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[世界の論調批評]
世界の論調批評
ダライラマ=オバマ会談延期 [2009年10月05日(月)] (抜粋)
http://blog.canpan.info/okazaki-inst/archive/861
米国のこうした対中宥和政策の代償が、北朝鮮の六カ国協議出席のような実質なき譲歩であるならば、米国は明らかにチベット問題で後退したことになり、これは、単なる会議出席のために代償を払い、中国の権威を高めてしまったブッシュ時代末期の政策につながるものです。

確かにけしからんですな。
岡崎先生のおっしゃるとおり、私もオバマ大統領に激しく失望しました。

それはそれとして、しかし――
オバマ政権の本質がリベラルだとはまだ実証されていませんが、中欧のMD配備問題などを見ていると、それを否定する材料もまだ出て来ていません。今回のダライラマの扱いが事実ならば、これもリベラル説を裏付ける一例と言えるでしょう。

この結論がまったく理解できませんでした。

オバマは普通にリベラルでしょう。
それとこれ(チベット問題)とどう関係するの?
まさかナンシー・ペロシがリベラルじゃないとか言わないよね?
ダライ・ラマに米議会で人権賞、オバマ大統領は面会せず
10月7日12時24分配信 ロイター
10月6日、訪米中のダライ・ラマ(右)に米議会から人権賞が贈られた。写真右はペロシ下院議長(2009年 ロイター/Kevin Lamarque)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091007-00000331-reu-int
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-11833120091007

てっきり人権問題について話してると思ってると、国の威信がどうの、だれそれは真正保守じゃないだの言い出す自称・保守主義者には、本当にうんざりさせられます。

こんな連中に友だち面されてるダライラマの心中察するに、お気の毒でなりません。

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時事/ブログ観察 | 【2009-10-20(Tue) 00:15:27】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
文学は社会と関係がない 01
加筆・改稿の上、以下に移転しました。

小説の基本構成




文学は社会と関係がない | 【2009-10-18(Sun) 04:12:19】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 14
10

「中二階のある家」には政治的メッセージも道徳的価値観の押し付けもない。

ただ、感傷的な名作である。

実際、当時のロシアの若者も「中二階のある家」を感傷的に感じたし、現代の読者もそうである。おそらく、百人にアンケートを取れば、大半が「中二階のある家」を感傷的な、そしてそれが魅力である作品だと言うだろう。「中二階のある家」が感傷的作品であることは、心理学的に十分根拠のある事実と言って差し支えない。にもかかわらず、「中二階のある家」が感傷的であることに価値を見出さず、どのように感傷的であるかを説明せず、そこから逃げるならば、それは批評の敗北である。

「中二階のある家」が感傷的作品である以上、私たちはその事実へ向けて、テキストから、テキストが指示している感傷を導かなければならない。

虚構テクストの類似記号は、表示体(Signifikant)の組合せを具体化するが、表示体は記号内容(Signifikat)を表示する役割はもたず、むしろ記号内容を生産するためのさまざまな指示を表示しているのである。(*14)


ここでイーザーが言う類似記号とは、登場人物などの作中の記号である。イーザーは「トム・ジョーンズ」の例で説明しているが、リージヤで説明し直すと、リージヤは理想的な女性であるように叙述されるが、それは理想的な女性を再現するためにあるのではなく、読者への指示としてある。テキストは、理想の女性としてのリージヤを示した後で、彼女が「わたし」にとって愛することもできず愛される可能性もない女性であることを示して、理想の女性とは何かについて読者により深く考え直させるが、そのようにテキストの指示によって導かれた読者が、潜在的にしか示されていないリージヤの記号内容を、自らの想像力を働かせて作り上げるのだ。

チェーホフは、そのような読者の戦略を十分見越して、この作品が道徳的、政治的に解釈できるようなそぶりをちらつかせながら、そのすべてを最後でぶち壊す。これはそのようなよく知られた小説とは違うのだと彼は宣言する。先行する長編小説とその作家たちに挑戦したチェーホフの「中二階のある家」が読者に指示しているものは、体験から導かれた概念ではなく、体験そのものの感覚である。リージヤやそしてジェーニャが作り上げられ、意味を持つ過程は、読者の現実の体験である。リージヤ‐ジェーニャの意味は、なつかしい夢のような私たちの読書体験そのものである。読書行為のあとで、リージヤ‐ジェーニャという言葉に接続する意味内容は、漸進的に変化するイメージをいちいち気に掛け心に刻んだなつかしい無二の私たちの読書体験そのものなのだ。

そして私たち読者がこの作品を読み終わったとき、私たちの心のうちに、リージヤ‐ジェーニャは過去のものとして確定する。リージヤ‐ジェーニャの意味はすでに体験され、読者の胸に事実として刻まれ、もう変化することがない。だから、私たちは、それと相同である類似記号「わたし」の気持ちがわかるのだ。彼もまた、思い出の中のリージヤ‐ジェーニャを永遠に忘れないからだ。

 ちょうどこの時、リーダはどこかから戻ったばかりで、鞭を手にして表階段のわきに立ち、均斉のとれた美しい姿体に陽射しを浴びながら、下男になにやら命じていた。彼女はせわしげな様子で、声高に話しながら、二、三人の患者を診察すると、事務的な、気がかりそうな顔つきで部屋から部屋をまわって歩き、あっちの戸棚をあけたり、こっちの戸棚をあけたりしていたが、やがて中二階に上がって行った。昼食の時にみなは永いこと彼女をさがしまわり、呼び立てていたが、彼女はもうスープの終わった頃に、やってきた。こうした細かい些細な出来事を、なぜかわたしは憶えており、なつかしんでいる。別に何一つ特別なことは起こらなかったのに、この日のことはすべて、ありありと思いだすのだ。食後、ジェーニャは深い肱掛椅子に寝ころんで、本を読み、わたしはテラスの下の段に坐っていた。どちらも沈黙していた。空全体が雲にとざされ、小粒の雨がぽつぽつと落ちはじめた。むし暑かった。風はとうの昔に静まり、この一日が決して終わらぬような気がした。(*15)


(了)

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-17(Sat) 05:08:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
先月(2009/09)のパケット代
パケット代


Iphone | 【2009-10-16(Fri) 23:32:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
国立国会図書館
1255685881-IMG_6807.jpg


Iphone | 【2009-10-16(Fri) 18:38:04】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 13



およそ小説の歴史が始まって以来、作者と読者は互いの戦略によって相互に作用するゲームを続けてきたと言えるだろう。

それは生物の進化に似たところがある。

というのは、たとえば、ある植物が繁栄していると、それを食料にするある動物もまた繁栄するが、植物は皮を厚くしたり棘を持ったりして、食われることに対抗し、それに対して、そのように進化した植物を食べることのできる新しい動物が現れ、他の動物より有利になる、といったことと似て、ある小説が誕生すると、それを読みこなす戦略を持った読者群が誕生し、次には、そのような読みをすることを前提として、その裏をかく戦略を持った新しい小説が誕生するといった具合である。

作者と読者は、相手の戦略を組み込んで自分の戦略を立てるのだが、相手の戦略が変化するのだから、それに合わせて相互作用が起こり続ける。

チェーホフが小説を書いた時代は、イーザーが好んで引用するような古典的長編小説が中心だった時代であった。さまざまな社会規範が小説に導入され、それぞれの人間の政治的道徳的価値観が対比され、読者は人間の本質を追及して、意味内容を引き出す努力を続けていた。

しかし、短編では、そもそもそのようなたくさんの人物や事件を比較対照する紙幅がない。かといって、チェーホフは、起承転結のはっきりした一幕ものの演劇のシナリオやコントのようなものを目指したのでもなかった。

チェーホフは当時の読者たちの戦略を十分心得ていた、彼自身がその時代の小説に精通した理想的な読者だった。そのようなチェーホフが短編において採用した戦略が、意味を排除したイメージの漸進的変化ではなかったか。

意味を離れて改めて考えてみると、ベロクーロフは人物ではなく、前半でリージヤと「わたし」の対立を隠す手法であると気付く。リージヤはジェーニャを子供扱いするためのトリックだし、ジェーニャは、リージヤの絶対美を浮き立たせる背景である。美人だがそっけない、献身的だが独善的にも見えるリージヤ、幼いようだがそうでもない、そうでもないが一家の主人であるリージヤには逆らえないジェーニャは、十分にありうる人物像であり、リージヤとジェーニャの対照も、女性の魅惑の典型的な二つの側面であり、そこに読者が止揚すべき対立はない。読者に複数の可能性が示されることもなく、可能性の否定が読者を刺激して弁証法的なより高いレベルでの意味内容を引き出すこともない。

けれども、読者がイメージの漸進的変化を緊張感を持って読み続けた読書行為は確かに存在した。そして色々な予感と共にあった、政治的テーマ、道徳的テーマがすべて投げ捨てられた結果、そこには、なつかしいものの魅惑の発見と喪失という体験だけが残った。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-16(Fri) 05:07:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 12


一見意味ありげなテーマが提出されて、それが確定しないままうち捨てられる構造は、同じチェーホフの「六号室」にも顕著に表れている。この作品では、大病院の院長であるアンドレイが、病院敷地内の別館である六号室に長く軟禁されているイワンという若者と哲学談義めいた会話を交わす。そのテーマを要約すると次の通りである。


  1. 無辜の人間が不当に拘束されることがある。
  2. 魂の不死すなわちキリストを信じるか。
  3. 外的な苦痛は何を意味するか。


一番目のテーマについて、イワンは、自分が不当に六号室に監禁されていると言い、アンドレイは、無意味な監禁はありえることだと笑顔で答える。しかし、イワンを治癒不可能な狂人だと診断したのはアンドレイその人である。そしてイワンは、あなたは病気だと言われて、そうだと答える。また、その後も、アンドレイがスパイであるという妄想を示す。

テキストは、イワンが狂人であると明らかに指示しており、イワンの病院収容は不当なものではない。彼の入院が正当かどうかは、彼が病気かどうかと関わっているのであり、彼は病気であり、そのことと、病院内での待遇が十分でないこととは、別の問題である。

二番目のテーマについて、イワンは魂の不滅を信じると言い、アンドレイは信じないと言う。ところが、アンドレイはその後、教会に通うようになるのである。そして冒頭の伏線について言えば、彼は若いころ宗教家を志したと確かに書かれてある。

三番目のテーマについて、アンドレイは、ストア派の哲学を持ち出して、六号室も自分の書斎も変わらない、真の幸福は内面にあり、生活を軽蔑するべきだと嘯くが、結末では、六号室に収容され、長年の患者たちの苦痛を思い知る。

つまり、アンドレイとイワンの対話はことごとく視点として確定する前に否定されるのであり、なんらの社会規範の導入にもなっていないのであり、アンドレイとイワンそれぞれの意見を勘案して意味を引き出し、そこから読者が美的価値を生産する契機にはなっていないのである。意味を引き出す前に、それが嘘であるとわかってしまうからである。

イーザーはテキストの空所と否定の構造について、「トム・ジョーンズ」を例に挙げて次のように説明している。

まず、記号の直接表示によると、ブライフィルは信心深そうに見え、オールワージイは完全な人間である。[中略]まずブライフィルがオールワージイの前に現れる。すると、それまで読者の記憶に保有されていたオールワージイについての遠近法が現在に呼び戻される。[中略]一方が偽善者、他方が純真とわかると、三種の遠近法のセグメント――その二つは人物の遠近法で、残り一つは語り手の遠近法――から等価系が作り出され、それは一貫した形態の性格をそなえている。(*10)

純粋なオールワージイ、偽善者ブライフィルという形態が完結したものと見なされるならば、結論は単に、オールワージイはタルチュフ的人間に欺かれる、ということにすぎないであろう。だが普通の読者なら、そのような形態的意味で満足するわけがない。[中略]そこで、読者の注意は、判断に耐える基準とはどのようなものかという問題に向けられる。[中略]ここで指標となるのは、語り手が発する信号の重みと、形態をうることで明らかとなったオールワージイの〈円満具足〉には、なにか欠陥があるという逆説的な発見である。(*11)


次々現れるモチーフを把握し、対照し、意味を引き出していく読書過程で、美的作用が現象化していくとイーザーは言う。イーザーはまた、その過程に、筋内容のレヴェルと意味内容のレヴェルの二種類の様態があると言って、ひとつは、人物の関係や筋の展開から浮かび上がるもので、ある程度の客観性を持っているが、二つめは、並立的に提示された複数の人物や事件から、弁証法的に読者が獲得する意味内容であり、それぞれの読者の主観的選択決定であるという。ただし、後者も前者と相互依存の関係にあるから、読者の恣意ではなく、相互主観的な妥当性を持つという。(*12)

「六号室」においては、いかにも社会規範を導入したかのような哲学談義めいた独白や会話が長々と続くのだが、それらから弁証法的に読者が意味を獲得しようとすると、その根拠が次々うち捨てられてしまう。アンドレイが世俗的な権力者を象徴しているなら、なぜこんなに弱々しく無抵抗に患者へと転落していくのだろう。無辜の人間が不当に拘束されるというテーマが提出されたのなら、なぜアンドレイが不当な拘束と戦う場を与えられることなくその翌日にあっさり死んでしまうのだろう。

狂人であるイワンは、病院の院長であるアンドレイを指差してこう叫ぶ。

あなたは生まれてこのかた誰からも指一本さわられたことがない、おどかされたこともなければ、ぶたれたこともない。そうして雄牛そこのけに頑丈ときてる。おんば日傘で育ち、親のすねをかじって勉強し、それから一足とびに結構な職にありついた。二十年もその上も、ロハの官舎で暮らして、暖房もあれば明かりもある、女中までついている、おまけにどう働こうが、どれだけ働こうが勝手きままで、だいいち働かなくたってかまわない。生来あなたはなまけもので、いくじなしで、だから何ごとにもわずらわされぬよう、じっとしていられるように自分の生活を築いてきた。仕事は准医師その他のやくざどもにまかせっきり、ご当人はぬくぬくと落ちついたところにすわりこんで、せっせと金をため、ときどき本を読んでは、いろんな高尚なたわごとを考えたり、(イワン・ドミートリチは医師の赤鼻を見た)酒をお飲みになったりして、なぐさんで来た。要するに生活をろくにみやしなかったんだ、生活なんて全然知りゃしないんだ、現実なんかただ理屈の上でしか知らないんだ。(*13)


イワンの批判は、ソファに座り、エアコンの効いた部屋で読書している私たち自身にそのまま当てはまる。私たちは、「六号室」がフィクションだと高をくくって読んでいるので、それを理屈の上でしか考えていない。そして結末において、アンドレイが病院の現実を思い知って驚いたのと平行して、言い知れぬ不安や恐怖を感じて驚く。もちろん、実在しないアンドレイと実在する読者の驚きが同じ原因に拠ることはありえない。しかし、作品中のイメージの変化が読者の読書体験の変化をなぞっている。

チェーホフは、現実の人間の変化を抽象的な理念に変換して、因果関係や論理によって理解し、その上で、それぞれの理念を象徴する人物や事件を創作し、架空の小説に再配置したのではない。

アンドレイがこのあとなぜ患者になってしまったのか、その心理的根拠は不明確で、因果関係を持った決定的事件も起こらない。ただ次第に内向きで無気力になっていくアンドレイの様子が、イメージの漸進的変化によって示されるだけである。チェーホフは、変化そのもののイメージを描いたのだと言える。そしてその変化は読者の読書過程での心理的変化とパラレルになっている。

「中二階のある家」に戻って考えてみると、リージヤ‐ジェーニャの漸進的イメージの変化もまた、社会規範の小説への導入ではなく、読者に止揚を促す緊張を持った対照でもない。イーザーが読者は空所を結合するという場合、それは、人物や事件から何らかの意味を引き出すということなのだが、リージヤの独善的イメージが次第に強まり、「わたし」が彼女を正しくないと言い、それに対照するかのようにジェーニャが芸術を賞賛し続けた先には、「わたし」のリージヤへの感情的暴言があり、それによってリージヤの政治的態度に関するテーマは、なんの意味づけもできないまま、投げ捨てられてしまう。結末に至っても、リージヤの政治的見解は不明のままであり、ジェーニャとの恋愛は頓挫し、そのような変化が暗示していたはずの意味が投げ捨てられてしまう。

ここにあるのは、変化のイメージそのものであって、それ以上ではない。しかしそれゆえに読者は常に緊張を保ちつつ読書行為を続けなければならない。

イメージが変化するたびに、読者は、それまで読んだ部分を地平として、現在読んでいる部分を主題化してみる努力を要求される。だから、漸進的イメージの変化は絶え間ない努力を要求する。それは結局実を結ばないまま捨てられる努力なのだが、読者がそこで努力することは間違いない。イーザーの言うとおり、読者は一貫性形成のために意味を引き出そうとする生きものだからである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-15(Thu) 05:04:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 11



事件を通じた心理変化に根拠付けられない人物のイメージの漸進的変化は、チェーホフの短編によく見られる構造である。チェーホフは、しばしば、心理的動機付けや因果関係をほとんど示さず、ただ言葉の配置の重点をだんだんに変化させてイメージを操作する。

たとえば、「六号室」の主人公、アンドレイの医者から患者へのイメージの変化を見てみると、因果関係や心理的原因が不明確で、また冒頭にすでに二つの対照的イメージが指示されている。

ひとつは、大病院の院長であり金持ちで権力者で、腐敗した病院を放置する怠惰な悪者のイメージ、もう一つは、小心で若いころは宗教家を志したことがあり、裸足の患者、モイセーイカを見かけて靴をあつらえてやれと命じ、また別の患者イワンに深く同情するイメージである。医者から患者への変化に合わせて、この二つのイメージの割合が変化して行き、最後には、病院のひどい状況を自分のこととして実感する。

「ケースに入った男」では、冒頭で規則ばかり言い立てるベリコフという男に毎日見張られ口出しされる息苦しさが語られる。この男は、もう少しで、快活で賑やかな女性、ワーレニカと結婚するところだったと語り手が言って、その顛末が描かれる。陽気なワーレニカが次第に前面に出てきて、回りもしきりにベリコフに結婚を勧める。本人もだんだんその気になっていくのだが、結末においてベリコフがあっさり死んでしまい、それを語り手はせいせいしたと言い、恋愛を称揚する話ではないとわかる。語り手は、ベリコフが死んでも、自由への束縛は社会に満ち溢れていると結論する。滑稽なベリコフに向けられていた視線が最後に不意に自分たちに向けられて、ベリコフの問題ではなく自分自身の問題として改めて実感する。

「中二階のある家」に戻って、リージヤの変化は、美人で有能で誠実で利他的なイメージから、頑固で独善的なイメージへの変化のように思える。そういうことは往々にしてあるし、それはまたある社会規範を予想させる、正しい行いのために必要なものは何かと言ったような。

けれども、「わたし」とリージヤとの対話で、まさにその問題が焦点化しそうに見えた途端、「わたし」の無責任で感情的な暴言によって、議論が打ち切られてしまう。

リージヤの、貧しい人々を少しも助けることにならない活動よりも、芸術のほうが尊いというテーマが新たに提出されたのだろうか。そう思って読み進むと、それに合わせるようにジェーニャが登場し、しきりと芸術を褒め称える。けれども「わたし」はすぐにこう言う。

「もちろんですとも。僕らは最高の存在ですからね、もし僕らが人間の天才のあらゆる力を本当に自覚して、最高の目的のためだけに生きるとしたら、最後には僕らは神のようになるでしょうよ。しかし、そんなことは絶対にありませんね――人類は退化するにきまってるし、今に天才など跡形も残らなくなってしまいますよ」(*08)


さてそうすると、芸術至上ではあるがその実現の可能性はないという虚無主義が、ここで提出されたのだろうか。それは先のリージヤとの対話で、現状を支持することになるから絵を描かないと言った言葉とも整合しているようだ。ところが、直後に「わたし」はこう言う。

わたしは画家としてジェーニャに好かれ、自分の才能で彼女の心を捉えたのであり、今はただ彼女一人のためだけに絵を描きたくてならなかった。わたしは自分の小さな女王としての彼女を想像してみた。この小さな女王は、これから先、わたしといっしょに、これらの木々や、野原や、霧や、夕焼けや、自然などを支配して行くことだろう。(*09)


これはまたずいぶん能天気な言葉が続くものだ。今まで、正しい行いとか、実業と芸術の対立とか、芸術と現実の相克とか、あれこれ考えてきたことがバカらしくなるほどではないか。「わたし」が絵を描かないのは芸術的矜持からではなかったのか。「わたし」の言う才能とは、世界を救い神に至る道ではなくて、ただ目の前の小娘を口説くための方便に過ぎなかったのか。

けれども、政治運動よりも小さな恋のほうが大切だという話なのかもしれない。「わたし」を省みないリージヤが独善的であるという証拠はどこにもないが、少なくともジェーニャは心を開いて「わたし」の言葉を聞いてくれる。人間にとって大事なのは、心を通い合わせることであって、それがなければどんな政治運動も、本当は人々を救えないだろう。

ところが、誠実な読者がテキストの指示に従って強いてそのように考えようとした途端に、結局、結末で「わたし」はジェーニャにあっさり袖にされてしまうのである。

ジェーニャから手紙が届いて、姉には逆らえないと書かれてあった。この言葉の意味を考えるに、言葉どおり、ジェーニャはまだ幼すぎたのか、いずれにせよ、それほどは「わたし」を好きでなかったのだろう。かくして大きな運動の影で心を通い合わせる小さな恋もまたばっさり否定され打ち捨てられてしまった。

あるモチーフがそれまでのモチーフを否定する形で提出されると、読者がその意味内容についてより深く考える契機を与えているように見える。しかし、「中二階のある家」においては、それらの新たなモチーフが十分機能しないまま次々使い捨てられていく。読書行為を通じて次々モチーフを作り上げていっても、それらはどれも安定した視点として確定するに至らない。「中二階のある家」において、因果関係や心理的原因が見えにくいのは、このためである。

リージヤは有能かつ独善的かもしれないし、無能かつ献身的かもしれないし、有能かつ献身的かつ独善的かもしれない。このようなイメージは互いに対立しあうように見えるが、一人の人格の中で両立しないものでもない。そしてリージヤが正しくないという「わたし」の言葉は、それを裏付けたり否定したりする証拠のないままうち捨てられてしまう。

「わたし」が単に無視されたことを怒っているだけであって、「わたし」の発言は信用するに足りないだろうという気もする。そしてそうであっても、リージヤが独善的である可能性が否定も肯定もされないことに変わりない。もしリージヤが独善的でないとすると、ジェーニャがしきりと芸術を褒め称え、「わたし」と心を通い合わせることも、独善的なリージヤの対照として提出されたモチーフではないことになる。

いずれにせよ、リージヤが独善的であるというのが、「わたし」の偏った視点によるものであるなら、その後で、リージヤが実際はそうではないというテーマが提出されなければならないはずだし、リージヤがやはり独善的だというなら、それを示す事件が起こらなければならないはずだが、テキストはそのことに無関心であり、肯定も否定もしないまま話が終わってしまう。

主人公が熱心に主張し始め、声高に叫びだすと、なぜか議論が空回りして、アンチ・クライマックスの様相を呈してくるのが、いつものチェーホフであるが、政治的課題や道徳的規範についてリージヤと論争しているのかなと思っていると、「わたし」のあまりに無責任な発言が全面に出てきて読者は困惑する。そしてその直後に、「わたし」は、ジェーニャが自分を慕ってくれるから、彼女は自分の小さな女王だ、と言い出すのである。

結局のところ、この男が気にしているのは、政治でも貧しい人々でもなく、自分自身の小さな自意識でしかないことが判明する。それはまた、リージヤの漸進的イメージ変化の再考を促す。「わたし」はリージヤを正しくないと言ったが、「わたし」はもはや信用できない語り手であり、やはりリージヤは誠実で献身的な女性である可能性が高く、とすれば、そのようなイメージに変化はない。変化は、「わたし」の主観的視点を通じて発現していたのであって、それは、なつかしい夢のようなリージヤから、地主階級で政治運動家としても優秀で、貧しい人たちを献身的に助ける人格者で、つまりはどうにもこうにも高嶺の花過ぎて、貧乏画家には手出しのしようがない完璧な美人へのイメージの変化である。

ジェーニャの変化については、ジェーニャもまた、目の前の夢のような体験から、過ぎ去った思い出に変化してしまった。ジェーニャは姉に反対されたと言い訳していたが、彼女が今後いくら成長しても、「わたし」との再会はない。なぜそのように断言できるかと言うと、日没直前の小さな輝きは、日没と共に消え去るほかないさだめだからである。

このような類推による決め付けは、現実の世界では暗黒中世的誤謬だと言われるだろうが、小説の世界では十分に有効である。二人の再会を暗示したければ、色々な小道具を使ったり台詞を入れたりして、テキスト構造がそれを暗示することはいとも簡単なのに、一切そのような構造が見られない以上、「わたし」がジェーニャと再会できる可能性は皆無であると断言できる。リージヤが反対しようと反対しまいと関係ない。リージヤなんか、本当は存在しないんだから。それに対して、テキスト構造は現に私たちの目の前に実在しているのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-14(Wed) 05:02:56】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 10

次に、ジェーニャのイメージを見ると、これもまた段階的に変化していることがわかる。


  1. 冒頭では姉妹がワンセットで描写されるものの、美人という言葉で修飾されるのはリージヤだけである。ジェーニャは「あどけないほどの若さ」「恥ずかしそうな様子」と描写される。そもそも男がある女性を美人だと言ったら、それは事実の指摘ではなくて興味の対象である。というのは、小説の外側の準拠枠だが、小説の冒頭において、まだそれぞれの言葉の対応関係がはっきりしないうちは、往々にしてそのような常識的な準拠枠で補ってしまうものであり、だから私たちは、最初のうち、てっきり、「わたし」がリージヤのほうに興味を持っているとの予断を持ってしまうのである。そしてその後ろにジェーニャの愛らしいイメージが隠されてしまう。
  2. 次に「わたし」が目撃するのはリージヤのみで、彼女について語るベロクーロフの言葉の中に、リージヤが「母と妹と三人で暮らしている」とあって、ジェーニャに関する言及はそれのみである。
  3. 祭日に家を訪問すると、まずはリージヤの描写があり、そのあとに今までよりはかなり長くジェーニャの描写がある。ジェーニャは「わたし」に親しく話しかけるが、彼女が家族から子供扱いされていることは、「わたし」の恋愛の対象外であるかのような印象を与える。
  4. リージヤに嫌われている描写が短くあり、そのあとにずっと長くジェーニャとのデートの次第が語られる。ジェーニャは「わたし」を芸術家として尊敬し、ボートを漕いだり果実をつんだり、芸術の話をしたりする。ジェーニャと「わたし」の交際は深まるが、「わたし」がジェーニャをどう思っているかはまだはっきりとは語られない。
  5. 「わたし」のベロクーロフに対する発言の中で、リージヤを賞賛しているそぶりを見せながら、なぜか最後に「じゃ、ミシュスは? 実にチャーミングだな、あのミシュスって子は!」という言葉が脈絡なく付け加えられる。
  6. リージヤとの激しい議論の後で、ジェーニャを愛していることが明示的に語られる。自分を好いてくれているジェーニャのために絵を描きたいという「わたし」の言葉は、現存の体制を支持することになるから絵を描かないと言ったリージヤに対する言葉と齟齬があり、「わたし」が信用できない語り手であるとわかる。


ジェーニャは、十七、八のお年頃である。そんなジェーニャがもし実在の少女なら、彼女をまだ若いと言うこともできるし、いや、十分に恋愛の対象であると言うこともできるだろう。それは彼女がどのような少女かという現実の根拠から導かれるだろう。しかし、残念ながら、ジェーニャは存在しない。

存在するのは、前半の子供扱いする言葉での修飾の繰り返しと、後半でそのような言葉がなくなって、「わたし」とのデートや愛の告白が語られるということのイメージの関係性である。このような言葉の配置が、読書過程における読者のジェーニャに対するイメージの変化を裏打ちしているのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-13(Tue) 05:01:01】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
[泥酔論説委員の日経の読み方]
泥酔論説委員の日経の読み方
オバマ大統領に平和賞 「核なき世界」提唱を評価[2009/10/10 (土) 09:54:11]
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=329372&log=20091010
10日朝刊1面 ロンドン=岐部秀光
 ノルウェーのノーベル賞委員会は9日、2009年のノーベル平和賞を、米国のバラク・オバマ大統領(48)に授与すると発表した。同委員会は授賞理由について「国際外交や人々の協力関係を後押しする傑出した努力」を続けたと説明。「核兵器のない世界」を提唱し、核軍縮への新しい潮流を生み出した同氏の功績をたたえた。在任中の米大統領の受賞は、最近ではきわめて異例となる。

アメリカはノルウェー政府に一杯食わされましたね。
ご案内のとおり、ノーベル平和賞はスウェーデンの隣国であるノルウェー政府が選考委員を決めることとなっており、小国であるノルウェーにとって大きな政治的カードとなっています。
特に今回は、まだ何も功績を残していないオバマ大統領を選んだわけで、中道左派のノルウェー政権はアメリカに「核なき世界」と「国際協調路線」の履行を迫っていると言ってよいのです。
まあ、あんな宣言をしてしまったオバマ氏が原因なんですが、今回の受賞がアメリカ外交の手足を縛ることになりましょう。
一種の「誉め殺し」みたいなもんです。

「核なき世界」、これを実現するには核兵器の無力化以外に方法はありません。
米ソという超大国だけが核を独占していた極僅かな期間を除き、今や北朝鮮のような最貧国ですら独自に核兵器を開発保有できる時代です。
この先、いずれアルカイダのようなテロ組織も核を入手できることとなりましょうが、現在のところ核の防御策とは核による反撃能力、つまり核抑止戦略しかないのが事実です。
核を持ってでしか核から守ることができない、核は拡散する一方なのにその相手とは「話し合い」が通用しない、そう言った複雑な時代に我々は直面しています。
現実は「核なき世界」と全く逆のコースを進んでいるにも関わらず、「核なき世界」を成し遂げると約束してしまったオバマ氏、アメリカがというか国際社会がパラドックスに陥りつつあると思います。
平和賞と賞金はタダ取りして、任期中はこの問題から逃げを打つのが賢明な大統領なのかもしれませんね。


泥酔先生をトレースしているわけでもなんでもないんですが。

たまたまたまに見るとそのたび香ばしくてつい言及してしまうわけですが、直接コメントとかトラックバックなんてことじゃなくて密かにリンクするだけなんで、なにとぞご容赦願います。

アメリカはノルウェー政府に一杯食わされましたね。……
中道左派のノルウェー政権は……
あんな宣言をしてしまったオバマ氏が原因なんですが……
一種の「誉め殺し」みたいなもんです。……


うーん……。

誉め殺しというためには、たとえば公民党事件のように、それをする側に相手を貶めようとする悪意があることが普通だと思うんですが。

ところが、オバマ民主党は中道左派であり、ノルウェー政府は(少なくとも前ブッシュよりは)オバマびいきでしょう。ですから、オバマと同じスタンスのノルウェーのノーベル賞選考委員会に対して「誉め殺し」という言葉を使うのは、非常に違和感というか、はっきり間違ってる気がしますね。

事実は、アメリカが中道左派のオバマを選んだわけです。ノルウェーの選考委員によるノーベル平和賞は、そのようなアメリカ全体を賞賛しているのです。

単に誉めてるだけですね。

単に誉めてるところから、「誉める」だけを取り出して、「誉め殺し」という無関係な言葉を接木してますね。以下同様のパターンで――。

「核なき世界」、これを実現するには核兵器の無力化以外に方法はありません。
米ソという超大国だけが核を独占していた極僅かな期間を除き、今や北朝鮮のような最貧国ですら独自に核兵器を開発保有できる時代です。
この先、いずれアルカイダのようなテロ組織も核を入手できることとなりましょうが、


ここまではまったく中道左派的陳述みたいなんですね。

ニューヨークが核攻撃されたら間髪入れずモスクワが消失する、そういう関係があって初めて従来の核抑止力が機能するのに、ニューヨークでアルカイダが核テロを起こしたところで、どこの都市をジュッと報復殲滅すればいいんですか。ちなみにブッシュJr.は、9.11の報復だと言ってイラクを攻撃しましたが、今やその無関係さは万人の認めるところですね。金正日が日本でテロを行っても、アメリカが核報復することはないだろうとも言われてます。実際、朝鮮半島で核が使われたら日本海も汚染されるだろうし放射能を含んだ塵が風に乗って日本にやってくるので、はた迷惑この上ないです。通常兵器の爆撃でお願いします。

要するに、非対称性の戦争の時代になったわけですから、この文脈に続くのは、「ゆえに従来の核抑止力は働かない」だろうと、誰でも思うでしょう。ところが、泥酔氏はこれに無理やりこう接木します。

現在のところ核の防御策とは核による反撃能力、つまり核抑止戦略しかないのが事実です。核を持ってでしか核から守ることができない、


同様に――

核は拡散する一方なのにその相手とは「話し合い」が通用しない、そう言った複雑な時代に我々は直面しています。
現実は「核なき世界」と全く逆のコースを進んでいる


ならば、ますます核軍縮への取り組みが必要ですね。

かつての米ソは対等に話し合うことができたし、事実、核軍縮へ向けた話し合いを行ってきたわけですが、アルカイダやら金正日やらそこらのテロリストが核を手にする不穏な時代が来たのですから、従来の大国ベースでの核抑止戦略が無効になり、新たな戦略が求められている、したがって、この文脈と繋がるのは、ゆえにオバマが従来の核抑止戦略を見直した、となるはずですが――。

にも関わらず、「核なき世界」を成し遂げると約束してしまったオバマ氏、アメリカがというか国際社会がパラドックスに陥りつつあると思います。
平和賞と賞金はタダ取りして、任期中はこの問題から逃げを打つのが賢明な大統領なのかもしれませんね。


オバマ大統領がこの問題(核なき世界へ向けた取り組み)にコミットしたあとで、平和賞と賞金がやってきたわけです。原因と結果を逆向きに接木してますね。結果をただ取りしたあとで原因を作ることはできません。

パラドックスに陥ってるのは、ただ一人、泥酔氏ご本人のようです。

この前の選挙でオバマに投票しなかったアメリカ国民が彼のノーベル賞受賞に対して懐疑的であるということならきっとそうでしょうが、そのような少数派に合わせて「一杯食わされた」という言葉を選びながら、それを今回オバマを選んだアメリカの多数派に直接接木しているところが、軽やかに詭弁です。

毎度、常識的見解もしくは中道左派に組するような雰囲気をかもし出すキーワードを羅列しておきながら、今回もまた、なぜか結論では、前段とまったく論理的につながらない、米ソ冷戦時代の古い核抑止戦略しかないと断言してしまう。

サザエさんや笑点のごとく、いつも同じ様式美で楽しませてくれる泥酔さんでした。


時事/ブログ観察 | 【2009-10-12(Mon) 19:09:05】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 09



「わたし」は、前半では姉妹を一体化して好ましい印象を語るが、後半ではリージヤが正しくないと言い、ジェーニャのみを愛していると言う。リージヤに対する悪感情は、話が進むにつれ、少しずつ小出しにされ、ゆっくりとイメージが変化していく。


  1. 最初に「わたし」が散歩中にリージヤを見かけるとき、すでに、「勝気そうな」「わたしの方になどほとんど注意を払わなかった」と書かれてある。けれどもその前に「非常な美人」とあり、すぐ後にジェーニャのはにかむ様子が置かれ、「この二人の愛くるしい顔」とひとまとめにした上で、「まるですばらしい夢でも見たような気持ち」になったとあり、リージヤのマイナスイメージはほぼ隠されている。
  2. 次にリージヤを見かけたとき、彼女の勤勉で利他的な様子が紹介され、ベロクーロフが、彼女を自立心の強い有能な女性であると語る。ただしリージヤはまったく「わたし」に話しかけない。
  3. 祭日にリージヤの家を訪れたときは、リージヤの「微笑も見せぬ、生真面目な顔」「問いただしていた」「非難がましく言った」そして「恥ずかしくないこと?」などの台詞はすべてベロクーロフに向けられ、「わたし」とリージヤの対立はその後ろに隠されている。あまつさえ「わたし」がベロクーロフを内心手酷く軽蔑するので、リージヤほど有能ではないにしろ熱心に働いているベロクーロフより無為徒食である「わたし」のほうがリージヤに近しいかのような錯覚さえ感じてしまう。
  4. 第二章では、初めて「わたしは彼女によく思われてなかった」という直接的な言及が登場する。しかしここでも、この発言の前に、リージヤの勤勉で誠実な活動や「美しい、常に端正なこの娘」などの賞賛の言葉が並び、この発言の直後に、ジェーニャの愛らしい描写が長く続き、途中ジェーニャには「それは姉さんが正しくないからですよ」と言いつつも、なにがどう正しくないのか説明のないまま、さらには、姉妹と母親と召使までひとまとめにして賞賛する言葉が付け加えられるために、リージヤとの根深い対立のイメージが薄められている。
  5. 第二章の終わりごろに、ベロクーロフがやってきて、章分けされていないものの、ここにイメージの区切りがあると指示されている。無能なベロクーロフ、うら悲しい「わたし」、リージヤ、ジェーニャの四つのモチーフがここまで繰り返しこの順序で登場してきたが、その構成を復習するかのように、ここでもその四つのモチーフが同じ順序で短く繰り返される。さらには、「わたし」の台詞が、リージヤとジェーニャのモチーフのこの順序が重要であることを念押しして繰り返す。今までは、リージヤの容貌や性格への長々とした賞賛と、愛らしいジェーニャとの数々の楽しいデートよって挟まれその間に密かに埋め込まれていたリージヤへの反発が同列に並べられ、それが他のモチーフと同等かそれ以上の強い力を持っていることが示される。
  6. 第三章では、「わたし」とリージヤとの対立が最大のモチーフになり、前景化される。


なぜリージヤのマイナスイメージは、小出しにされ、少しずつ読者に示されるのだろうか。そしてなぜ、リージヤのイメージの変化は、事件によって根拠付けられたり、登場人物の心理的変化を伴ったりしないまま捨て置かれるのだろうか。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-12(Mon) 04:59:50】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 08



さて、ベロクーロフも「わたし」も、リージヤもジェーニャも、並立する対照的な二つのイメージによって指示されているが、二つの意味を持つひとつのモチーフは、ミステリで頻繁に使われる手法である。

この問題に関心を持つ人々は、自分でもこれと類似した場所を選び出せることだろう。まさしく根本問題とは、いわばある一点から一本の線にたいして二本の垂直線をおろすことが可能かということになる。作家は一つの特徴を手がかりにして、一致するはずのなさそうな二つの事物が一致する場合を探している。(*07)


ここでシクロフスキーが言っているのは、ミステリで常套されるダブルミーニングである。

たとえば、シャーロック・ホームズの登場するある短編では、最初の被害者が「まだらの紐(band)」と叫んで死ぬので、それが犯人と係わり合いがあると考えられるが、紐(band)に二つの意味があるために、当初、ジプシーの一味(band)が犯人ではないかと思われるが、真相は、まだら模様の蛇が犯罪に使われていて、被害者はそれをまだらの紐(band)と呼んだのである。

つまり、二通りの意味に取れるモチーフの傍に、あるモチーフを配置すると、第一の意味を、また別のモチーフを配置すると、第二の意味を、読者は受け取るのだが、それというのも、読者がただ小説内の言葉と言葉の関係から意味を構成するからであり、読書過程において、時間を空けてそれを順次に獲得していくからである。

ベロクーロフについて見てみると、彼は働き者のイメージと無能な飲んだくれのイメージの二つのイメージを指示されているが、前半では、有能なリージヤと対比されるために、無能者のイメージのみが前景化される。ジェーニャは、まだ幼いというイメージと、恋するべく十分に成熟しているイメージの両方を持つことができるお年頃だが、前半では、家族に子供扱いされることばかりが強調され、母親がそれとなく結婚話をする年上のリージヤのイメージの後ろに隠れてしまう。

ダブルミーニングと並んでよく使われるミステリの手法が、レッドヘリングである。たとえば、アガサ・クリスティの「邪悪の家」では、以下少々ネタバレするが、いとこ同士の若い女性二人が登場し、その二人は、一方が活発でもう一方がおとなしい性格であり、ある男性がそのどちらかを愛していたのだが、彼がどちらを愛していたかが重要な手がかりとなる。けれども二人は仲良しでいつも一緒にいて、そしてその男性は二人のどちらとも親しくしていたので、どちらが彼の本当の恋人だったか、なかなかわからない。

あるいは、同じクリスティの「もの言えぬ証人」では、犯人が二人組であるだろうと強く推察され、容疑者グループがいずれも兄弟や恋人や夫婦などの二人ずつのグループになっており、どの二人組が犯人だろうと考えているうちに、結末で、単独犯であったことが明かされる。

ここではあえて「中二階のある家」で使われている手口と似たものをミステリの中から探してきたが、それは簡単に見つかったし、というのも、ミステリにおいてもまた、読者が構成するイメージをテキスト構造によって操作するというやり方で、真犯人や手がかりを隠すからである。

けだし、ミステリもまた言葉しか使わないのだから、文学一般の手法に拠るほかないのだが、ミステリ、特に本格推理小説に限っても、世界中に真砂の数ほど存在し、その多くが、たいていの読者から真犯人を隠すことに成功している。この事実が証明しているのは、モチーフの配置を工夫することで、読者のイメージ構成過程をかなり正確に操作しうるということである。

本格推理小説における真犯人のイメージは、結末直前までは無辜の善良な人物であり、結末において唐突に極悪な犯罪者のイメージに変化する。もちろん、真犯人は結末で急に犯罪者に変化するのではなく、最初から最後まで犯罪者であり、叙述的にそれを隠しているのである。

このような人物イメージの変化は小説全般から見ると少数派であろう。なるほど、たいていの小説では登場人物のイメージが変化するが、その場合、変化の原因が語られることのほうが普通だ。たとえば、少年が試練を経て成長するとか、少女が恋愛を通じてお金より大事なものがあると気付くとか、そういった登場人物のイメージの変化は、心理的変化であり、心理的変化は何らかの事件を通じて示される。

そのような意味において、「中二階のある家」の登場人物のイメージの変化は、一般的な小説と異なり、ミステリの手法に似ている。登場人物自身の心理的変化に根拠付けられることなく、叙述的操作によって人物のイメージを徐々に変化させているからだ。しかし、この愛らしい短編には隠すべき犯罪も真犯人も登場しないので、なぜダブルミーニングやレッドヘリングに似た構造が存在するのか、今のところ不明である。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-11(Sun) 04:58:20】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 07


小説はすべて虚構だから、その中に登場するどのモチーフもすべて現実に根拠を持っていない。リージヤだとか、ベロクーロフだとか、美しい並木道だとか、鐘楼の屋根の上の十字架だとかは、解釈以前はどれも同じ程度の重みしかなく、現実から遮断され、小説の中の言葉の組み合わせの中から意味を推測するほかない。

リージヤは人間でもなく女性でもない。ただの言葉である。

それが何を意味する言葉なのかは、小説中のその他の言葉を手掛かりに読者が構成していくほかない。モチーフは読者が作り出すのだ。

リージヤというのもモチーフだし、リージヤは美人だというのもモチーフである。リージヤは独善的かもしれない、というのもモチーフである。リージヤとジェーニャの対照から導かれる言葉では説明しにくい美的価値もモチーフである。モチーフによって読者の参与の度合いに濃淡があるにせよ、それらが読書行為を通じて引き出されるものであることに違いはない。読者の参与の大きいイメージは、テキスト極にある参与の小さいイメージに指示されている。人名は、最もテキスト極寄りのモチーフだが、そこから生き生きとした登場人物の活躍を思い浮かべるまでの間に、モチーフが対応付けられ、積み上げられ、イメージが豊かになっていく。

小説はたいてい、人物や事件についての説明が延々と続けられるのだが、それらは小説の美的価値を作り上げるために読者の前に並立して置かれている。たとえば、ベロクーロフが実在の人物ならば、「ベロクーロフは若く、早起きで、いつも半コートを着こみ歩き回っている」という言葉は、発話者のベロクーロフに関する判断である。だから、「ベロクーロフ」が実在の人物に付けられた名前で、それについての陳述の可否が問われる。「ベロクーロフは働き者だ」と約めて言えば、「ベロクーロフ」が主語で、「働き者だ」の述語と対応している。

ところが、ベロクーロフは虚構なので、この言葉はそのような命題の意味を持たない。読者から見て、それは、「ベロクーロフかつ働き者」なのである。だから、ベロクーロフと働き者とが並立するような位置に、自分の視点を移動させて、その意味を確定する作業が必要となる。この二つの思考プロセスはまったく異なるのであり、小説を読み進むにつれ、両者の違いはますます大きくなっていく。たとえば、「リージヤは正しくない」ということが、「わたし」の台詞として語られるが、あくまでも読者の前には、「リージヤかつ正しくない」なにかとして示されるのである。そのとき読者が考えているのは「なにか」であり、「リージヤ」と「正しくない」という言葉がそれを指示している。たとえこれが、三人称で地の文で語られていたとしても、事情は同じであって、リージヤをどう考えるか、正しいとはどういうことか、というものを同時に並立して考え、両者が共に成立する視点を探して、読者は移動し続ける。

現実の言葉は、現実を指し示しているから、それについての判断が示される。現実の何かから測って、すべての言葉の位置関係を決定することができる。一方で、小説の言葉はすべて現実から切断しているから、その言葉の位置関係は、他の言葉との関係によって決められるし、だから読者の前にはすべてが並立的に示されると言えるのだ。

並立するモチーフから読者が意味内容を獲得するとき、それもまたモチーフである。ベロクーロフを軽蔑していた「わたし」が、無為徒食であるためにリージヤに疎んじられるとき、ベロクーロフと「わたし」が異なる価値観で対照され、新しい意味内容の生成を読者に促す。

読者は、実務に没頭して神経をすり減らすベロクーロフのような生き方と、芸術至上主義の生き方を比較して、それぞれの価値規範の長所と欠点について考える。そのとき読者の生成した意味内容は、並立するベロクーロフや「わたし」の描写に足場を置いている。したがって、読書過程でのベロクーロフや「わたし」についてのイメージの変化と共に、その上に立脚しているモチーフのイメージも変化していく。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-10(Sat) 04:56:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 06
言葉しか寄る辺のない私たちは、冒頭で「わたし」が並木道を歩くとき、その言葉の意味を考えながら読んでいるのだが、それはつまり、並木道を歩くとはどういうことか、というイメージを思い描いているのである。それは、自分の知っている人や並木道について思い出すのとは、まったく異なる思考プロセスである。「わたし」と「並木道」と「梢の先の金色の光」の関係を考え、「鐘楼の屋根の上の十字架の輝き」との対応を考え、意味を構成するプロセスである。(*06)そして小説は虚構だが読書行為は現実であり、そのような読者の現実の行為に根拠付けられて、そのような事実の意味として、小さな輝きが浮かび上がってくる。

暗い並木道の中に一人の男が立っているイメージは、男を外側から見る視点である。読者は一度はそのような視点に立って想像してみるはずである。ところが、そのあとで金色のきらめきを発見するシーンでは、男の視点に立たなければ、うまくイメージできないだろう。金色は、梢の先のごく一部であって、また燃えるように輝く十字架は池の対岸の先に小さく見えるのみであり、全体は日没直前の暗い場所なのである。その中で、「わたし」という個人的視点が、客観的には無視できるほど小さく部分的なきらめきを、特別に発見するのである。

だから、そのとき、読者は「わたし」の内面に視座を置いて、「わたし」の立場になって情景を思い浮かべる必要がある。そうしなければ、この文章を十分に理解できないからである。

私たちは、文章理解の当然のステップを踏んでいるだけなのに、それが結果として、「わたし」の視点への移入を呼び起こし、小さな輝きを見ることが発見という特別な意味合いを帯びるのである。

こうして読者は、読書行為によって小さな輝きのイメージを獲得し、次に、(風景の描写のあとに置かれた)「なじみの深い、なつかしいものの魅惑」と、(姉妹の描写のあとに置かれた)「ずっと前から見知っている」「すばらしい夢でも見たような気持ち」という同じ系統の指示に従って、小さな輝きの発見と姉妹の発見を同一視するのである。

このとき、リージヤ‐ジェーニャ姉妹は、小さな輝きを発見した読者の読書行為そのものに結び付けられる。読書行為は、現実であり、あるひとつのイメージが構成されるまでの間、遂行されるひとまとまりの体験である。

ここに、リージヤ‐ジェーニャという虚構の言葉が、現実の実体的意味を持つのであるが、それというのも、作品の意味の対応関係は、テキスト内の言葉同士にとどまらず、テキスト極から読者極までの読書過程で生じるすべてのモチーフの対応関係だからである。テキストは読まれることを前提にその結果を先取りして指示しており、リージヤ‐ジェーニャとは、読書行為の過程で読者の心の中に生まれる構造に予めつけられた名前である。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-09(Fri) 04:54:40】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 05



中二階のある家が登場するのは、冒頭で「わたし」が姉妹を初めて見かける直前と、最終章でジェーニャに門のところまで見送ってもらったあと、未練がましく引き返したときである。

可愛らしく、あどけない、古い家が、中二階の窓を眼のように光らせてわたしを見つめ、すべてを理解してくれているような気がした。[中略]ミシュスの寝起きしている中二階の窓に明るい光がさし、やがて落ち着いた緑色に変わった――ランプにシェイドをかぶせたのだ。[中略]かれこれ一時間近くたった。緑色の灯が消え、人影も見えなくなった。(*05)


最後になって、ジェーニャの部屋が中二階にあるとわかり、中二階のある家と優しいジェーニャを「わたし」が同一視していることがわかる。

このようなテキストの指示を読者がどう解釈していくかを考えよう。

リージヤやジェーニャ(ミシュス)は、ロシアの女性名だから、そのような現実の歴史的意味をそのまま採用してかまわないように一見思える。けれども、ひょっとすると、リージヤは飼い犬の名前かもしれないし、テロの暗号名かもしれないし、スポーツカーの商品名かもしれない。それらはテキストの他の言葉との関係の中から推測していくほかない。

つまり読者は、小説中のすべての言葉について、現実の経験や知識による予断を禁止されている。そのような厳しい条件下で、古い家が「可愛らしく、あどけない」と修飾され、中二階がジェーニャの部屋であると示されると、ジェーニャと中二階のある家とを隣接して考えなければならなくなる。ジェーニャも中二階のある家も、どちらも小説の中の言葉として同等であり、現実的根拠を持たないから、両者を関連付ける小説の中の他の言葉のみが確かな判断材料なのである。

だから、現実の世界で「可愛い家」と言う場合とは、その言葉の重みがまるで違う。

現実の世界の家をいくら可愛いと言っても、家という実在は揺るがない。ところが、小説の中だけの言葉に過ぎない「中二階のある家」が、可愛いと修飾されるや否や、その家はいくらでもとめどなく可愛らしく変形しうるのだ。ゆえに、中二階のある家がそこに住むジェーニャを象徴しているという言い方すら間違いであって、なぜなら、すでに述べたとおり、ジェーニャもまた現実に根拠を持たないただの言葉に過ぎず、ジェーニャのイメージと中二階のある家のイメージがあい寄り添って、なつかしい魅惑のイメージを形成していると言うべきだろう。

冒頭で初めて「わたし」が中二階のある家のそばにきたとき、暗くなりゆく世界の中に、小さな輝きを発見し、その直後にリージヤとジェーニャを見て、小さな輝きと姉妹のどちらにも同じなつかしいものの魅惑を感じるのだが、それと対を成して、結末では、すっかり日が落ちて、最後の最後にジェーニャの部屋の明かりも消えてしまうし、それがジェーニャに会った最後の記憶でもある。読者は、このようなイメージの対照を当然関連付けて考えるべきである。

それを根拠付けているのが、小説の中の「わたし」の両者を同一視する視点である。

読者は、作中で、飼い犬がリージヤと呼ばれればそう思うし、ジェーニャと中二階のある家とが可愛らしくあどけないと指示されれば、そう思うのである。読者はそのような小説内の指示に従ってしか言葉の意味を構成できないからである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-08(Thu) 04:53:33】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 04

「中二階のある家」は、四つの章からなる愛らしい短編で、これまで、第一章と第二章を見てきた。この先、第三章は、リージヤと「わたし」の対話が中心で、最後の第四章は、ジェーニャと「わたし」の対話が中心である。前半の二つの章でも、リージヤとジェーニャがこの順序で繰り返し登場してきたわけだが、それが一体的なイメージとしてとらえられていた。そしていよいよ後半では、二人のイメージが分離して、「わたし」はリージヤと不毛な論争をして彼女を不愉快にさせ、そのあとで、ジェーニャを愛していることに気付く。

リージヤと「わたし」の議論は、リージヤが議論を避けたがっているために、「わたし」がリージヤを挑発する形で始まる。「わたし」は、最初のうちはリージヤのやり方を頭ごなしに否定するだけだが、リージヤがたまらず反論すると、自分の意見を大いに語り始める。その意見の主旨は、貧しい人たちにとって緊急に必要なのは、教育でも医療でもなく、なによりまず過酷な労働からの解放である、というものだ。そして、現存の間違った制度を支持しつつ、過酷な労働に苦しんでいる貧しい人たちを楽しませるため絵を描くことは無意味だから、絵を描かない、と彼は言う。

けれども、彼自身の態度によって、彼の主張は裏切られる。彼は現存の制度を改善するための努力をまったくしていない。そして、最後には、「何も要るもんですか、こんな地球なんぞ地獄にでも落ちちまえばいいんだ!」と無責任な悪態をつくのである。

無為徒食であることも、現存の制度を支持することではないか。それに対して、リージヤは、少なくとも、改善のための努力をしている。リージヤが、最後に、「わたし」は自分の無関心を弁解しているだけだ、と言う。

最終章で、「わたし」はリージヤの家を出る。外はすでに日が落ちて、ジェーニャが「わたし」を門のところまで見送る。「わたし」はジェーニャに愛を告白し、ジェーニャは姉にそれを告げるのが恐いと言いつつ走り去る。「わたし」は引き返して、姉妹の家を眺める。

ジェーニャの寝起きしている中二階の窓の明かりが消えて、辺りがすっかり暗くなる。翌日再び訪れると、ジェーニャはおらず、リージヤが「わたし」との交際を禁じたことが判明する。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-07(Wed) 04:52:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
[ニューズウィーク日本版]
ニューズウィーク日本版 p.25[2009/10/07]
ダライ・ラマは現実を直視すべきだ
チベット 中国が受け入れるはずのない大チベット構想は百害あって一利なし

リアオ・ウェン

中国人の目には、大チベット構想が自分勝手に見える。チベット自治区の近隣地域にチベット人が移り住んだのは主に過去50年のこと。漢民族のチベット移住は認めないのに、大チベットにはチベット人の移住地域が含まれているのはおかしいではないか――。


Wikipedia - 雍正のチベット分割

雍正のチベット分割(ようぜいのチベットぶんかつ)は、清朝の雍正帝が1723年 - 1724年に青海地方に出兵し、グシ・ハン一族を征服した際の事後措置。
この措置により、チベットはタンラ山脈よりディチュ河にかけての線により二分され、その西南部はガンデンポタンに委ねられ、その東北部のモンゴル王公、チベット人諸侯らは青海地方と甘粛省、四川省、雲南省などの諸省に分属させられることとなった。中華人民共和国の、チベット民族の自治区を西蔵部分のみに限定し、その他のチベット各地を「内地(中国本土)」諸省に組み込む行政区画は、この分割の際の境界を踏襲したものである。

テングリノール - チベットとは?

チベット系の人々が伝統的に居住する地域は(中略)中華人民共和国・インド・パキスタン・ネパール・ブータンの5カ国にまたがっています。チベット系の人々がもつ唯一の国連加盟国がブータンで、のこる4カ国ではチベット系の人々は「少数民族」の位置づけをうけています。
(中略)中華人民共和国は、この領域の西南部を占める西蔵 をチベット民族の「自治区」としたほか、のこる各地を青海省とその他の各省に分属させています。


つまり青海地方と甘粛省、四川省、雲南省などには昔からチベット人が暮らしていた。

だから、「チベット自治区の近隣地域にチベット人が移り住んだのは主に過去50年のこと」は、嘘である。

事実としては、中国の軍事占領以降、チベット自治区のほうへ大量の漢人が入植しているのである。

青海地方と甘粛省、四川省、雲南省などに昔からチベット人が暮らしていたこと、それは、中国が大チベット主義を容認できるかどうかとは関係がない。チベットが独立国かそれとも中国の一部かとも、チベット動乱が開放か侵略か、あるいは現在の中国によるチベット政策の是非とも関係ない。

ただ単に、事実に照らして、青海地方と甘粛省、四川省、雲南省などには昔からチベット人が暮らしていたのであり、リアオ・ウェンはパブリックな場所で署名つきでなんの躊躇もなく明朗快活公明正大に大嘘をついてるのである。

ネットで「チベット」と検索すれば、だれでもすぐに気づく嘘である。まるで、「地球は平べったい」と書いたTシャツを着ているようなもので、嘘として成立していないように見える。

だが、世の中にはすぐにばれる嘘をつく人たちがいる。彼らの目的は、私たちとはまったく違う。

ある真実が不都合であると感じるためには、真実がばれたら困るという気持ちがなければならず、それは、最終的には真実が物事の是非を決定する、という価値観を前提としている。

すなわち、真実に価値を認めている人たちのみが、真実を隠すために嘘をつくのである。

一方で、真実に価値を認めずそれを畏怖しない人たちは、なんの咎めも感じず軽やかに嘘をつく。

いったい、2008年北京オリンピックで、開会式の花火はCG、少女は口パクだったのは、中国の経済格差を糊塗するためでも政治的不自由からメディアの目を逸らすためでもなかった、ただ楽しいだけの嘘である。真実を隠すためではなく、楽しむための純粋な嘘なのである。

そのような嘘を麻薬になぞらえることができるだろう。

麻薬におぼれた人たちを見て、そうでない人たちが、なにか苦しいことつらいことがあって、そこから麻薬に逃げたのだろうと思うのは、そう思う人たちが、普段、不断に、苦しいことつらいことと対峙しているからである。

しかし、そうでない人たちもいる。彼らは単に麻薬を楽しんでいるのである。そう言って語弊があるならば、麻薬の魔力に捕らわれてしまって現実を忘れてしまった人たちと言い換えてもよい。

同様に、嘘の魔力に捕らわれた人たちは、なにかを守るために嘘をつくのではなく、嘘をつくこと自体が目的化しているのである。

大チベット主義を受け入れられないなら、その理由を述べればよいのに、そこですぐばれる嘘をつくならば、主張全体が信用を失って、説得できる相手まで敵に回し、元も子もなくなってしまうではないか。

だから、この嘘の目的は、自分の利益のためだとか、不都合な何かを隠すためだとかではないのだ。そこに気づけば、なにも不思議なことはない。リアオ・ウェンは、ただ楽しいから嘘をついているだけである。それをよしとする文化圏で生まれ育ち、そこになんの疑問も感じない種類の人間である。

真っ赤な嘘、まかり通る――。

五星紅旗の赤は、真っ赤な嘘の赤だ。

真実に価値を見出さず、嘘を楽しむ人たちの太平天国だ。

リアオ・ウェンが住む――かつては自由だった時代もあった――香港が、その旗の下にひれ伏して十有余年が過ぎた。




時事/ブログ観察 | 【2009-10-06(Tue) 13:15:27】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 03

その後まもなく「わたし」は再びリージヤに会う。リージヤは相変わらず「わたし」を無視するが、ベロクーロフによると、彼女は自立心の強い有能な地主階級であるという。ジェーニャは、ここではまだ、ベロクーロフの言葉の中に、リージヤが母と妹と三人で暮らしていると触れられるのみである。

ある祭日のこと、「わたし」とベロクーロフは、リージヤの家を訪問する。まずベロクーロフとばかり話し込むリージヤが紹介され、次に、家庭内で子供扱いされているジェーニャが「わたし」に話しかける。「わたし」は、姉妹と母親と召使までひとまとめにして、若々しく、清らかで、品がよいと賞賛する。リージヤは議論でベロクーロフを言い負かし、「わたし」は内心ベロクーロフの無能な仕事振りをあげつらって、彼を軽蔑する。

章が改まっても、同じモチーフがほぼ同じ順序で登場してくる。「わたし」は自分自身に不満を感じ、無為徒食の生活をリージヤに軽蔑されていると言う。そのあと、急に、昔旅先で見知らぬ娘に冷たくされた短いエピソードが入り、それと同じようにリージヤに蔑まれ、苛立ちを覚えて悪たれをつくとある。けれどもリージヤとの関係はここまでで短めに切り上げられ、その次の行からは優しいジェーニャが登場して、一緒に散歩したり、ボートに乗ったり、「わたし」の絵に感嘆したりする。ジェーニャとのデートはさらに続き、二人は芸術論で盛り上がる。「わたし」はここでも、「こうした細かい些細な出来事を、なぜかわたしは憶えており、なつかしんでいる」と言うのだが、その直前にちらりとリージヤが姿を現して、「わたし」のなつかしさの中に姉妹の両方が含まれてしまう。さらには、ジェーニャと母親がしきりとリージヤを褒め称えるので、この三人が不可分のひとまとまりであるとわかる。

ベロクーロフが半コートをひっかけてやってきて、またもや同じモチーフが今度は要約するかのように短く繰り返される。「わたし」は自分の無為な生活をうら悲しく感じ、リージヤははつらつと政治を語り、ジェーニャが門口まで送ってくれるが、「わたし」はまた全部ひとまとめにして、「この愛すべき家族全体を身近なものに感じた」と言う。

家に帰った後で、ベロクーロフがリージヤやジェーニャと恋をしないのは、彼にすでに恋人がいるからだと判明する。「わたし」はこう言う。

「リーダが好きになれる相手は、彼女と同じくらい病院や学校に熱中している郡会議員だけですよ。」わたしは言った。「まったく、あれほどの娘のためだったら、単に郡会議員になるだけじゃなく、お伽噺の中にでてくるように、鉄の靴をはきつぶすくらいの覚悟をしてもいいところですよね。じゃ、ミシュスは? 実にチャーミングだな、あのミシュスって子は!」(*04)


ここでも、「わたし」とリージヤ(リーダ)がうまくいかないことが示唆され、リージヤが優秀であることが賞賛され、最後になぜかジェーニャ(ミシュス)が付け加えられる。ここまで常に、リージヤとジェーニャがこの順でワンセットに描写されてきたのだが、それが会話の中でも律儀に繰り返されるのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-06(Tue) 04:50:42】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 02



 六、七年前、T県のさる郡にある、ベロクーロフという地主の土地に暮らしていた頃の話だ。この地主はまだ若く、とても早起きで、いつも半コートを着こみ、毎晩ビールをのんでは、自分はどこのだれにも共鳴してもらえないと、わたしにグチをこぼすのが常だった。(*03)


これはチェーホフの「中二階のある家」の冒頭である。

ここには、人名らしき「ベロクーロフ」という言葉が登場する。テキストの意味は、ベロクーロフとベロクーロフのいくつかの特徴が並置されている。私たちはベロクーロフを知らないし、それどころか、彼が存在するとさえ思っていない。私たち読者が、ベロクーロフなる人物をぼんやり思い浮かべるとき、すでに解釈が始まっている。だから、今はそのようなことはやめよう。

次に、「わたし」という一人称に注目すると、「わたし」は六、七年前、ベロクーロフの土地に住んでいて、彼の愚痴を聞いた、と書かれてある。そのあとに「わたし」が住んでいた家と「わたし」の生活についての描写が続く。

住居については、古くだだ広く、嵐のときはいささか不気味だったとある。そして生活については次の通りである。


  1. 無為徒食の毎日を運命付けられていた、まるきり何もせずに日を送っていた。
  2. 何時間も部屋の窓から空や鳥や並木道を眺めていた。
  3. 届いた郵便を手当たり次第に読んだ。
  4. 時折は、夕方遅くまで散歩した。


ベロクーロフの特徴は対照的な二つに分けることができて、若く早起きでコートを着込んで歩き回る様子は働き者であるイメージ、毎晩ビールを飲んで愚痴をこぼす様子は無能な男のイメージである。同じように、「わたし」の生活も、ひとつには無為徒食の怠惰なイメージがあるが、一方で、手紙を熱心に読んだり遅くまで散歩する様子には、何かを探しているようなイメージが伴う。

さて、次には、「わたし」が夕方散歩する様子が描かれるが、ここは二つの分節に分けて考えることができる。第一には、暗い美しい並木道を歩くうち、高い梢のそこかしこに、鮮やかな金色の光が打ち震えるのを発見すること、第二には、古びた菩提樹の並木道を歩くうち、不意に目の前に地主屋敷と広い池の眺めが打ち開け、池の対岸の鐘楼の屋根の上の十字架に入日が反射して赤く輝く様子を発見することである。

この二つはそっくりな構成であり、最初に三人称的視点で並木道を歩く男の描写があって、次にその男の視点で小さな輝きを発見する描写がある。客観的には日没間際で全体が暗いのだが、その中で「わたし」の主観的視点が輝きを発見するのである。段落の最後に、「わたし」がこの眺めをなつかしい魅惑だと言う。

そこは、ある地主の領地で、中二階のある家があった。「わたし」は、二人の姉妹を見かける。姉妹は、全体として美しい姉妹のイメージを持ち、その中に姉のリージヤと妹のジェーニャの二つのイメージを持っている。リージヤは非常に美人だが小さな口で「わたし」に目もくれず、ジェーニャは大きな口で「わたし」を見てはにかんだ。

この段落の最後でも、「わたし」は前から見知っているようなすばらしい夢を見たような気持ちになったと言う。「わたし」の主観では、前段落の輝きの発見と、この段落の姉妹の発見が同じイメージに分類されているのである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-05(Mon) 04:47:53】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
中二階のある家は感傷的か 01
中二階のある家は感傷的か

朝野十字 - 2006/09



砂糖は甘い、私たちは普通にそのような言い方をするけれども、甘さを感じるのは人間の舌であり、砂糖には甘みを感じさせる成分があるとか構造があるとか言ったとしても、それもまた人間の舌がそれを味わうことを前提としている。砂糖の甘みの構造の意味を裏打ちしているのは、舌の構造と機能である。舌が存在せず機能しなければ、サトウキビを栽培したり精製したり販売したりする意味は失われるのである。

「中二階のある家」が感傷的かどうかは、作者が感傷主義だとか、主人公が自己愛的だとかいう意味ではもちろんなくて、読者が読書行為を通じて感傷的な気持ちを感じるか、という意味である。だから私たちは、作品について、イーザーの次の定義を採用することにする。

 このように考えると、文学作品は二つの極をもつと結論できるであろう。すなわち、その二つは、芸術的な極と美的な極といいうるものであって、前者が作者によって作られるテクストを指すのに対して、後者は読者がなし遂げる具体化を言う。[中略]これをいい換えれば、文学作品は、読書過程に置いてのみその独自の姿を示す、ということになる。従って、これからの論議で文学作品といえば、テクストから呼びかけられた読者が遂行する構成過程を念頭においている。つまり、文学作品とは、読者の意識においてテクストが構成された状態を指す。(*01)


紙に書かれた文字は、モノであり、それを見るのは人間のココロであるから、文字の並びが触媒となって、作品という精神作用が引き起こされることに何の疑いもないが、文学は、ココロの側に構造と機能の両方を見ていて、そこが自然科学と異なる。読者の精神活動は、文字を読む段階ですでに開始されているから、テキストの意味も作品の意味内容も、ココロの側にある。

とすると、どこまでがテキストの側で、どこからが読者の側なのだろうか。

イーザーは「テクストは、作者の外界アプローチから読者の経験に至る全過程である」(*02) と言う。つまりこの場合の構造とは、オシベとメシベの構造が、受粉という作用を裏打ちする、という意味での構造ではなく、変化の全過程の中に構造と作用が切れ目なく織り込まれていると考えられる。そして変化は双方向的であり、再帰的であり、ある時点での構造は別の構造の作用結果であり、ある作用が自身を生み出した構造を変化させることもあるだろう。

そこで、作品理解にあたってテキスト極から読者極へ至る読書行為の全過程を観察するためには、まずは、テキストを無心に観察して、言葉によって直接示されたモチーフの構成を調べることから始めるべきだろう。たとえば、登場人物の名前それ自体は、小説内の言葉として直接示されたテキスト極のモチーフであるが、彼の人格のイメージは、複数の言葉の連なりから読者が解釈した結果生成された読者極寄りのモチーフである。

脚注・文献

中二階のある家は感傷的か | 【2009-10-04(Sun) 04:44:24】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 12


ここまでの小説の形式をおさらいすると、構成としては、イワンの生い立ちから六号室収容までの小さなストーリーがあって、その後に、それと相似形の、アンドレイの生い立ちから六号室収容までの変化が描かれている。また、語りとしては、前半で、アンドレイを善良だの正直だの言って、読者を混乱させている。

次に、第十七章に至っても、ニキータの差し出した「囚人服」に唯々諾々と着替え、イワンに泣き言を言っていたアンドレイは、第十八章の冒頭で、監獄然とした六号室の様子を初めて見るかのように、あらためてまざまざと見つめなおす。これは冒頭のイメージの再現であり、そのような構成から、私たちは、これが人間の監獄についての物語である、チェーホフはそう主張している、という感じを感じる。またそれは今までの構成と整合して、無辜の囚人のイメージを喚起する。

アンドレイは、第十八章で、ようやく、どうしても煙草とビールが欲しいのだということに気付く。

この期に及んで、彼はようやく生活の感覚を取り戻す。煙草を愛し、ビールをやめられない、人間臭い、そしてそのような意味においてようやく構成のくびきを外れた主体的なアンドレイは、当然この牢獄を脱出しようと暴れ、ニキータに殴りつけられてしまう。

痛みにたえかねて、彼は枕をかみ、歯を食いしばった。と、急にその混沌の中から、いまこの月光の下では黒い影のように思われるこれらの人々は、これまで何年ものあいだ、夜となく昼となく、これとおなじ苛責をたえ忍ばなければならなかったのだという、恐ろしい、たえがたい想念が、まざまざと頭の奥に閃いた。二十年以上もの長いあいだ、彼がこれを知らないでいるようなことが、また知ろうともしなかったようなことが、どうしてありえたのだろう? 彼は知らなかった。苦痛についての理解をもたなかった。(*14)


まず、一般的な言葉の意味において、彼は知っていたのである。彼がそれを知っていたことは、再三再四記述されている。だから、ここでは、一般的な意味ではなくて、「苦痛についての理解をもたなかった」という意味において、「知らなかった」ということであろう。ここでは、知識としてではなく、実感としてそれを知っているか否か、ということが、問われているのである。

であるならば、この小説の冒頭で、チェーホフがしきりと、善良だの正直だの繰り返していた言葉も、再考が必要だろう。通常の意味では善良でも正直でもなかったアンドレイを、なぜチェーホフはしきりとそう言い募ったのか。

私たちは、アンドレイとイワンの間で長々と続けられる哲学談義を丁寧に読み込んで、いちいち要約して、その中から苦労して、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマを抽出する。そして、これがこの小説のテーマかなと思う。そのような観点から構成を見ると、不幸なイワンが六号室に収容されるまでが短く描かれ、それを一例として、その後に、アンドレイが同じように六号室に収容されるまでの変化が、長めに描かれているように感じる。この構成が方向付けているのも、やはり、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマのようだし、そのような構成理解の延長上には、イワンは実は正常であるという解釈の可能性が仄見えるような気もしてくる。

その辺り、「名作の読解法」という心強いタイトルの本を読むと、次のように解説してある。


  • すでに完全に正常であるのに、たまたま六号病室に入れられたためにそこから出してもらえないことになってしまっている、貴族の青年イヴァン・ドミートリチに、この土地で唯一の彼と対等に議論することのできる知的な人間を見出し、……
  • 野心家のホーボトフは病院の設立者である市に働きかけ、医学に無知な人々を説得して、精神が冒されたものとしてエフィームイチを免職にさせる。
  • 彼の最も親しい理解者であると自負していた郵便局長は、彼が不幸に見舞われたいまこそ友情を発揮すべきときと考え、……(*15)


しかし、まず、イワンはアンドレイによって治癒不可能と診断されたこと、イワン自身が自分は病気だと認めていること、最後の訪問時に、アンドレイを探偵だと疑う妄想を示したことから見て、正常ではないと思われる。また、そのことをアンドレイはよく知っていたのだから、彼を対等に議論することのできる知的な人間と思った、ということもありえないようだ。

次に、エヴゲーニイ・ホボートフが、アンドレイを失脚させるために積極的に働いたか、という点だが、そこのところを直接的に説明する描写はない。逆に、第十五章に、「彼がアンドレイをなおすのが自分の義務と考えて、げんにいま直しつつあるもののように思いこんでいる」という描写がある。

もしも彼がアンドレイを追い出し、自分が後釜に座ることを第一の目標にしていたのであれば、その目標を達成した後で、辞職して無一文になり、廃人同様である人畜無害なアンドレイをしばしば訪問する必要があるだろうか。一方で、ミハイルについては、借金を返そうとしない上に、第十六章で、アンドレイの幸福を願って入院を勧めているはずのところで、「ミハイル・アヴェリヤーヌイチはこう言って、ずるそうに片目で目くばせした」という記述がある。

おそらく、私たちは、読解終了後の豊かで幅を持った解釈ではなく、読解の過程に注目するべきだろう。ミハイルやエヴゲーニイは、最後まで、構成を形成する張子の背景に過ぎず、人物ではなく、人間的意思もない。対して、アンドレイは、いざ六号室に収容されるやいなや、突然、生き生きとした登場人物に変容する。さらには、そうやって変化した途端に脳卒中で倒れ、翌日には死んでしまい、そしてそこでこの小説は唐突に終わってしまう。私たちはそこに、奇妙な辻褄の合わなさを感じてしまう。

無辜の人間が不当に拘禁されることがあるということが言いたいならば、なぜ、アンドレイは、不当な拘禁と戦う人間らしい場をほとんど与えられないまま頓死させられるのか。なぜ、ここに至るまで、あえて彼の人間的側面が描かれないままにすまされてきたのか。

私たちはてっきり、それはアンドレイが人間的に魅力のない人物であるからだと考えてきた。彼は当時のロシアの知識人の批判的カリカチュアなんだろうと思った。読者にそう思わせるべく、チェーホフは周到に構成し、語ってきた。私たちは、彼を不誠実で不正直だと思い、次第に嫌いになっていた。そんな彼が六号室へ追い立てられていく様子を冷淡に眺めていた。だから、最後の最後になって急に生き生きと登場してくる人間アンドレイに驚いてしまうのである。

イワンは間違いなく狂人だから、彼が哲学談義でいくらもっともらしく主張しようとも、彼の入院の顛末は、無辜の人間が不当に拘禁されるという一例にはならないし、だからアンドレイの六号室収容も、イワンのそれをなぞった構成ではなく、そのようなテーマではない。

あらためて考え直してみると、アンドレイが善良で正直であるような伏線が冒頭に書き込まれていたが、またチェーホフが人間を忘れてないことがあちこちに暗示されていたが、読者である私たちがそれに取り合おうとしなかっただけであった。

私たちは、知識としてはアンドレイを知りながら、本当の彼を実感することなく冷淡に距離を置いて読んでいたことに突然気付く。

あまりにも長い間、登場人物の登場が引き延ばされ続けたために、もはやこの小説には登場人物の登場は期待できないのではないかと、諦め、冷淡になり、他人事として読み進めていった、その最後の最後になって、突然、生き生きとした登場人物を、チェーホフは鮮やかに描き出してみせる。人間アンドレイの登場を、私たちは目が覚めるような気持ちでじっと見つめる。そのような読解の過程で生ずる「驚き」が文学であり、それを生み出す形式が文学性なのだ。読解以降の解釈は、イワンが狂人だろうとそうでなかろうと、エヴゲーニイがどんな欲望の動作主であろうと、文学とは無関係だ。

私たちは、構成や語りなどの形式を内容理解の足がかりとしているので、最初に形式を見、次に形式を背にして内容を見る。ちょうど、英文和訳をするとき、まず文法を見て、次に意味を見るようなものである。アンドレイがまざまざと生活の実感を取り戻したとき、同時に読者が背中に感じているのは、構成や語りの形式であり、それを原因とする驚きである。

そうでないことは有り得ない、なぜなら、小説の内容はフィクションであり、登場人物は架空の存在であり、現に今ここに実在し実感可能であるのは形式のみだから。

そうやって驚きながら、そのとき、私たちは、人間アンドレイを見ている。そして、自分の驚きと彼の驚きがパラレルであるために、彼が驚いたから、自分も驚いたのだと原因を取り違えてしまうのである。

ここに、内容が小説の価値であるという錯覚が生ずるのである。

最後に、この小説の中で最初から最後まで唯一一貫して人間であったダーリュシカがやってきて、にぶい悲しみの色を浮かべたまま、まる一時間もアンドレイ寝台のそばに立ちつくしていた。

その夕方ちかく、アンドレイは息をひきとった。(了)

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-10-03(Sat) 08:54:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 11

第十二章から第十四章にかけて、アンドレイは「うろんくさげなまざなし」で回りから眺められるようになり、町議会に喚問され、とうとう退職を命じられてしまう。そしてミハイルに強く促されて一緒に旅行に出掛ける。

このミハイルの役割は、ひとつには、アンドレイが、自分への理不尽な扱いと向き合い戦う、生き生きとした登場人物として存在しうる機会を奪い、主体的人間というものに照らして、そのような自然なストーリーの方向性を力ずくで断絶させる。もうひとつには、その上で、アンドレイがミハイルを嫌いになることを通じて、元気で俗物であるミハイルという基準点から、アンドレイがどんどん遠ざかっていくイメージを読者に喚起する。

ミハイルが大いにしゃべり、食べ、朝から晩まで市内を歩き回るほど、それに対照されて、アンドレイの引きこもりぶりが強調されていく。

旅行から帰ると、アンドレイは病院長を解雇されて、エヴゲーニイが後釜になっており、そしてアンドレイにはまるで貯金がないことが明かされる。こうしてチェーホフは、強引にアンドレイを無一文にしてしまい、容赦なく彼を六号室へと追い立てていく。

第十五章の冒頭には、明らかなイメージの変化があるので、ここに分節の区切り目があると考えられる。

病院を追われ、貯金を使い果たしたアンドレイは、ダーリュシカを連れて、町人女の家に下宿することにした。そこには三人の子供がいたが、町人女の情夫が酔っ払って騒ぐ度、アンドレイは泣いている子供たちを自分の部屋に連れてきて、彼らを寝かしてやった。それが彼に、いつも大きな満足をもたらした。

アンドレイが満足したのは、これが初めてであり、特筆すべきイメージの変化である。

念のために繰り返すが、イワンは狂人であり、彼と知的交流をして満足したというアンドレイの言葉は嘘である。そもそもが、アンドレイがイワンを狂人だと認定したのである。そして、この章で、院長を首になったアンドレイがイワンに会いに行くが、イワンは、「一人きりで幽閉されることを願っている」と言って、断固彼に会おうとしない。仮に、今まで正常な自分が拘禁されていることに抗議してアンドレイを罵っていたのだとすると、もはや権力者でなくなったアンドレイにイワンが会おうとしないのはおかしなことである。イワンは狂人でまちがいない。

振り返れば、第九章において、アンドレイはイワンに単に同情したのであり、ただそれを認めると患者の待遇改善をしなければならなくなるので、そう認めることができなかったのではないか。とすると、あの似非哲学談義から、「無辜の人間が不当に拘禁されることがある」というテーマを抽出したことも再考すべきかもしれないが、それはまた後で考えることにして、今は町人女の家で静かに暮らすアンドレイのイメージに集中しよう。

単調で面倒な仕事が、一種不可解な形で、彼の思考を眠らせたので、彼は何事も考えず、時はどんどんすぎていった。台所にすわりこんで、ダーリュシカといっしょに馬鈴薯の皮をむいたり、蕎麦の中からごみを選りだしたりするようなことまでが、彼には興味ふかく思われた。土曜と日曜ごとには、教会へ出かけた。壁際に立って目を細め、賛美歌に聞き入りながら、父や、母のこと、大学、宗教などについて考えた。彼は落ちついた、うら悲しいような気持ちであった。(*12)


 まもなく死に行くアンドレイに対して、チェーホフのまなざしがずいぶんと優しくなっていることに気付く。

不死を信じないと嘯いていたアンドレイは、そして本当は宗教家になりたかったのに、父に強く反対されて医者になり二十年を無為に過ごしたアンドレイは、ここへ来て突然に教会に出掛けるのだ。それに、ダーリュシカである。彼女がどういう理由で無一文のアンドレイに付き従っているのか不明だが、そしてチェーホフはまるで彼女のことを説明してくれないが、こんな短いシーンからでさえ、彼女の優しい性格は、はっきりと伝わってくる。彼女は、この作品で唯一、正常な普通の人間なのだ。

後にわかるように、ダーリュシカは、チェーホフが人間を片時も忘れていないことの伏線である。チェーホフが彼女に台詞を与えないのは、まだここでは生き生きとした人間を登場させたくないからである。

つかの間やさしくなったチェーホフは、けれども、この直後に再びミハイルとエヴゲーニイを派遣して、アンドレイをとことん打ちのめしてしまう。

ミハイルやエヴゲーニイの騒がしい訪問や励ましに対して、アンドレイはとうとう我慢できずに彼らを怒鳴りつけてしまう。けれどもすぐに反省して、翌日にはミハイルに謝りに行く。ミハイルが強く入院を勧め、アンドレイはこう答える。

生涯の終わりにちかく、いまわたしが経験しているようなことを経験しない人は、珍しいといっていいですよ。世間の者があなたに向かい、あなたは腎臓がわるいとか、心臓肥大だとか言い出して、あなたが治療にかかる時分には、また、あなたは狂人だとか、罪人だとかいいだす時分には、つまり、一口にいえば、世間のものが急にあなたに注意を向けかけた時分には、あなたはもう出口のない循環論法に落ちこんだものと、覚悟しなくちゃいけません。出ようとしてもがけばもがくほど、ますます迷い込むばかりです。そうなったら、もう降参するのです。なぜなら、どんな人間の努力も、もうあなたを救うことはできないからです。(*13)


 この悲痛な告白が、けれどもさして胸に迫ってこないのはなぜだろう。

私たちはずっと以前にアンドレイを嫌いになっているし、そして彼の物言いは、この期に及んでも、一般的な哲学談義のような他人事めいた雰囲気に彩られている。彼は作者の薀蓄を語るための操り人形のようにしか見えない。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-10-02(Fri) 08:52:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
登場人物の登場過程 10


第九章と第十章を読んで、私たちは、アンドレイが嫌いになってしまった。そこにはチェーホフの意図があるのだろうとわかっていても、やっぱり嫌いだという自然な感情が消えるわけではない。言葉には理性的な意味と同時に、感情的、生理的イメージが必ず伴うものだし、それを切り離すことはできない。ましてや、文学は、その冗長性のために、実用的文章に比べてずっとたくさんの心的エネルギーを使う。だから風を受けて風車が回り、帆船が進むように、私たちは読解につれ自然とアンドレイが嫌いになってしまうのである。

さて、第十一章には、エヴゲーニイが再び登場するのだが、もし彼が第八章で紹介されず、ここで新しく登場したのであれば、第十章と第十一章の間に、大きな分節の区切りを感じて、ここからしばらくは、新しい別の話が始まるのかなと思うだろう。けれども、第八章でエヴゲーニイが割りと丁寧に紹介されているので、それがその後のモチーフとどう繋がるのかということを、私たちはずっと頭の片隅で気にしてきた。だから、ここで再びエヴゲーニイが登場すると、ちょうど係り結びのように、第八章から第十一章までが、ひとまとまりの分節であるだろうと気付くのである。

すなわち、文章の理解作業が、自動的に、より高次の、物語的視点をある方向に方向付けるのだが、その原理とは、そのような構成が読者にそれを促すのである。

私たちは、第九章と第十章を読んでいる間は、第八章を棚上げして、大権力者アンドレイがイワンをからかっているのを、憤りを持って見るのであるが、第十一章で、エヴゲーニイが、狂人イワンと話しこんでいるアンドレイを盗み見て、「うちの爺さんも、どうやらほんものになったようだね!」とつぶやくのを聞いて、そのような目であらためてアンドレイを見直すのである。

つまりここには二段階の異化が機能していて、冒頭でチェーホフが作り上げた、善良だが意志薄弱であるアンドレイのイメージが、イワンの目を通して、権力者であり抑圧者であるイメージに置き換わり、さらには、エヴゲーニイの視点から、狂人と親密になるような社会規範に背く正常でない者として見直されるのである。

このめまぐるしい視点の変化を掴み取ろうとして、私たちはいっそう身を乗り出して、物語の中に入り込んでいく。それに合わせて、ストーリーは加速度を増し、アンドレイは第十二章で町会議員たちに喚問され、第十三章の冒頭で退職勧告を受けてしまう。

このあと、アンドレイは六号室に向けて追い立てられ、医者から患者へと転落してしまうのだが、その段階的変化のイメージは、大きく三つに分けられる。

第一には、第十二~十四章で、ミハイルとの旅行の顛末が描かれている。第二には、第十五~十六章で、無一文になったアンドレイが、安アパートでぼんやり過ごし、ますます人間嫌いになっていく。第三には、第十七章以降で、とうとう六号室に拘禁されたアンドレイの様子が描かれる。

ところで、アンドレイが本当に精神を病んだのだとすると、彼を登場人物としてリアリティを感じることは困難ではないか。彼が何を言い、何をしたところで、それは病気のせいかもしれないのであり、だとすれば、彼をかわいそうに思うけれども、生き生きとした登場人物として共感することはむずかしい。といって、彼の精神はまったく健康であるのに六号室に収容されてしまうのだと考えると、それにしては、彼はあまりに無抵抗すぎて、生き生きとした人間精神がまるで見られないために、やはり登場人物としてのリアリティがない。

彼はなお、六号室の鉄格子の内部では、ニキータが患者たちを打擲することも、モイセーイカが毎日町をほっつき歩いて、施しを乞うていることも承知している。(*11)


右は第七章の地の文である。アンドレイは、六号室を含む病院内のひどい状況を知っていた。普通なら、決して自分がそこへ入院することを承諾しないだろう。

彼の素直すぎる諦観は、イワンとの会話においては他人事であり、それなりに哲学談義のような体裁を保っていたが、いざ自分のことになれば、まったく話は違うはずである。

なるほど、ミハイルに対して明確に入院を承諾したわけではなく、エヴゲーニイに、騙されて病院まで連れて行かれるのだから、話の辻褄としては合っているようだが、生き生きとした人間らしい人間を描くという点から見て、不自然なのである。彼の言動は、彼自身の主体性の発現ではなく、作者に操られ、構成に従属しているように見える。

脚注・文献

登場人物の登場過程 | 【2009-10-01(Thu) 08:51:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)

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