尚がったくだらぬことを考えたり、(イワン・ドミートリイチはドクトルの赤い鼻を見て)飲んだくれたりして、ひとりでいい気になっているんです。これを要するに、あなたは生活を見ていない、生活をすこしもしらない、現実ともただ理論の上でだけなじみになっていられるにすぎん。(*10)


この一節は、アンドレイについて語りながら、それは同時に、私たち読者の態度でもある。私たちはイワンの苦しみもアンドレイの不誠実も、ただのフィクションだと高を括って見物している。

アンドレイは、「あなたとの会談はわたしに、このうえない満足をもたらしてくれます」と言う。

これは、はっきりと、嘘である。

イワンを診断して六号室に送ったのはアンドレイであり、だからアンドレイはイワンが病気であると知っており、彼と知的会話を楽しんだと思うなどありえない。アンドレイは嘘を付いていて、だからイワンに罵倒されるのだが、何しろ相手はただの狂人だから、まったく痛痒を感じずに、動物園で檻の中の動物を見て慰められるように、高を括ってイワンを見物していられるのである。

ニキータが牧羊犬並みの存在感しかなく、エヴゲーニイがアンドレイを追い立てる機能でしかないように、人間アンドレイもまた、いまだに登場していない。

脚注・文献

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登場人物の登場過程 | 【2009-09-30(Wed) 08:50:31】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 08



第九章と第十章では、ふとしたことから六号室を訪れたアンドレイがイワンと話をして、彼に興味を持ち、長々と哲学談義を行う。

アンドレイは病院の院長であり、ニキータが直立不動で命令を聞く様子からもわかるように、大権力者である。現代でも医者は金持ちだが、当時のロシアでのアンドレイの地位は、相当に高かったようだ。そういえば、同じ医者であるエヴゲーニイは、アンドレイが金持ちだろうと羨んでいたし、つまりは、医者の中でも、病院長は特別に地位が高いのだろう。一方で、イワンは、貧しい孤独な狂人である。二人の社会的地位の懸隔ははっきりしている。

ところが、イワンはアンドレイを激しく罵り、アンドレイはそれをにこやかに聞くのである。

それぞれのテーマについての、アンドレイとイワンの言い分を聞いてみると、いや、正確に順序を言えば、アンドレイとイワンの言い分を聞いた後で、テーマを抽出したのだが、第一の、無辜の人間の不当な拘禁については、イワンはそのようなことが行われると言いながら、自分については、病気だと素直に認める。だとすれば、彼自身は、不当に拘禁されているのではないのに、イワンは、アンドレイたちが極めて不道徳であり、自分たちばかりが贖罪の山羊としてここに閉じ込められているのはおかしいと言い立てる。彼の入院が正当かどうかは、彼が病気かどうかとかかわっているのであり、彼は病気であり、そのことと、病院内での待遇が十分でないこととは、別の問題である。彼は精神を病んでいるので、話の辻褄が合わないのもしかたのないことかもしれない。一方で、アンドレイは、道徳も論理も関係ない、イワンがここに拘禁されているのは、ただ、無意味な偶然があるきりだ、と言う。これも医者として不可解な発言である。単に、イワンが病人だから病院にいるのだ、とだけ言えばいい話のはずである。

このような奇妙な逸脱は、これが単に、六号室の天井に取り付けられた監視カメラの映像と音声をテキストに起こしたものではないことを示唆している。

もちろんそうに決まってるのだ、性病予防のための漫画冊子が、若い少年少女を登場させながら、彼らに口々に性的な行動を慎むよう呼びかけさせるのもそうだし、自動車のテレビCMに、家族がドライブしたりキャンプしたりする様子を映し出しながら、家族愛の称揚ではなくて、そのような車付きのライフスタイルへの羨望をかきたて、車を売ろうとしているのであるのと同じように、ここでは、アンドレイやイワンを客観描写しているように見せかけて、その狙いは、「監獄や精神病院が無辜の人間を不当に拘禁することがある」というテーマを読者に伝えることだ。

そうかな?

物語を装った政府広報やテレビCMは、その意図がちゃんと伝わってくるために、それが物語ではなく、ましてや文学でないとはっきりわかる。もしも、チェーホフの意図が、「監獄や精神病院が無辜の人間を不当に拘禁することがある」というテーマを読者に伝えることならば、そこには物語もなく文学もない。

実は、そのような意味の抽出の完了前に、その過程で、アンドレイやイワンの顔つきや身振り手振りや声の調子をまざまざと感じることが、文学である。文学の文学性は、読解の後、その先にあるのではなくて、読解の過程の中にあるのである。だから、読解が完了した後、プロットを掌握した後、テーマを理解した後、登場人物が登場した後、つまりは意味を引き出したそのあとに、それらをこねくりまわしても、そこにはすでに、文学の技法はないのである。

バルトは、聖書の一節の記号論的分析をしたあとに、次のように言う。

これでおわかりのように、この挿話の構造的開発とでも呼べるものは、大いに可能である。いや、是非とも必要である。とはいえ、終えるにあたってつぎのことを言っておこう。つまり、この有名な一節のなかで、もっともわたしの興味をひくのは、《民間伝承的》モデルではなく、読みとり可能性の衝突や中断や不連続性であり、明白な論理的分節から少しはずれた物語的実体の並置である。(*09)


快楽は、読解の過程で生じているのだ。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-29(Tue) 08:48:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 07


次に、もう一人の主要な登場人物候補であるミハイルの人物描写を見てみると、「ものごしの上品な、気持ちのいい、大きな声の持ち主である。彼は善良で、情の深い男だった」とあって直後に、「むかっ腹を立てやすかった」とあり、ミハイルは郵便局に勤めているのだが、客のうちで少しでも気に食わない者がいると、紫色になり全身をぶるぶる震わせ、雷のような声で「黙れ!」と一喝するそうである。おかげで、よほど前から郵便局はこわいところという評判になっていたそうだ。

到底、ものごしが上品とも善良とも思えない。

チェーホフはこのような矛盾する形容に執着していて、先に見たアンドレイもそうだし、イワンも、猜疑心が強く、友だちが一人もおらず、町の人たちを頭から軽蔑し悪口を言う、その一方で、デリカシイで親切で上品で方正な品行と記述する。そう言えば、五人目の患者も、「善良らしい、だがどこかずるそうな人相」をしているし、イワンの話の中に出てくるだけの、彼の父親についても、「僕はずいぶんひどく親父に打たれたものです。僕の親父は、鼻の長い、首の黄色い、痔持ちの、厳格な官吏だったのです」(*08)と描写されている。

厳格な官吏と厳しい躾はなんとなく繋がるようであるが、痔持ちと厳格な官吏の関係が、わからないのである。確かに、このような全体としてひとつにまとめることが困難なような形容詞を埋め込んでいく手口は、生真面目に要約を続け作者の独創を類型的な物語に還元しようとする読者を立ち止まらせ、注意深くさせ、よって異化効果を発揮せしめるかもしれない。けれども、このような表現が、この小説において、生き生きとした魅力的な登場人物の創造にまで到達しているかというと、ここまでのところ、そうは思われない。アンドレイは、意志薄弱なテノールだし、イワンは、病気なんだからしかたないけど、六号室に閉じこもったままぶつぶつ言ってるだけの不活性な男である。ミハイルについて言えば、彼はおよそ印象不鮮明な背景でしかない。

主要な「動作主」であるらしきアンドレイ、イワン、ミハイルのいずれも、今のところ、なんだか魅力がない。さてしかし、この三人を除くと、あとは端役ばかりである。

けれども、登場人物の資質という観点から言えば、彼らのほうが、まだしもましのほうである。

第八章で簡潔に紹介される若い医者、エヴゲーニイの描写は、実務的で行動的なイメージで統一されている。外観は長身、黒髪で非ロシア的、蔵書はたった一冊の臨床医学の実用書、アンドレイが大変なお金持ちだろうと疑って、密かに羨んでいる。

彼は欲望し行為する、主体的な動作主である。けれども、平面的で非文学的人物である。

もう一人、アンドレイの家政婦のダーリュシカは、この小説の中で唯一、正直で親切な人間らしい人間である。舞台監督たるチェーホフが、この役者にまったく台詞らしい台詞を与えないのは、残念至極である。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-28(Mon) 08:47:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 06
第六章と第七章においても、どこか奇妙な「客観描写」が続く。アンドレイは昼のうちに仕事を切り上げ、後は助手に任せて自宅に帰ってしまう。そしてウオッカを飲みながら読書にふける。外に患者を持たないために(貧乏人が病院に送られてくるという記述があるので、当時のお金持ちは自宅に医者を呼んだのだろう)収入はないが暇はあるという状態らしい。

夜には、友人のミハイルが訪ねてきて、二人で会話する。またその後、深夜まで独りで思索にふけるが、そのテーマは次のとおりである。


  1. 知性が人間の本質であり、不死の代償であり、悦楽の唯一の源泉である。人生はいまいましい罠であり、存在の意味も目的もわからないまま死が訪れるが、知的な交流によってこの罠を感じずにすむ。この町に知的な人がいないために、その唯一の悦楽が奪われているのは残念だ。
  2. アンドレイの勤務する、田舎の、不道徳で患者に有害な病院に比べて、都会では先進的治療を行っている病院がある。しかし霊魂は不滅ではなく、人間は不死ではない。人が病気になり死ぬという、事物の本質は変わってないから、両者に実質的違いはない。
  3. アンドレイは、有害な職務に従事し、自分の欺いている人々から俸給を受けている。自分は正直ではない。しかし、自分自身が悪いのではない。単にやむを得ざる社会悪の一分子たるに過ぎない。自分の不正直の罪は、自分にあるのではなくて、今の時代にあるのだ。


ここには、三つの相似形の屁理屈がある。第一に、知性が人間の本質であると言い、知的交流のすばらしさを謳いながら、すぐに、自分の周りにそれがないという後ろ向きな悲嘆に落ち込む。第二に、霊魂は不滅ではないという科学的態度を持ち出した後、それを自分の病院が不道徳であることの言い訳に使っている。第三に、自分は正直でないと認めながら、悪いのは社会だと言う。

まったく気色の悪い抜け作である。毛筋ほども共感できない。

チェーホフ、あなただって、アンドレイを嫌いなんでしょう? なぜはっきりそう言わないんですか?

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-27(Sun) 08:45:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 05
第五章のアンドレイの身上書を読んで感じるのは、チェーホフが嘘を付いている、少なくとも率直でない、という感じである。

アンドレイは、病院が不道徳で非衛生的だと気付きつつ放置し、職員の不正を知りながら黙認し、医者としての仕事を怠惰からさぼっている。まったく擁護すべき点のない情けない男である。にもかかわらず、町の人たちが不道徳な病院を容認しているとか、彼独りで病院改革は無理だとか、知性と正直をこの上なく愛していたとか、当初は熱心に仕事をしたとか言うのである。それでは作者はアンドレイに同情的なのかというと、まったくそうではない。慇懃な「客観描写」を装いつつ、アンドレイが知的でも正直でもなく、単に怠惰であるだけのくせに、死は避けられないから治療も無意味であるというような屁理屈によって自分の仕事を放棄している様子が、はっきり読者に伝わるように書いてある。

小説を読むときも、私たちは実用的文章を読むときと同じ要領で、客観描写を装ってあると、そのようなモードで読むし、書簡形式であれば手紙を読むような印象を感じつつ、また、話し言葉のようであれば、友人の話を聞くような態度を知らず知らずのうちに自分の内面に作り上げながら読んでしまう。ところが、小説家は嘘つきであるから、そのように身構えた読者に対して、それとは違うものを入れ込んでくるのである。詐欺師の話が一見辻褄が合っているようでどこかうさんくさいように、チェーホフの「客観描写」も、何かしら奇妙な違和感がある。

私たち読者は、登場人物を愛する心の準備がすでにできているのである。そのような開かれた心は、何も道徳的な理由からではなくて、文章の内容理解にどうしても必要だからである。物語を理解し全体を把握するためには、一度は語り手を信じて一通り読解してみる作業が、どうしても欠かせないのである。チェーホフが、アンドレイのありのままの姿をありのままに伝えようとすれば、そうすることは簡単なのである。

たとえば、「アンドレイは、知性と正直をこのうえなく愛していたが……」と書く代わりに、「アンドレイは、知性と正直をこのうえなく愛していると思っていたが……」とほんの少し書き換えるだけで、私たちはチェーホフの態度をすぐに読み取ることができる。ところが彼はどうしてもそうしない。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-26(Sat) 08:44:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 04
六号室の五人の患者の紹介を終えた後、第五章において、チェーホフは、ようやく、本物の登場人物かもしれないとの期待を感じさせる男を紹介する。ドクトル・アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンである。


  1. アンドレイは、若いころは非常に信心深く、宗教家になりたかったが、父に強く反対され、医学にまるで興味がないと思いつつ、父と同じ医者になった。
  2. アンドレイの外貌は、重々しく、粗野で、百姓然として、顎鬚、癖のない頭髪、がっしりした不恰好な体格、太った、放恣、頑固、街道筋の居酒屋の亭主、顔は荒削り、青筋がいっぱい、目は小さく、鼻は赤い、背が高く、肩幅が広い、手足も人一倍大きい。
  3. 足音は静か、歩き振りは注意深く、慇懃、まず自分のほうから道を譲る、期待されるバスでなく、細い柔らかなテノールで「失礼!」、首のちょっとした腫れ物のため、襟の柔らかいリンネルか更紗のシャツを着ている。
  4. 概して医者らしくない服装、同じ三つ揃いを十年も着ている、年中同じフロックコート、吝嗇ではなく、風采への無頓着が原因。


これらの描写をさらに短く要約することもできるが、そのような要約された命題を言いたいだけならば、そして読者はそのように要約しようとする生きものなのだから、最初から手短にそう言えばいいのである。

だから、そうではない冗長性が、文学と関係があるに違いない。

言葉のレベルで言えば、「重々しく、粗野で、百姓然として……」と似たような言葉を(内容の要約という点からは)不必要なほどたくさん並べていくやり方。また、構成のレベルでは、粗野な大男の外貌を示した後で、期待を裏切るテノールを持ち出すやり方。語りのレベルでは、チェーホフは客観的な態度を装いつつ、登場人物に距離を置き、彼を素気なく扱うことによって、読者の感情移入をむしろ拒んでいるようだ。

このような手口は、すべて引き延ばしの技法だと言える。言うまでもなく、神経を緊張させれば感覚が鋭敏になり、精神を集中させればイメージが鮮やかになるから、読解に際して、引き延ばしは、無意識かつ自動的に、読者の胸のうちにイメージを活性化し続ける。

読者が、実用的文章と同じ手順で内容理解を続けながら、それと比べて――ちょうど母国語に比べて苦手な外国語を読解するときのように(*07)――ずっと過剰な量の心的エネルギーを注ぎ込むために、それに比例して、過剰なイメージの奔流が読者を襲うのだ。

では、チェーホフは、いよいよ、そのような文学的技法を駆使して、アンドレイを生き生きと描いてくれるのだろうか。そう思って読んでいくと、しかし、アンドレイはどうも好きになれない魅力に欠ける男なのである。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-25(Fri) 08:42:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 03


小説の文学的理解とは何か、それは難しい問題だが、その前に、小説は言葉であり文章から成っているのだから、まずは言葉の理解、文章の理解作業がある。そこで私たちが文章をどう理解するかについて考えてみると、母国語についてはあまりに簡単に無意識の内に行われてしまうので、そうではなくて、中学のときの英語の授業で英文和訳したことを思い出してみると、英文和訳をするとき、中学生はまずすべての単語を予め辞書で調べておく。そして最初に利用する知識は、単語の意味ではなくて、品詞である。どれが動詞か、修飾語は副詞か形容詞か、そしてその分析結果を利用して、全体を基本文型にあてはめ、センテンスを主部と述部に分ける。次に、ひとつひとつの単語の意味を、文型に合わせて選択し結び付けていく。そのような困難で時間のかかる作業の果てに、不意に、センテンス全体の意味が立ち現れてくる。

以上のプロセスとの類推から、小説の文章レベルでの理解過程を考えてみると、逐次的に文章を読み進めながら、因果関係や意味関係によってモチーフの結びつきを分類整理し、それをまた新しく読み進めた部分と比較対照してその結びつきを考えていく、ということであり、読書は絶え間ない要約の過程だと考えることができるだろう。

そのような文章レベルでの理解と並行し、それに基礎付けられながら、なんらかの文学的理解が行われるのであり、文法がセンテンスの理解を方向付けるように、小説の形式が文学の理解を方向付けるだろう。

そこで小説の形式について考えてみると、そこには常に冗長性があるように見える。たとえば、言葉の冗長性、構成の冗長性、そして語りの冗長性である。

脚注・文献


登場人物の登場過程 | 【2009-09-24(Thu) 08:41:02】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 02


「登場人物」とは文学の技法によって喚起されるイメージの一種である。それは風景描写や事件の説明に紛れてそこかしこに細かく編みこまれている。どの記述が登場人物を描写し、その人格を示唆しているかは、読者が読解の過程でゆっくりと読み取っていくものである。小説においては、登場人物はゆっくり登場していく。登場人物は最初から特権を持って登場するのではなく、読者の読解の中で特権を獲得していく場合もあるというに過ぎない。

これから、そのような登場人物の登場過程に注意しながら、チェーホフの「六号室」を見ていこう。

この小説の冒頭では、大きからぬ別棟(六号室)が描写され、老門番のニキータが紹介される。けれども、ニキータは、六号室の監獄的なイメージの範囲内にあってそれを喚起せしめる小道具以上のものではない。

彼は、登場人物というには一面的過ぎて不足であり、赤く錆びた屋根や、釘を植えた灰色の塀と同じ種類のモチーフであり、それ以上の特権を有してはいない。陰気で呪われた外観を持つ建物と、粗暴で強権的なニキータは、六号室が監獄のようであるというイメージを喚起する仕掛けとして同等である。

六号室には、五人の患者がいる。一人目は、肺病病み、二人目は、モイセーイカというユダヤ人の老人である。モイセーイカは、この陰鬱な小説の中で唯一と言っていいほど陽気な男であり、彼がこのあと、たまにこの小説に顔を覗かせるとほっとするような気がするほどであるが、しかし、その構成上の役割は、六号室の呪われた外観と、この次に登場するイワン・ドミートリイチ・グローモフという狂人の間にあって、その間のイメージを繋ぐ働きをしているようである。つまり、「六号室の外観→中の患者たち→そのうちのひとりであるイワン」という段取りを辿って、ちょうど映画のモンタージュのように、イメージが段階的に積み重なって、六号室というひとつの世界の立体的な構造が読者の胸のうちにスムーズに構築されていくのである。

さて、この後のイワンの分節は、彼の生い立ちから始めて、発狂して六号室に収容されるまでの変化を、要約と描写を組み合わせて、手際よく順序だてて描いている。


  1. イワンは、父母を相次いで亡くし、困窮し、大学を途中でやめて地元で小学校教師や裁判所の事務員として働いた。彼は人付き合いが悪く、町の人たちの無学を軽蔑し、それを公言していたが、持って生まれた品行の良さと家庭的不幸などによって、彼らから同情されていた。
  2. あるとき、護送中の囚人を見たイワンは、自分もいつ同じように監獄へ連れて行かれるかもしれないという恐怖に取り付かれるようになった。イワンの不安感はますます募り続け、町で殺人事件が起こると、間違って自分が逮捕されるのではないかと怯えたり、警官を恐れて二日ほど土蔵に隠れたりした。下宿先に暖炉職人が来ると、警察が変装して自分を捕まえに来たのだと思い込み、恐怖に駆られて逃げ出した。
  3. 人々は彼を取り押さえて医者のアンドレイに見せたが、彼はすぐにイワンの治療を無駄だと言い、諦めて帰ってしまう。収入もなく治療もできないので、イワンは病院に送られた。最初は性病患者と同じ病室に入れられたが、夜眠らないなど我がままに振舞ったために、アンドレイの指図で六号室に移された。


実は、イワンの変化は、この小説全体の変化とパラレルである。第一に、イワンは町の人の無学を軽蔑しているが、このあと本格的に登場するアンドレイもまたそうである。第二に、イワンは次第に発狂していくが、アンドレイも、次第に医者から患者へ変化していく。第三に、アンドレイは、素気なく機械的にイワンを六号室に追い込んでしまうが、アンドレイもまた、周囲から素気なく非人間的に六号室へ追い立てられていく。

つまりは、イワンの生い立ちから現在までの描写は、この小説の構成全体を先取りし、なぞっているようだ。そのイメージは、この先、読者が、この小説の構成全体を掴み取ることの土台となるだろう。

イワンは詳細に描写されているものの、作者のイワンに対する冷淡で素気ない手付き、彼を構成に従属させる様子が透けて見えるために、私たちは、今ひとつイワンに親近感を持つことができない。真の文学には生き生きとした真の登場人物が登場し、読者の深い共感と感情移入を呼び起こすし、一方で、そうではない構成に従属した操り人形のような登場人物は、文学とは言えず、登場人物と呼ぶに値しないわけだが、そのような意味において、ここまでのところ、この小説には、まだ、登場人物が登場していないと言っていいだろう。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-09-23(Wed) 08:38:51】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
世界文学全集〈第45〉
世界文学全集〈第45〉 (1964年)世界文学全集〈第45〉 (1964年)
(1964)
不明

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登場人物の登場過程
http://juji.hp.infoseek.co.jp/essay/tojojinbutsu.htm

索引 | 【2009-09-22(Tue) 09:23:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
名作の読解法
名作の読解法―世界名作中編小説二〇選名作の読解法―世界名作中編小説二〇選
(2003/03)
塚崎 幹夫

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登場人物の登場過程
http://juji.hp.infoseek.co.jp/essay/tojojinbutsu.htm

索引 | 【2009-09-22(Tue) 09:20:17】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 01
登場人物の登場過程

朝野十字 - 2006/03



エイヘンバウムは、ゴーゴリの「外套」にあるのはアカーキイ・アカーキエヴィチではなくて、ユーモラスな物語と悲哀をそそる箇所の構成的対照であると言った。シクロフスキーは、ルサージュの「ジル・ブラース」の主人公もトルストイの「幼年時代」の主人公も人間でなく人物でない、と言った。(*01)

ロラン・バルトもまた、「物語の構造分析」の中で、登場人物を限りなく抽象化している。

これらの《動作主》は極めて数が多く、《人格》の用語によっては記述することも分類することもできない。というのも《人格》とは、ある種のジャンル(それがわれわれにもっともよく知られたジャンルであることは本当だが)だけに限られた、純粋に歴史的な形式と考えられるから、したがって、人格ではなく動作主を含むあらゆる物語(民話、現代のテクスト)の場合を、きわめて大幅に留保しなければならないからである。(*02)


ここに明らかなように、ソシュール、ヤーコブソン、レヴィ‐ストロースという一連のフォルマリズムから構造主義への系譜があり、また、レヴィ‐ストロースは、プロップをフランスに紹介したけれども、しかし、登場人物を巡る立場において、フォルマリストと、プロップやグレマスを参照するバルトの間には、はっきりした断絶がある。

バルトは、ここで、登場人物の非人格化を言っているが、その目的は、民話なども含めたより普遍的な物語の構造分析のためである。しかしながら、フォルマリストが登場人物の人格を攻撃したのは、それが文学的技法の分析を邪魔するからであって、両者の問題意識はまったく異なる。バルトは、「物語は、良い文学も悪い文学も区別しない」(*03)と言っているが、フォルマリストは、良い文学にしか興味がない。(*04)

プロップが登場人物を協力者とか敵とかに分類し、ブレモンが瞞着や誘惑の動作主であると言い、グレマスが彼らの行為から「伝達、欲望、試練」という意味を抽出した時点(*05)で、すでに、フォルマリストたちは我慢ならないだろう。

シクロフスキーが「散文の理論」で主張したのは、詩が詩的言語によって異化されるのに対して、普通の言葉である散文を使った小説は、視点と構成によって異化されるということであった。けれどもフォルマリズムが詩的言語のみに偏重した文脈によって語られ、シクロフスキーは詩的言語の散文への適用に際して曖昧であるという奇妙な解釈が幅を利かせている。さらに、シクロフスキーが繰り返し論じた小説の構成については、それは本来、散文における異化効果についての論だったのだが、いつのまにか物語論の先駆けであり、プロップなどに発展的に継承された、というふうに間違った系譜の中に位置づけられるようになってしまった。

シクロフスキーが遠隔地の民話にしばしば類似の構成が見られると言ったことは、構造主義とは無関係で、民話にすら文学の文学性を高めるための文学的技法が使われているのを発見したと思ったからである。(*06)

古典においても現代においても、登場人物が構成に従属している例をいくらでも見出すことができる。登場人物を所与の大前提として考えてしまうと、その裏に隠された技法を見逃してしまう恐れがある。

エリザベス・ベネットはダーシーを高慢な男だと思った――そう考えた刹那から、読者はすでに物語の中に入ってしまっているのである。いったい、作者が空想したに過ぎない登場人物など、そもそも存在しないし、存在しないものが欲望したり行為したりするわけがない。

読者が存在しないものを生き生きと感じる時すでに、文学の技法は発動し終わっている。文学の文学性は、登場人物の登場以前に考えなければならない問題である。

脚注・文献



登場人物の登場過程 | 【2009-09-22(Tue) 08:38:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)

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