FC2ブログ
カレンダー
04 | 2011/05 | 06
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
FC2カウンター
ブログ全記事表示
ブログランキング
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | 【--------(--) --:--:--】 | Trackback(-) | Comments(-)
雨の上野公園
雨の上野公園
http://www.youtube.com/watch?v=R98-DNsHE_w



スポンサーサイト
朝野書店 | 【2011-05-28(Sat) 16:18:26】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(8) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/03/27

昔は、アメリカの最新テレビドラマはゴールデンで放映されていたものだが、24は深夜にまとめて放送されただけだった。そういえば、プリズンブレイクもヒーローズもそうだ。ロストにいたっては、深夜にシーズン1が放映されたきりだ。どうやらDVDの発売とかレンタル開始とかに合わせて宣伝のために地上波の放送を利用しているだけのようである。朝野は流行にはまったく疎いのでよく知らないが、24は日本でも大ヒットしたそうである。とすると、そのヒットの中身とは、テレビの視聴率ではなくて、DVDとかレンタルとかの話のようだ。知らぬ間にずいぶん様変わりしたものだ。

一連のアメリカのテレビドラマを見て、アンモナイトを思い出した。アンモナイトは様々な進化の可能性を試して複雑に変化し続け大繁栄した後、あっさり絶滅してしまった。視聴者をその場その場で驚かせることばかりに血道を上げ、そのために様々な技法をどんどん投入して特化し複雑化し続けるアメリカのテレビドラマの大繁栄もまた、現在、非常な爛熟期にあるのかもしれない。

スターウォーズ4で、オビワンとルークが空港近くの酒場でハンソロと商談する。そこは無法者が集まっている場末の安酒場である。こういう場所はかつてあったんだろうな。今もあるかもしれない。行ったことないけどね。そして行ったことないのに、ゴロツキが集まる場末の安酒場というイメージだけは知っていて、それは西部劇にしょっちゅう出てくるからで、それを重ね合わせて、ただちょっとゴロツキどもがエイリアンに置き換えられているだけだと理解する。ホース・オペラがスペース・オペラになり、既存のイメージが繰り返し再利用され消耗していく。もはや、プリズンブレイクの冒頭で女医が登場したら美人に決まってるし、美人女医はなぜかあっという間に主人公に惚れちまうし、そういうお約束は長く描写する必要がない。そこを短く切り上げた分、登場人物を増やし、スリルや意外感を盛り上げるシーンをどんどんぶち込んでいくスタイル。

しかし読者との甘美な共犯意識によるお約束でストーリーを進めていくと、マンネリに堕し、遅かれ早かれ飽きられ捨てられる日が来るのではないか。

たとえば、プリズンブレイク。脱出不可能とされる刑務所からの脱獄ってのはなんども映画化されているわけである。あるいは、脱獄囚の一人はイタリアン・マフィアで、人を殺す前にキリストに祈ったり、やたら家族愛が強かったり、金のためでなく仲間を裏切ったやつへの復讐を優先したり、いかにもな行動を繰り返す。彼の最期は、ゴッドファーザーのテーマ曲でも流れてきそうな雰囲気だった。

けれどもお約束の設定を持ち出しながら、そこを微妙に裏切っていく。ヒロイン然として登場する女性たちは、薬物中毒だったり新シーズンの冒頭であっさり殺されてしまったりする。しかも裏切りが最後に来るのでなく全編全挿話を通じて次々間断なく入れ込まれていく。

たとえば、シーズン2では、主人公に恩のある女が、犯罪に巻き込まれるのは嫌だ嫌だと言いつつ、主人公のために便宜を図ってやる。で結局は犯罪に巻き込まれて、主人公を罵り、敵に接近して金の分け前をねだる、と思わせて敵の裏をかいて銃を奪う、としようとしてすぐにばれて逆に縛られてしまう、とその直前にナイフをすりとって仲間に渡していたため、仲間が縄を切って助かる。敵を縛り上げて脱出し、互いにグッドラックと言い合った後で、女が銃を奪い、主人公に向ける。それは金のためというより嫉妬のためのようだ。けれどもその銃には弾が入っておらず、主人公は彼女にグッドラックと言って去っていく。

彼ら血も涙もないアメリカのテレビ脚本家が、視聴者に媚びるような素振りで持ち出すお約束の数々もまた、それを裏切ってさらに私たちを驚かせるための手段でしかない。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-23(Mon) 21:08:31】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(7) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/03/20

ROSWELL はオープニングのクリップ(youtubeでロズウェルのオープニング映像つきがあったんだけど削除されていたので dido here with me で検索してください)がとてもロマンチックだった。しかしドラマの内容のほうはどうなのか。マックスが逮捕されて、リズも逮捕されて、警官に連れて行かれるときに、二人がアイコンタクトするシーンがあって、なんていうか、共犯意識で結びついてるっていうか、明らかに犯罪を犯しておいて悪びれてないっていうか、そんな感じ、どこかで見たことあるなあと感じた。で結局どこで見たんだか思い出せないままなんだけど、そういう既視感というのは、テレビドラマを見ているときにわりと何度も遭遇するものである。それは悪いだけの経験ではない。きっと以前に見た映画やドラマの感動的シーンが胸に再現されてマンネリが心地よく感じられるときさえある。ウェストサイドストーリーを見るたびに下敷きにされたロミオとジュリエットの切ないイメージが心の底のほうで低く鳴り続けているし、ロミオとジュリエットにしてからが何度も何度も際限なくリメイクされているわけである。マックスとリズの純愛もそのようなパースペクティブの中で見ているから、ロミオとジュリエットを見たときほどの感動シーンでなくても、マックスとリズは純愛なんだ、純愛はロミオとジュリエットみたいに尊いんだ、というふうに視聴者の側で勝手に思い入れを補って楽しめてしまうという側面があると思う。

純愛と言うと思い出すのが昔懐かしバタリアンの名シーンである。ボーイフレンドがバタリアン化して、バタリアンは人の脳味噌を食らうんだが、ガールフレンドに、君の脳味噌をかじらしてくれと頼むわけである。ガールフレンドは一旦は断るんだが、「お願いだ、君を愛してるんだよ」と言われて、うーんどうしようかなーと迷ってしまうわけなんである。

げに恐ろしきもの汝の名は純愛。

ジャパニーズ・アニメだとそういうことがもっとあからさまに行われていて、巨大ロボだのツンデレだの妹萌えだのを持ち出しては飽かず同じパターンをいつまでも繰り返し続けている。

つまり視聴者と脚本家の間で、ツーと言えばカーみたいな共犯意識が形作られていて、前回触れた継母と継子の関係も、視聴者がそれについてどのような価値観や思い入れを持っているかということを予め想定し、それに合わせて既存のよく知られているパターンをお手軽になぞって見せているのではないかと疑われるのである。

LOST の今後の行方は知らないが、そうであっても、ジャックとケイトの恋愛がストーリーの中心に鎮座し、血のつながりのない息子との葛藤が全体のテーマであるといったような展開になるなど到底ありえないようだ。結局、その場限り、ケイトの赤ちゃんの父親は誰だろうと思っている視聴者に対して、実はどっちでもなくてアーロンだったんだよ、どうだびっくりした? と言いたかっただけなんだろうという気持ちが込み上げてくる。たとえ、アーロンが今後重要な役割を演じるのだとしても、この気持ちは変わらない。なぜならば、アーロンが重要だとしても、それはきっと島の秘密との関係において重要なだけであって、ケイトとジャックの愛憎関係とも二人とアーロンの親子関係とも、そしてアーロンの成長物語とも関係ないに決まってるからである。

血が繋がらないと言えば、ROSWELL のマックスとイザベルの双子は養父母と血のつながりがないし、HEROES のクレアもそうである。でもなぜ彼らがそうかというと、マックスとイザベルはエイリアンだからで、クレアも超能力者で、超能力者を研究する会社の社員であるノアに養女として引き取られたのである。

つまり言いたいことは、里子と言うと、少女コゼットとか次郎物語とかを思い出してしまうわけである。そういう不幸な生い立ちの中でけなげに生きる主人公の話があって、そういうのはそういうテーマ性を持っていて、そのテーマ性の顕示のために、主人公がいろいろ辛い目に会うわけである。それに対して、エイリアンや超能力者だから里子に出されましたって、なにそれ? シリアスな問題を安易にパロディ化するんじゃない。全国の現実に苦労している里子と里親に謝れ!

要するに、ここに取り上げられている里子と里親は、それ自体がドラマの中心テーマではない上に、里子と里親問題としては、サブエピソードとしても機能していないのである。そしてにもかかわらず、ジャックが「君の子供じゃない」と怒鳴ったとき、寝巻き姿のアーロンが登場すると、里子里親に関するこれまで見てきたドラマや小説の感慨がはっきり意識化されないまま連想されて、そのシーンに緊迫感を感じて見入ってしまうのであるが、これは本物のドラマではなく本物のドラマ自体からもたらされる感動でもない。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-22(Sun) 21:04:48】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
朝野書店最高経営会議要旨
日本の出版社が電子出版に及び腰で、AMAZONやAppStoreを黒船に喩えて恐れているというニュースを耳にするたびになんでなんだろと思っていた。AMAZONもAppStoreも本屋さんなんだから、紀伊国屋などが脅威に感じるならわかるが、販路が増えるから出版社にとってよい話のはずなのに、とずっと不思議に思っていた。すると今度は出版社が共同で電子書籍の規格を決めたりウェブページを作って電子書籍を販売したりするという。その理由は、来るべきAMAZONなど海外勢の日本上陸に備えてそれに対抗するためだという。なにを対抗するんだろ、と朝野の小さなオツムはますます混乱した。

ふと出版社の仕事ってなんなのか知らないし興味もなく調べてもいないことに気付いた。あらためて考えるに、出版の仕事はたぶん企画だな。KAGEROUはわかりやすい例だが、新潮の100冊とかなんとか100周年記念とかクリスティ・フェアとか、出版は全部出版社の企画会議で通ったものなんだね。だから常に新しい企画を立ち上げて走り続けていないと倒れちゃう感じなんだろう。

一読者の立場で考えると、大々的に宣伝されて売り出されたものは、しばらく様子見して評価が定まってきてから買うかどうか決めればよい。一方、自分の興味の広がりに応じて調べていくと、本当に欲しい本が見つかるが、けっこう絶版だったりすることがあって、せめて電子出版でいいから品揃えしておいてほしいと思うのだが、出版社の仕事は過去の出版物の保全ではなくて次々興行的に新しい企画を打ち出していくことだから、そこにずれがあるんだろう。

電子出版は、出版の興行的・生鮮食品的要素を打ち消す力があると思う。たとえば水嶋ヒロがkindleから自費出版しようとしたら、誰も止めないだろう。ネットやブログで話題になるだろう。レビューがついて、おもしろかったというファンも出てくるだろう。そしてそこそこ売れるかあまり売れないか――そしてそれで終わりである。書評界はだれも取り上げない。ちょこっと芸能ニュースに載るくらいだろう。出版社の出番はまったくない。

出版社の本分は芸能プロダクションのように新しい企画をどんどん売り出してブームを起こして稼ぐ興行師なのだ。だから興行師としての本能が、電子出版を脅威だと感じているのではなかろうか。

しかし興行は永遠に不滅である。きっとやり方が変わるだけだ。ママゴト出版もしくは編集シミュレーションゲームとして大真面目に取り組んでる朝野書店としては、あれだな、リアル出版社の興行の部分をネットゲームレベルでマネっこ小猫すればいいってことだな、結論としては。

んーー。じゃあまず。

朝野書店の本のレビューを書いてくれる人には、該当本のePub/pdfを差し上げます。レビューを書いてくれる本のタイトル、ePub/pdfのどちらか(両方も可)を書いて以下のメールアドレスまで問い合わせてください。ePub/pdfをメールに添付して返信します。レビューはパブーの該当本のコメント欄か外部連携しているツイッター、またはブロログでお願いします。

メールの宛先
asanojuji(ここにアットマーク)gmail.com

反応がない場合はしつこくメールし続けたりブログのコメント欄に書き込んだりしてください。


朝野書店 | 【2011-05-22(Sun) 11:25:18】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(6) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/03/13

これから LOST season4 のフラッシュフォワードに触れる都合上、どんどんネタバレするので注意されたいが、まず島を脱出したケイトに子供がいるという未来のシーンが出てきて、ジャックとソウヤーのどっちの子供かなと思っていると、どっちでもなくて、ケイトはその子供にアーロンと呼びかけるわけである。そしてそこで、ジャジャーンと恐ろしげな効果音がなって、どうだ驚いただろうというしたり顔の監督の顔が眼に浮かぶようである。そうまでして驚かせたいかね。驚かせたいようである。ストーリーがグチャグチャになる危険、テーマ性を毀損する危険、なんかチープ感が漂ってしまうこと必定であっても、どうしてもその場その場で視聴者を驚かせたくてそのためにはどんな犠牲も厭わない決意のようである。

アーロンはクレアの子供である。クレアは、アーロンを生む前に占師に大変不吉な子供だと言われる。そして経済的理由から養子に出そうと思っていたのだが、飛行機事故で島に不時着して、そこでアーロンを生むわけだ。

島では英雄だったジャックは、脱出後、薬物中毒のだめ男に転落している様子で、いっときはケイトと一緒に暮らしていたようだが、その後また別れて、その後また腐れ縁が続いて、ケイトの自宅に招待される。そこで口論になって、子供のことを大事に考えてほしいというケイトに対して、おまえの子じゃないとジャックが怒鳴って、そこへ、寝かしつけたはずのアーロンが寝巻き姿で縫いぐるみを抱えて登場する。ケイトは即座にアーロンに駆け寄って、優しい言葉をかけて再び寝かしつける。

いったい、この奇妙なシーンの目的はなんであるのか。

クレアはどうやら死んだようだが、その子供を育てようというケイトの意志は善良なものだとして、それをジャックとうまくいかないことの理由にするのは身勝手ではなかろうか。そして、ジャックの物言いもどこか奇妙で、アーロンがクレアの子供であることは最初からわかって引き取ってるわけだし、そもそもクレアはジャックの腹違いの妹なんだから、血のつながりという点では、赤の他人のケイトよりジャックのほうが甥を大事に思ってよさそうなもんだ。

けれどもそんな過去の経緯とは無関係に、今まで見た映画やドラマの中で繰り返し取り上げられよく知っている気のする継母と里子の微妙な関係という典型的なドラマのイメージが先に立って、その視点からこのシーンを見ると、アーロンかわいそう、という気持ちだけが込み上げてくる。そして LOST はそんな気持ちを置いてきぼりにして、矢継ぎ早に次々新しいストーリーを展開していくので、過去の経緯とか全体のテーマに照らす時間的余裕のないまま、里親と里子の緊張感だけを感じて、そのまま次のストーリーに意識が移ってしまうのである。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-21(Sat) 21:03:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(5) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/03/06

アメリカの脚本家たちは、視聴者の予測を裏切ることに身命を賭しているように見える。最終話のどんでん返しなど当たりまえで、全話に渡って読者を驚かせ続けないと気がすまないらしい。そのためにはどんなことだってやってやると固く決意している様子だ。まことに彼らアメリカの脚本家たちは、迷いがない、すがすがしい、男らしい、サムライである。

読者は、ストーリーラインに注意を払いながら、次々繰り出されるモチーフがどのように組み合わさるかを常に考えている。あれがこうなってこうなって、これはこういう意味で、だから全体としてこれはこういうお話なんだな、ということが読書行為であり、そしてモチーフは逐次的に投入されていくから、それを順番に解釈し、心の見取り図にマッピングしていく作業は、読書の開始から終わりまでずっと継続して行われ続ける。そのような中で、視点の変化は、解釈変更を指示する赤いランプの点灯である。たとえば、平凡で仲睦まじきスミス夫妻であるということを前提に構築されていた読者の視点は、二人とも殺し屋だったという新しい情報を与えられると、それによって再度根本から組み替え直されなければならない。だから視点の変化は特に読者の注意を引くのである。

HEROESのヒロ・ナカムラはタイムトラベラーであり、また伝説のサムライ、ケンセイに憧れている。彼は偶然、ケンセイのいた、ええっと、たぶん戦国時代だったかな、まあとにかく、サムライの時代へタイムトラベルして、ケンセイに会った。ところがケンセイは、なんとドランカーのイギリス人詐欺師で、ちっとも伝説どおりに姫を助けたり悪者をやっつけたりしそうにないので、ヒロは気が気じゃないわけである。そして彼の代わりに姫を助けて、それを彼の手柄にするのだが、姫がケンセイに感謝すると、なんだか心落ち着かない。妙に鼻の穴のでかいイギリス人がケンセイとして名を残すなどありえないから、そのうちヒロがケンセイになって姫と結ばれ、伝説を作るんだろうな。伝説では姫と結婚した後ケンセイは死ぬので、そのタイミングで未来に帰るのだろう、と思ってると、ヒロに励まされたイギリス人がなぜかやる気出てきて、悪人をやっつけてしまう。ヒロは安心して、自分は帰ると言い出す。いや、そりゃおかしいだろ、ヒロ。とりあえず帰る前に田村英里子にキスしとけと思って見てると、姫にお辞儀してさよなら、とか言ってる。その回、残り数分になってきて、どうも本気で帰るみたいだ。姫に背を向け歩き出す。と、残り時間数十秒で突然振り返って、やっぱりまだ帰らない、と叫んで、もう歳を取ってしまってる、じゃなくて、もう遠くに行ってしまってる田村英里子の背中に向かって走り出す。

なんだよ。びっくりして損した。行ったり来たり、ボーイフレンドの気を引こうとする十六の小娘みたいな手口で、とにかくその場その場で気を引きたいだけじゃん。しかしそうとわかっていても男たちは毎度毎度小娘の同じ手口に引っかかるのである。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-20(Fri) 21:02:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(4) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/02/27

24・シーズン4の冒頭では、ジャックはオードリーと付き合ってるわけである。二人とも顔長いね。金髪青眼のアングロサクソン系ってやつですか。そうゆうなんていうか、歯をむき出して笑うとニンジン食べたそうに見える馬のように美しいオードリーといちゃいちゃしている冒頭なんである。だからこれが結末の裏を取ってるんだとすると、最後にはまた別れちゃうんだろうなという予測が立つわけだ。

案の定、オードリーの夫が登場してくる。オードリーは夫と別居しているが正式には離婚してなくて、だからジャックと交際していることも父親には内緒だ。なにしろオードリーの父親は国防長官で、ジャックの上司でもある。そうすると、冒頭で先にジャックとオードリーの親密な様子を見せられた私たちは、その後にストーカー然として登場してくる夫によくない印象を持つわけである。アメリカ議会でクウェート大使の娘が涙ながらに嘘八百並べ立てて、直後にフセインの写真を見せられたのと同じ手口であり、同じように騙されてしまうわけである。

オードリーは父親の秘書をやっていて、部下のジャックの車で職場まで送ってもらうんだが、そこへ夫が乗り込んできて、オードリーによりを戻そうと迫る。ジャックのことはまだ父親にも言ってないので、それを理由に断るわけにもいかず、オードリーは曖昧な返事をする。そのとき、運転席ではジャックがチラチラバックミラーで後ろを気にするわけだ。

こういう細かく皮肉を利かしたシーンを小まめに入れ込んでいくところがよいと思う。おもしろく感じて後々まで覚えている。オードリーの夫はテロに関与していると疑われ、ジャックに拷問されたりするのだが、結局無実であり、それどころかジャックに協力し、最後はジャックを助けようとして身代わりになって銃で撃たれてしまう。それでも話はまだ終わらなくて、夫の真剣な態度に徐々にほだされていたオードリーは、ジャックを諦め、重症を負った夫の看病のためそばにいることを決意する。そしてまだ話は続いて、このあと、夫の病状が急変して危篤状態になり、緊急の輸血が必要になるのだが、同じころ、テロ情報を知っている男が銃で撃たれ、こっちもすぐに輸血が必要になる。ジャックはテロ情報を聞き出すことを優先させて、オードリーの夫への輸血を後回しにするよう医者を脅す。結果、オードリーの夫は死んでしまい、オードリーはジャックを激しく罵って、彼の元を去るのである。

シーズンの終わりにジャックが恋人を失うのはお約束であり、最初からわかっていた。けれども、そこへ至るまでに、何度も視点が裏返される。オードリーは醒めてるのに夫が付きまとってくるというイメージが最初に喚起されて、しかも夫がテロに関わってるらしいとなって、ところが実は無実で、オードリーが夫とだんだん再接近し始めて、ところが夫は死んで、ところがやっぱりジャックは振られてしまう。

視点の段階的変化は、以前に分析したカラマーゾフの兄弟のリザヴェータの章にもあったし、チェーホフの六号室にも谷間にも、バルザックのざくろ屋敷にもあった。それらは概ね登場人物のキャラを際立たせ、ひいては作品全体のテーマ性を浮き出させる技法であると解釈できた。

けれども24の視点の変化は、私たちにじっくりキャラを味わったりテーマ性に思いを馳せたりする暇を許さないほどに目まぐるしい。なにかのための変化ではなく、変化そのものが目的化しているようである。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-19(Thu) 21:00:45】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(3) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/02/20

海外テレビドラマを見ていると、原題をそのまま訳せばいいものを、そうせずに、なぜかその回の意外な結末をわざわざ邦題にしてバラしてることがしばしばあって、本当に頭にくる。テレビ局か下請けか翻訳家か、いったいだれがバカなのか。バカというだけでは足りない、心底から、死ね! と言いたい。

そう言えば、コナン・ドイルの「まだらの紐」が最初に邦訳されたのは明治時代で、そのときのタイトルがなにを血迷ったのか、「毒蛇の秘密」だったそうだ。昔から日本の翻訳家たちはネタバレに無神経だったのか。ひょっとすると、日本の翻訳家たちは、ストーリーを楽しむことよりも海外文化をキャッチアップするというところに焦点化していて、だから小説を訳すときも結論が手っ取り早く明確に伝わることが大事でそれ以外はどうでもいいんだとか、そういう後進国根性がいまだに抜けてないのかもしれない。よくわからないが、とにかくネタバレ字幕屋ども、おまえらとりあえず死ねよっ!

そんなこんなで、最近アメリカのテレビドラマがおもしろくて、TWENTY FOUR, ALIAS, LOST, HEROES, PRISON BREAKなどなどに触れていくわけだが、このエッセイはストーリーを徹底分析するから、今後も盛大にネタバレ祭りやりますんで、読む人は予め覚悟しておいてください。

まず以って、これらの連続ドラマのセオリーが、二時間ものの映画の典型的プロットとは異なるということ、これはもう何度も言ってきた。つまり「ハリウッド脚本術〈2〉いかにしてスリラーを書くか」という本があって、なんとなく食指が動きそうになるが、しかし、そういうものを読む必要はないと正しく理解できるわけである。プロットの基本形など存在しないからである。

起承転結を気にする意味もなければ、クライマックスで無理やりアクションシーンを入れ込む必要もない。自分がなにをどうおもしろく感じるかということだけを研ぎ澄まして追求していくただそれだけが大事なのだ。

そうすると、プリズンブレイク・シーズン1では、主人公マイケルが死刑囚の兄リンカーンを連れて脱獄を試みるわけだが、そのために同室のフェルナンド・スクレの協力が必要なんだが、スクレは一年少しで出所できる上に、それを待ってくれている結婚を約束したフィアンセがいる。だから脱獄に協力するわけないのである。あるいはまた、模範囚チャールズの協力がどうしても必要になるのだが、彼もまた脱獄の意志がない。

で、結局どうなるかというと、ほんの数話ほどで、二人ともマイケルに協力して脱獄することを決意するのである。それにはそれなりの理由があるのだし、数話と言ったって、1話あたり1時間近くあるわけだから、映画で言えば、ゆうに1本分程度の長さがあり、週一で放送されているのを順に見ていればそれほど違和感はないのかもしれないが、まとめて入手して1日で数本固め打ちならぬ固め視聴を連日続けていると、どいつもこいつも行き当たりばったりで気まぐれだな、という気がしてくるわけである。

遠い昔、遥か彼方の銀河系で、荒井一のシナリオの基礎技術を読んだとき、シナリオの冒頭には結末の裏を持ってくると書いてあって、それだけは妙にいつまでも覚えているのである。

たとえば、時代劇の結末で、素浪人がヒロインを助けるとすると、冒頭には冷淡な彼を持ってくるといったようなことだった。なるほど、ハン・ソロは借金のことばかり気にして最初のうちはレイア姫に冷淡だった。そしてそのような冒頭とハン・ソロが命懸けで戻ってくる結末との対比が、レジスタンスだの騎士道精神だのというテーマ性を浮き上がらせるわけであった。

しかしながら、プリズンブレイク・シーズン1は、全24話かそこらあるわけである。20時間以上の大長編である。そうすると、冒頭の数話で、スクレもワトソンもあっさり心変わりして脱獄に協力してしまうのだが、てことは、このすばやい裏から表への変化は、決してストーリー全体を通じてのテーマ性を浮き上がらせる技法ではない。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-18(Wed) 20:58:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(2) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/02/13

HEROES season2 見終わって、LOST season4 見た。どちらも時間軸グダグダ。ふとアリストテレスの三一致を思い出すが、現代の映像は舞台装置もカメラワークも変幻自在なのでキーとなるランドマーク的モチーフを適宜示すことによって観客が迷わないでいられるということだろう。

時間軸の枷から自由になることで、なにがモチーフの順番を決めているかがあからさまになってくる。つまりシュジェートなんだが、見る者をハラハラドキドキさせて次回も見続けさせようとする、ということに尽きるようだ。朝野の分類では、どちらも連続活劇の血を引くスリラーだ。

HEROESでは、未来予知や時間旅行ができる超能力者がいて、未来のことがわかる。LOST season4 では、未来の出来事を短く挿入していく手法がとられていて、フラッシュバックならぬフラッシュフォワードと言うらしいが、先を見せながらそれがネタバレにならず逆に謎を深めスリルを盛り上げるように機能している。

どちらも登場人物が多い。そして全員がひとつの目標に向かって動いている。たくさんの人間の人間模様を描きながら、すべてがひとつの目標と関連付けられているために、視聴者を迷わせることなくアップテンポな展開が可能になる。

見てる間はおもしろいし次々続きを見たくなるんだけど、見終わったあとにじんわり残るものはあまりない。ま、なんていうか、ちょっとチープなんだね。スリラーを突き詰めていくとチープ感が漂ってきて、人によってはそこが気に食わないかもしれないけれど、それはスリラーの本質的なものの一部だからいたしかたないと朝野は擁護したい。

今はPRISON BREAK season1 見てる。これはほとんど回想シーンがない。まだ season1 の途中だが、これもスリラーって分類でいいんじゃないかなあ。そしてサイファイ要素がない分、チープ感が抑えられている。無実の死刑囚がテーマ性の予感を漂わせている。

ま、脱獄が次々失敗したり凶悪な敵役に追い詰められて絶体絶命のはずが次回であっさり逃げおおせたりとか、そのあたりチープと言えばチープなんだけど、でもそこがスリルなんだから外せないし、だからやっぱりそれをもってチープというのはないものねだりだと思う。

朝野は子供のころからアメリカのテレビドラマが好きでよく見ていた。細かいニュアンスが伝わらないのがかえっていいのかもしれない、だからストーリーに集中できるのかもしれない。でもそれを差し引いても、日本のテレビドラマよりアップテンポでスリルがあっておもしろいと思う。視聴者を楽しませようと一生懸命工夫して作っている感じが伝わってくる気がする。

朝野はそのようなスリラーが好きなので、無意識のうちに影響を受けていたと思う。それで、シナリオみたいな短いシーンのつぎはぎ小説をつい書いてしまっていたんだと思う。

それを欠点だと思って直そうとしていた。でもそれは間違いだった。自分の好きなものをつきつめていくという方向で、アップテンポなスリラー・ドラマのおもしろさを小説でどう表現するかを考えていくべきだった。

ハラハラドキドキするアップテンポな小説。それは、単なるアクションだの生理的な不安や恐怖や驚きだのだけではだめだ。単に主人公への感情移入だけでもだめだ。オカルトや殺人事件や災害だけならインディアナに任しておけばいいんだ。泣けるとかジンとくるとかのキャッチコピーで宣伝される日本のテレビドラマ的小説も好きじゃないんだ。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-17(Tue) 20:56:26】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説に基本形はない(1) ~ 近頃流行りのアップテンポ連続ドラマを眺めつつ

2010/02/06

考えてみれば当たりまえのことだった。小説家がジャンルごとに分かれていて、ミステリ作家がミステリしか書かず、サスペンス作家がサスペンスしか書かず、ホラー作家がホラーを、SF作家がSFを書き続けるのは、それぞれに固有の書き方があるからに違いない。

外科医が精神分析をせず精神科医が歯の治療をできないのは、外科の基礎と精神科の基礎と歯科の基礎が根本的に違うからである。それを十把一絡げに医者で括ってその共通の基礎を考えたところで大学の一般教養課程の域を出るものではない。

共通項を考えて意味があるのは、共通項に意味がある場合だけだ。牛肉もウンコもプリオンも蛋白質が含まれてるから基本的に同じだというなら、牛肉を畑にまいて肥料にし、ウンコをマクドナルドの店頭に並べ、狂牛病は気にしなくてよいということになる。ナンセンスの極みである。

なるほど関連性や親和性の高い分野はあるだろう。心臓外科医も盲腸の手術ならできるだろうし、精神科医だって風邪薬の処方くらいは書けるかもしれない。未読だがクリスティが書いた恋愛小説があるそうだし、ホラー要素のまったくないキング原作の映画を見た記憶がある。だがクリスティはミステリの女王で、キングはホラーの鬼才だと人は言う。

つまりはそういうことだ。

以前考えたように、プロットはテーマによって決まるし、テーマはモチーフのディテールから染み出してくるものだし、そしてモチーフはプロットの制約を受ける。だから、なにを書きたいかを決めずにただ小説を書きたい作家になりたいと思っているだけでは、この三つの相依関係にあるもののどこから手をつけていいかわからず、三竦みになっていつまで経っても思いつかず書き上げることができないのだ。

そしてなにを書きたいかの一番の大枠がジャンルである。仰天の謎を書きたいのか、人間ドラマに重点を置くのか、サイファイが好きなのか、オカルト要素を入れ込みたいのか、それによって書き方がまったく違ってくるのだ。人を泣かせるのか笑わせるのか恐がらせるのかによって、よい文体も必要な描写もいちいち違ってくる。そもそも小説はどれもオンリーワンであり、その小説に合った最適解は一作ごとに違う。ジャンルの大枠から一作品ごとの個別要素までどのレンジで測っても、基本形というものはないのだ。

プロットにまつわる俗説がちっとも参考にならないのは、牛肉とウンコの共通点を抜き出すがごとく、ちっともおもしろさの本質でないありきたりのものを基本と称してなにか重要なことを言ったつもりになってるからだ。

人が、小説とは概ねこうあるべきです、というとき、それは各人の勝手気侭な読書歴の披瀝に過ぎない。彼はそういう傾向の小説をよく読みそれが気に入っているというだけの話だ。

映画が終盤でアクションが大袈裟になるのは、観客に終わりが近いことを告げるためである。クラシックの演奏で、最後にシンバルを鳴らしたり、同じモチーフを三回くらい音を大きくしたり長めにしたりして繰り返すのも同じである。演歌歌手もそういう歌いかたをする。フランク・シナトラもマイウェイの最後に声を張り上げる。ああいうのは古い手法である。観客を同じ時間に同じ場所に集めて見せる見世物の流儀なのである。見終わって親しい人たちと劇場を出た直後に感情のクライマックスが来るように調整してあるのだ。だから、テレビの連続物だと、そういう流儀はなくなる。二時間物の映画のプロットは映画のためのものであって、決してプロットの基本形ではない。

プロットに基本形はないから応用もない。起承転結の応用が起承転転とか言ってるバカは、おそらく自分がなにを言っているのか自分でもよくわかっていない。あるのは作品ごとに異なるそれぞれにふさわしいテーマとプロットとモチーフの相互関係である。

だから、自分はなにが好きかをつきつめて考えなければならない。書きたいものが決まってそれを物差しにして初めてどう書くのが最も有効かを測ることができるのだ。

朝野はSFが好きだと思っていたけれど、実はSFにしばしば描かれる奇想天外で予測不可能なストーリー展開のスリルを楽しんでいた。ミステリが好きだと思っていたけれど、トリックそのものにはあまり興味がなく、ハラハラドキドキしたいだけだった。モダンホラーはサイファイ要素があるから読むけど、死んだ少女の呪いとかそういうたぐいは子供じみててつまらないと思う。スプラッターに傾きすぎたものは心理的恐怖じゃなくて生理的な気持ち悪さに過ぎないから好みじゃない。恋愛物は一切読まないけれど、これはおそらく、恋愛物と銘打った小説にハラハラドキドキ要素があまりないという先入観を持っているからだろう。ひょっとすると、ストーリーに劇的要素てんこ盛りという噂のセカチュウとか恋空とか読んだらおもしろく感じるかもしれない。まあ読まないだろうけど。冒険小説も読まない。アクション自体には惹かれないから。

最近、インディ・ジョーンズの新作が完成したそうで、テレビで旧作をやっていて、チラッと見たけど、まったくハラハラもドキドキもしなかった。だから朝野の定義では、インディ・ジョーンズはスリラーではない。ただのアクション映画だ。

朝野の考えるスリラーは、焦燥感とか苦痛に近い恐怖があってほしい。そしてそれはスプラッターじゃなくて、心理的なハラハラドキドキだ。そのためには、読者に主な登場人物を好きになってもらったほうがよいだろう。彼または彼女には不完全なところがあり短所があるから窮地に陥り、そしてそんな彼または彼女が助かってほしいと思うから心理的にハラハラドキドキするのである。辞書を引くと、ハラハラは「成り行きを危ぶんで気をもむさま」であり、ドキドキは「激しい運動、または不安・恐怖・驚きなどで心臓の動悸(どうき)が速くなるさま」だそうだ。主な登場人物の行く先に気をもんで、それが高じて不安や恐怖や驚きを感じるような小説が書きたい。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-16(Mon) 20:50:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
千と千尋の神隠し
Spirited Away [DVD] [Import]Spirited Away [DVD] [Import]
(2004/03/29)
Daveigh Chase、Suzanne Pleshette 他

商品詳細を見る


2010/06/12

youtubeで英語吹替版の千と千尋の神隠しがアップされていたので、ふと見てみた。著作権にうるさいアメリカのディズニーエンターテイメントが管理しているはずで、だとすればソッコー削除されていいはずだが、なぜか長くアップされたままだ。けっこういい加減というか恣意的というか。著作権ビジネスのいかがわしさの一端を垣間見た。

カオナシって最初から登場してるんだね。カオナシが湯屋に入り込んで千を呼べと大騒ぎするストーリーと平行して、銭婆に追われたハクが怪我をして千尋の部屋に飛び込んでくる。千尋がハクを助けようとして、川の神様からもらった団子を食べさせると、ハクは、銭婆の印鑑と黒い虫を吐き出す。千尋はハクを許してもらうため銭婆に印鑑を返しに出かける。これがメインストーリーだ。ところがこれと平行してカオナシが従業員を食らって巨大化して大暴れするので、そっちに気が取られてしまう。最初に映画館で見たとき、なぜ千尋が銭婆のところへ行くのかよくわからなくて、しかも物寂しい路面電車に乗って降りた先では門灯がピョンピョン飛び跳ねながら迎えにくるし、小さくなった坊とカオナシがなぜかついてくるし、イメージが洪水を起こして、ストーリーを見失ってしまった。

あらためて見てみると、カオナシも川の神様の団子を食べて、ゲロゲロ吐くわけである。そうすると、川の神様が壊れた自転車だのの粗大ゴミを吐き出すことと、カオナシが金に物を言わせて飲み込んだ大量の食い物やらを吐き出すこととが、どちらも、消費社会っていうかその欲望っていうか、そういったものを象徴しているのかなとぼんやり気付く。

つまり複数のストーリーが同時並行して進み、しかもそれぞれのストーリーが完全にひとつに結びつくことなく重層的なメタファーになっているために、一度見ただけではなかなかわかりづらいのだろう。けれども、緊張しっぱなしだった千尋がリンと共に宿舎に着いた途端、腹が痛くなって寝込んでしまうのは、きっと少しほっとして緊張が途切れたからだろうし、ハクにおむすびをもらって、初めはいらないと言っていたのが、食べ始めるととまらなくなり、涙があふれだすところや、ひとりで電車に乗って次第に暗くなっていくときの孤独感は、だれもが子供のときに経験したものだろうし、そのような千尋の感情が直感的・生理的に理解できるシーンが埋め込まれているために、なんかすごくわかる感じがして、また見たくなる。そして二度、三度見るうち、毎度新しい発見があって、複数のストーリーラインがだんだん腑に落ちてくる。

さらには、冒頭の千尋の父親の乱暴な運転に始まって、ボイラー室への急な階段を駆け下りたり、外壁のパイプを伝って最上階の湯婆婆の部屋に向かったり、そしてカオナシとの追いかけっこなどなど、活劇調のスリリングなシーンがたくさんあって目が離せない。

直接結びつかない複数のストーリーを同時並行で描くこの手法、普通ならプロットが複雑になりすぎて観客の気が逸れる危険があるはずのところが、生理的に納得できるシーンや映像的なインパクトを豊富に組み込むことによって、重層的で深みのある独特の味わいを作り上げることに成功している。これはなかなかに余人の追従を許さない名人芸であって、一部だけ真似てもうまくいきそうにない。

2010/06/19

あるモチーフの次に別のモチーフを持ち出すと、読者は両者を対比的に見る。たとえば、中二階のある家では、美人で実際家のリージヤの次に、夢見がちなまだ大人になってないジェーニャが持ち出されて、しかも二人が姉妹であるために、姉妹というひとまとまりのモチーフの中のリージヤとジェーニャが対比的に際立ってくる。あるいは、ざくろ屋敷の勇敢なルイと繊細なマリーの兄弟もそうである。ここで重要なのは、二つのモチーフを対比的に見るための視座が読者に示されている必要があるという点である。そうでなければ、その二つのモチーフの関連がつかめず、無関係なモチーフがバラバラに並べられているだけのように感じられて、意味をつかみ損ねてしまう。

前回の千と千尋のストーリーで言えば、インパクトのある印象深いシーンを次々投入することで観客の気を逸らさないことに成功しているものの、カオナシの大騒ぎと千尋がハクを助けようとするストーリーが同時並行で語られながら、その関連性が直接的でなく、両者を並置して眺める視座の位置が俄かには決められないために、わかりづらくなっているのである。

そして小説では映像ほどイメージの喚起力が強くないから、モチーフの持ち出し方には映像的手法とは違うさらなる注意が必要である。小説は、映像的に次々切り替わるようなモンタージュは苦手なのだ。読者は文章を順に読んでいくから、あるひとつの文とその次の文の関連付けということがまずは重要である。文章のイメージを少しずつずらしながら、ゆっくりイメージを変化させていくのが小説的なモンタージュの基本だろう。大きくイメージを切り替えるときも、前段のキーワードを生かしながら読者の読解のスピードを大きく超えないように注意する必要がある。

たとえば、中二階のある家では、夕闇迫る林の梢に小さな日の名残りを見出すシーンを克明に描写したあとで、中二階のある家のそばに美しい姉妹を見出して、懐かしさに似た気持ちを感じるのだが、そこには日の名残りから美しい姉妹へのイメージの跳躍がある。あるいはまた、ざくろ屋敷では、ざくろ屋敷のそばの豊かな葡萄園の描写のあとで、生命力の尊さを謳いあげるのだが、そこにも具体例から抽象的イメージへの跳躍がある。これらの跳躍が読者のイマジナリーラインを踏み越えることなくうまく成功しているのは、前段で日の名残りや葡萄園の描写が詳細になされ、読者の胸のうちに豊かなイメージが湧き上がったあとで、そのイメージの十分な盛り上がりの上に、それと付加的・対比的に捉えることのできる次のモチーフを注意深く持ち出しているからである。

あるいは、チェーホフの谷間において、結婚式のためにがんばって働いた少女たちが、仕事を終えて帰宅する帰り道で突然泣き出してしまう印象的なシーンがある。どうして純真素朴な彼女たちが泣き出したのかを考えるに、それは貧しい彼女たちが一生懸命働いたのに、グリゴーリーが賃金を支払わず、家の中のいらなくなった粗大ごみを彼女たちに持たせて追い返したからである。つまりこれはグリゴーリーが吝嗇であることを描写するためのシーンなのだなと理解するわけである。まずは印象深いシーンで立ち止まって味わうことがあって、次にそのシーンが他のモチーフとどう関連しているかを考える。具体的には、少女たちの悲嘆とグリゴーリーの吝嗇を並置して見ることができる場所まで読者が自分の視座の位置を移動させるということである。吝嗇だから金を払わず、金をもらえないから一生懸命働いても生活が立ち行かなくてまだ小さな子供が泣いてしまうわけである。そのような視座に立って具体的モチーフを連関させ目前のシーンの意味を確定させるのである。

読者は常に逐次持ち出されるモチーフの関連性を捉えようとしている。関連性を捉えることができないと、意味が確定せず、プロットを把握できず、それがどういう話か理解できずにつまらないと感じてしまうのである。そして小説においては、まず一語一語を順に読んでもらい、一文一文をいちいち理解してもらうところから始めることしかひとつの小説全体を読者に読んでもらうという体験は成立し得ない。だから、とりあえずは、あるひとつの文とその次の文が関連付けられていなければならない。そしてそれはその場限りのつながりでもいいのである。

なんとなれば、読者は、一段落を読めばそこで一段落全体の意味を考え、一章を読み終わればその章のできごとをひとつのものとしてその都度把握しようとしてくれるからである。だから読者は、たとえば、文章的には途切れず滑らかに続くチェーホフの中二階のある家を立ち止まることなく読み進めながら、リージヤとジェーニャの対比的視点を獲得することができるのである。

もっと露骨な例では、以前24のノベライズで発見した「そのころ、テリーの夫ジャックは…」という接続の仕方がある。これは、あからさまにその場限りのものである。その前段で、テリーはテリーの冒険をし、その次に、ジャックはジャックの冒険をして、二つの冒険の間には直接の関係はないのである。それでも、テリーの冒険を読んだあとで、「そのころ、テリーの」とまで読んで、次に「夫ジャックは…」とあると、読者のイマジナリーラインがテリーからジャックの冒険へと途切れることなくスムーズに移行できてしまうのである。





映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-15(Sun) 18:06:34】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
HEROES
HEROES シーズン1 DVD-SETHEROES シーズン1 DVD-SET
(2010/09/08)
マイロ・ヴィンティミリア /マシ・オカ/ヘイデン・パネッティーア/ザッカリー・クイント/エイドリアン・パスダー/グレッグ・グランバーグ /アリ・ラーター/ジャック・コールマン

商品詳細を見る


2010/01/09

HEROESの第21話(ラスト残り10分くらいの辺り)を見ていたら、トルーマンは日本に原爆を二発落として戦争を終わらせた、数千人を犠牲にして数百万人を救った、という台詞が出てきて憤然とした。
爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も6日目までに約半数が死亡、次の6日間でさらに25パーセントが死亡していった。

1月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org...

広島だけで十万なんですけど。何度聞き直しても thousands と言ってる。数千人って当時の在日欧米人の数かよ。てゆうか、本当は自分たちだってそんな与太話信じてないくせに。信じてないけど十万人を数千人とコマメに言い換えて全国放送でプロパガンダを垂れ流すことはやめないわけだ。さらには原爆を投下せず戦争終結が数年遅れた場合、その間に日本軍が数百万人を殺さにゃならんわけだが、日本帝国軍どんだけ最強なんだよ。まったくどこまでも始末に終えない人々である。

キリストは言った、金持ちが神の国に入るよりもラクダが針の穴を通る方がまだ易しい、と。パウロは言った、キリストの復活により、神の国はすでに実現したと。カルヴァンは言った、神に救済される者とされない者はすでに決まっていると。
(ライト牧師の発言)「われわれは広島と長崎に原爆を落として、ニューヨークと国防総省での犠牲者をはるかに越える数十万人を殺している。これ(9.11テロ)はそのしっぺ返しで、米国人によってもたらされたテロだ」
AFP[2008年03月15日 21:32]オバマ候補、所属教会の牧師を批判、問題発言続き
http://www.afpbb.com...

アメリカの名において歴史上空前絶後の無差別殺戮やっておいて、そういう政府を支持したそして今も支持し続けているアメリカ国民が審判の日に天国に行けるわけがない。彼らがアメリカ人でありキリスト教徒である限り彼らの地獄行きは予定調和である。キリストを信じれば信じるほどアメリカが呪われた国であることを信じなければならない。

田舎の無政府主義者たちもハリウッドのセレブたちのチベット仏教への熱狂も、根は同じで、彼らが自分たちの運命から目を背け何とか忘れたいとあがいていると考えるとうまく説明がつく。そして未来を変えようとするHEROESもまた彼らアメリカ人が見る夢である。現実ではない。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-15(Sun) 17:48:57】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ヴィレッジ
ヴィレッジ [DVD]ヴィレッジ [DVD]
(2006/07/19)
ホアキン・フェニックスエイドリアン・ブロディ

商品詳細を見る


2010/01/16

テレビでシャマランのヴィレッジを見た。うーん、期待しすぎだったかもしれない。監督の名前など気にせずぼんやり見てたらもっとおもしろいと感じたかもしれない。たぶん何分かカットしてあると思うんだけど、ラストも主人公が決め台詞をいい終わるか終わらないかのうちにいきなりCMになって、余韻も何もあったもんじゃない。

やっぱ、地上波はだめだなあ。うち、ケーブル入ってないしネットもADSLだし、でもつくづく地上波はだめだと思う。局の都合で映画はズタズタにカットして、野球は延長して、どちらも時代遅れのやり方で、なまじ無料なだけに社会にとても悪影響を与えていると思う。ネットで、たとえ1話100円であってもドラマを購入する気になれないのは、そのうちテレビで無料放送されるかもしれないという気持ちがどこかにあるからだ。違法ダウンロードの罪悪感を減少させているのも無料テレビのせいにちがいない。そのくせ、一度無料で放送して広告で元を取っているはずのどうせ下請けに丸投げして中抜きしただけの番組を、youtubeなんぞにアップすると、たちまち削除しまくる。じゃあ、そういうコンテンツをアーカイブして金を払えばいつでも見れるようにしているのかというと、まったく不十分な対応しかしてない。日本の新聞も古い記事をどんどん削除しまくってるが、比較検証されるとまずいような杜撰な記事ばかり書いてるから、それが後ろめたいんだろう。海外の新聞記事はたいていアーカイブされてるし、訂正する場合も以前の記事を削除するのではなくそれに訂正分を追加している。それが報道機関として当たりまえの態度だろう。

それにしてもちょっとあれっと思ったのは、ヴィレッジの惹句に「スリラー」と書いてあったことだ。確かにホラーにしては怖くないし、ミステリというほどの謎もなく、サスペンスというほど込み入った筋もない。なるほどね。(スリラー好きなので)ヴィレッジの評価が自分の中で+0.5ほどアップした。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-15(Sun) 02:23:10】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小さなバイキング
小さなバイキング (少年少女新しい世界の文学 1)小さなバイキング (少年少女新しい世界の文学 1)
(1967/07/30)
ルーネル・ヨンソン

商品詳細を見る


2008/12/06

村上春樹は、長編の創作は体力勝負だと言ったそうだ。そしてふと思い出すのは、小さなバイキング・ビッケが、目的地まで石を10個運ぶのと、20個を途中の半分の距離まで運ぶのは同じだ、と言っていたことである。ビッケは小さくて体力がないので、その分を機転と粘り強さで補うわけである。ほんに子供のころ読んだ本は人生の滋養である。

児童書 | 【2011-05-14(Sat) 17:36:25】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
こちらブルームーン探偵社
ソフトシェル こちらブルームーン探偵社 シーズン1&2 セット1 [DVD]ソフトシェル こちらブルームーン探偵社 シーズン1&2 セット1 [DVD]
(2007/02/07)
ブルース・ウィリス、シビル・シェパード 他

商品詳細を見る


2008/10/18

むかしむかし、こちらブルームーン探偵社をNHKで放送していた。ブルース・ウィリス主演のテレビドラマだ。でも彼は雇われ探偵で、社長はシビル・シェパード演じる女社長なんだね。女社長は真面目一徹で、ある回で、儲かる仕事が入ったからという理由で、クリスマス休暇を返上して仕事をやるべしと社員に言った。

まあなんというか、「おしん」を見て感動していた延長線上に、クリスマス休暇を返上して、社員がみんなで仕事に取り組むという展開を予想していた私は、ガツンと驚いた。なんと、「クリスマス・キャロル」みたいな展開になって、最後はクリスマス休暇をやめようと言ったクソ真面目な女社長が反省する結末になったのだ。

自分自身の経験を辿ってみると、ずいぶん前のことなのでうろ覚えなのだが、高校国語の模試だったかで、文章の穴埋め問題があって、散々な出来だった。解答を見てみると、その文章は、たぶん江戸時代かそれ以前の日本の職人だったか丁稚だったかの話だったと思う。細かいことはよく覚えてないが、印象に残ってるのは、当時、日本にも限定的な民主主義があった、という主旨の文章だった。ああ、それで間違えたんだ、こりゃわかるわけない、と思ったのを覚えている。私は、この筆者の前提する「限定的な民主主義」というのがわからなかったのだ。だから、現代の民主主義に当てはめて文章を読解しようとして次々失敗していったのだ。「限定的な民主主義」と言っても、奴隷制度のあったギリシア時代の話ではない。江戸時代以前の日本の話である。その時代に民主主義はなかった。いや、あった、とか「限定的な民主主義」があった、とかいう特殊な意見については、前もってそれを説明しておいてくれないと理解できるわけがない。しかしそういう特殊な主張の文章に空欄を作って推理させる問題が全国模試において出題されたのだ。

話が逸れるようだが、小野不由美の十二国記シリーズの中の「図南の翼」に、人間のような言葉を発する妖獣が登場する。こいつは荒野に住んでいて、そんなに知能が高くないんだが、荒野に迷い込んだ人間に対して、オウム返しに人間の言葉を真似して返事するのだ。そうすると、荒野で迷子になって救援隊を待っている人間は、てっきり救援隊だと勘違いして、そいつの方へ走り出す。そしてそいつに食われてしまうわけだ。詐欺って、そうだよね。オレオレ詐欺とか。結婚詐欺とか。相手が熱望しているところへどうとでもとれるような意味不明のことをブツブツつぶやいてると、勝手に誤解して罠に落ちてくれるわけだ。

つまり、読解には前提となるコモンセンスがある。だから政治家が曖昧模糊な公約をブツブツ言ってると、選挙民が善意に誤解して投票してくれるわけだ。そしてコモンセンスは時代と共に変化していく。たとえば、ジュラシックパークでは、恐竜を恐ろしいものとして描く部分が残っていたけれども、ジュラシックパーク3では、ハンターが凶暴な恐竜を銃で撃とうとすると、弾丸が抜かれてあるのである。そして密かにハンターの銃から弾丸を抜いておいた側の人間に寄り添って話が進むのである。グリーンピース史観ってやつですか? 絶滅種である恐竜を守ることがすべてに優先するわけだ。だから、恐竜映画なのにちっとも恐くない。そういう毒気皆無の気の抜けた映画がハリウッドで目立つようになってずいぶんになる。リベラリズムは、偏屈な旧体制の連中に差別され罵倒され拷問されて初めて輝くものであり、ミシシッピー・バーニングとかね。そうではないワサビ抜きのリベラリズム映画は見ていて欠伸が出ますな。ライオンと魔女では、敵を殊更醜く描く一方で、戦闘での流血シーンを自主規制してカットしている。主人公が敵に剣を振り下ろす直前でシーンがカットされて次のシーンへ流されてしまうわけで、映像表現として非常におかしい。

話を戻して、結局なにが言いたいかというと、読解の前提となるコモンセンス、それすなわち大方の読者の読解戦略の重要な指針なわけだが、それに沿ってモチーフを並べ、それに背く場合はきちんと理由を説明しておくってことが、イマジナリーラインを途切れさせないために重要じゃないかってことですね。先の国語模試と同じで、作者がおもしろいと思って読者がつまらないと思うのは、作者と読者でコモンセンスがずれていて、読者がにわかには理解できないことを前提とするからだね。

図南の翼 十二国記 (講談社X文庫―ホワイトハート)図南の翼 十二国記 (講談社X文庫―ホワイトハート)
(1996/02/02)
小野 不由美

商品詳細を見る


ジュラシック・パーク [DVD]ジュラシック・パーク [DVD]
(2006/04/19)
リチャード・アッテンボロー、サム・ニール 他

商品詳細を見る


ジュラシック・パーク IIIジュラシック・パーク III
(2002/02/08)
サム・ニール、ウィリアム・H・メイシー 他

商品詳細を見る


ミシシッピー・バーニング [DVD]ミシシッピー・バーニング [DVD]
(2009/04/24)
ジーン・ハックマン、ウィレム・デフォー 他

商品詳細を見る



ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女 [DVD]ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女 [DVD]
(2008/04/23)
ジョージー・ヘンリー、スキャンダー・ケインズ 他

商品詳細を見る


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-14(Sat) 17:31:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
らきすた

2007/08/18

「時をかける少女」と「パプリカ」のアニメ、続けて見たんだが、「時をかける少女」の風景、どうやら東京都内の実際にある場所を絵にしたらしいのだが、急な坂道とか狭い道とか電線とかがごちゃごちゃ書き込まれているわけである。そうすると、同じ筒井康隆原作の「パプリカ」のほうはかなり記号化されていて、こちらもおそらく東京だろうけど、都会の景色がなんだかお洒落なのである。

電線といえば、「新世紀エヴァンゲリオン」を見たとき、朝の通学風景で、シーンの切り替えか何かのときに、ぐるぐる電線が巻かれたような電柱の先が写っていたのがなんだか印象的だったのである。あんまりそういうの、アニメに書き込むっていうの、その感性っていうの? そういうものはやっぱり昔はなかったと思う。

1970年代とか、どんな時代だったかすっかり忘れてしまったけれども、やはり都市化が進んで、ビルが建ち並んで、それが近代化でいいことみたいなイエローマジックオーケストラ略してイマジョ意識がまだあったと思う。田圃とかは減る運命だし、電線とかは地下に埋められるべきものだし、川辺も海辺もコンクリートで固めるべきだという感覚。

川辺とかをコンクリートで固めるのは、無粋だと最近言われだしたけれども、あるいは、土建屋と政治家が結託して私腹を肥やしたために自然が失われたと嘆くコラムニストがいるけれども、一昔前は、川を埋め立てたりコンクリートで護岸したりするほうが合理的だし快適だという意識が、確かにあったと思う。

手塚治虫が描くような「メトロポリス」へ向けてどんどん都市化が進むのだし、それは避けられないことだし、それどころかそれが進歩的であるという意識。

けれども、先日「らき☆すた」というアニメのオープニングをyoutubeで見る機会があって、http://youtube.com/で「らきすた」で検索すればいくらでもヒットするので未見の方はごらんになればいいと思うし、zombiesもすでにカバー済みなわけだが、印象的だったのは、埼玉の田舎の風景がどんどん出てくることである。最初、4人の女の子が舞台で踊っていて、それからタイトルが出て、その後の冒頭のシーンが、田圃で、遠くに一人だけ女の子が立っていて、なんだか片足を上げて体を揺らしているわけである。奇妙だなと思って見ていると、シーンが切り替わって、今度は神社の前である。鳥居があって、横に古ぼけた民家も見える。そこを鳥居のほうから女の子が歩いてくるのだが、妙に肩を大きく振っているのである。そしてまた画面が切り替わって、田舎の小さな駅の前のようである。人影がなく、駅前のロータリーの横断歩道の手前で、また別の女の子が立っている。今度は踊ってると気付く。ようやく、冒頭の田圃で片足上げていた子も、鳥居の前を歩いていた子も、歌に合わせて踊っていたのだと気付く。次のシーンはおそらく学校の裏門のようである。また別の女の子が踊っている。間奏があって、次は、教師らしき人がこちらを振り返り、次は、婦人警官らしき人が「埼玉県警」と書かれたパトカーの横で大きく伸びをする。次は、家の前で手を振っている女の人。次は、通学路で女子中学生だか女子高校生だかを指をくわえて見ている怪しい男。この辺、癖が付いてしまって、音楽に合わせて見てしまうのだ。

私なんかは、名古屋と埼玉を福岡出身のタモリがしきりとからかっていた時代を知っているわけなんだけど、そういう時代はもう終わったのだ。もはや、名古屋の何がそんなに面白かったのかその金魂巻感覚を思い出すことすらできなくなってしまった。自分の周りに、狭い道があり、電線の絡まった電柱があり、埼玉県警のパトカーがあることを、当然のこととして受け入れる若い世代が今の時代の中心にいるのだ。彼らはそれらをコンクリートで塗り固めたりビルに立て替えたり東京と比較したりすべき古い景色だとは思わない。それどころか、彼らは田圃だの神社だのを新しく発見しているのである。田圃で片足上げるのも、神社の前を歩くのも、ポップな音楽と共にある自然なものとして受け入れるべき風景だと、このアニメのオープニングは主張しているのだ。

2007/08/25

想像力とは、一言で言えば、ルネッサンスなんだね。ルネッサンスとは再発見という意味なんだね。小説の根本はルネッサンスなんだね。

今、目の前にある日本の風景を、理想に向け変えていくべきものとして見るのではなく、親しい日常の風景であり、好ましいものとしてそのまま受け入れてしまう過去を大肯定するマナザシ。そのようなマナザシで日本を再発見してしまう若い人たち。それって、右傾化? みたいな言葉がふと頭を過ぎるわけである。そうすると、国風な遣唐使やめた的平安時代は、右傾化した時代だったのかなあ。そうして、今上天皇がおっしゃるには、皇室の伝統が確立したのが平安期以降だそうである。

さてそこで、皇室の更なる繁栄を祈念しつつ考えを進めるに、芥川龍之介の「羅生門」は、明治精神の反映でもなければ典型でもないのである。ていうかその否定が文学だとイーザーも言っているわけである。大江健三郎が、「小説の方法」だったか「新しい文学のために」だったかで皇室を糞まみれにし戯画化した小説をサンプルとして取り上げたのは、つまりはそういうことである。「戦争と平和」はトルストイが自身近しく感じていた領主階級を結果的に徹底的に異化した、というシクロフスキーの言葉が思い出されるわけである。

朝野が皇室を賞賛すればするほど、右翼の生理的反発を受けること必定なわけである。そしてそれは彼らの生理であり情念だから、論理的合理的なものすべてを論破した後も、いつまでもネチネチと朝野を貶める中傷記事がネットに書き込まれ続けることだろう。早くそれほど有名になりたいものである。しかしそれはそうとしても、革新派の教条主義が思想を硬直化させることがあるのに対して、あえて保守的なマナザシをよそおってみることがかえって再発見の呼び水になるということはあるのかもしれない。たとえば、フォレストガンプがそうである。あの主人公は愛国者であり、口先だけでなくベトナム戦争に従軍して勇敢に戦って、たくさんの勲章を受けるわけである。けれども一方で、自分は足に障害があっていじめられるし、母親は売春婦で、恋人は麻薬に溺れる多情なヒッピーで、ベトナム戦争で上官は両足を失って、故国に帰ってくると差別されて、貧乏な車椅子生活で、戦友はおしゃべりな黒人で、戦死してしまって、けれども律儀に彼の母親に会いに行くわけである。全体としては妙にリベラルな風が吹いているわけである。

時をかける少女 通常版 [DVD]時をかける少女 通常版 [DVD]
(2007/04/20)
仲里依紗、石田卓也 他

商品詳細を見る


パプリカ [DVD]パプリカ [DVD]
(2007/05/23)
古谷徹、林原めぐみ 他

商品詳細を見る


新世紀エヴァンゲリオン Volume 1 [DVD]新世紀エヴァンゲリオン Volume 1 [DVD]
(1997/07/19)
緒方恵美、三石琴乃 他

商品詳細を見る


メトロポリス (手塚治虫漫画全集 (44))メトロポリス (手塚治虫漫画全集 (44))
(1979/01/18)
手塚 治虫

商品詳細を見る


フォレスト・ガンプ [DVD]フォレスト・ガンプ [DVD]
(2006/07/07)
トム・ハンクス、ゲイリー・シニーズ 他

商品詳細を見る




映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-14(Sat) 17:13:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
バビル2世
バビル2世 文庫版 全8巻セットバビル2世 文庫版 全8巻セット
()
横山 光輝

商品詳細を見る


2007/07/28

テーマ性を二人のキャラにそれぞれ背負わせる技法というのは、「ざくろ屋敷」の兄が強い意志を、弟が美しい容姿を母親から受け継いだとか、死にゆく母親と成長する子供たちの対照とかにもあるし、確かシクロフスキーだかバプチンだかが、兄弟が典型的ないくつかの性格を分担していることがあるとか言ってたような気がする。兄弟ってのは、技法なんだよな。ドストエフスキーの「分身」もそういう系列の技法だろうな。読んでないけど。読んだもので言えば、「バビル2世」の文庫本の第五巻の解説で、元バレー選手の川合俊一が、バビル二世とヨミは共に選ばれた者であり共通点があると言っていたが、つまりは、本来はっきりと分けられない善と悪を分離して、ヒーローと敵役に割り振って戦わせることによってテーマを明確化しているという意味だろう。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-14(Sat) 16:57:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
谷間
チェーホフ小説選チェーホフ小説選
(2004/08)
アントン チェーホフ

商品詳細を見る


2007/07/07

「谷間」を読んだ。後半劇的なクライマックスがあって盛り上がった。「ざくろ屋敷」と比較すると、自然描写もあるけれども、工業化していく様子が対比的に描かれている。登場人物が多くて、複数人物のエピソードが重ねられてプロットが展開していく。どの人物も二面性があって、ひとつめのイメージを喚起するエピソードの次に、それと異なる二つめのイメージが登場する。そして結局、そのような多様な側面を並立して持つ人間として読者は受け止めるだろう。けれども「ざくろ屋敷」でも、私たちは読み終わったあと、主人公の美しい生と悲しい死を一体として受け止めるのである。

「谷間」の主な登場人物は、食料品店の主人のグリゴーリーと、後妻、二人の息子夫婦である。「谷間」の一番大きな変化は、当初グリゴーリーの視点で、美人で働き者と見られていた弟の妻のアクシーニアのイメージがヘビが鎌首をもたげるように悪者へと変化していくところだろう。これは経時的変化ではない。彼女は元々そのような面を持った女であったのだ。けれども、最初はグリゴーリーの視点で美人で働き者と描写され、次に兄の妻のリーパの視点で少し恐い人と描写される。ここまでも経時的変化ではない。視点を変えることによって変化の感覚を作り出しているのである。その後、アクシーニアが財産目当てに鎌首をもたげ、最後にグリゴーリーから実権を奪って店も工場も手に入れるのは、なるほど経時的変化であるが、経時的な変化であることが重要なのではない。読者が一定方向に段階的に変化するイメージを受け取っていくようにエピソードが並べられていることがポイントだ。

一定方向への段階的変化のことを、私たちはプロットと呼ぶのかもしれない。


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 16:55:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
夜と霧の隅で
夜と霧の隅で (新潮文庫)夜と霧の隅で (新潮文庫)
(1963/07)
北 杜夫

商品詳細を見る


2007/06/16

北杜夫は「夜と霧の隅で」を書くとき、一度もドイツを訪れなかったそうである。ときとして、作家の空想力がルポルタージュより優れてリアリティを持つことがある。

なるほど、空想のほうがより作者の独自の視点が入り込みやすいのかもしれない。なぜかというと、私たちは現実に現実のものを見るとき、すでに既成概念に大きく支配されているからである。だから手品師のトリックを見破ることができないのである。現実をどう見るかという枠組みをすでに与えられていて、その枠組みの中でしかものを見ないのであれば、いくら現地に行って名勝を回ったりうまいもん食ったり土地の人と話したりしたところで、単なる観光旅行でしかなく、独自の視点で現地の風土を斬るということはできないわけである。それに対して、自分の知らない行ったことのない町やそこに暮らす人々ってどんなことを考えどんなふうにして生活しているんだろう、と一生懸命空想するとき、自分の知識や経験を自分の知らない環境に当てはめていくから、そこには、自分の本来の人間観や世界観が自然と投影されるわけだ。

外国人が日本文化を語るとき感じる違和感は、私たちとは違う視点でこの国を見ているところからくるのだろう。ふと思い出したが、フランスの女性の社会党党首がサルコジに負ける前に訪日して、日本女性はかわいそうだとかなんとか言ったそうだ。ネットで検索してみると、ウィキベディアに「日本は男女格差社会とするエスノセントリックな批判を行った」と書かれてあった。なるほど、彼女は男女格差に敏感で特にそのような視点から日本を見ているのだなと思ったのである。あるいは、フランス人女性はそうしたことばかり気にするという思い込みが我々の側にあって、彼女のそのような発言ばかりが針小棒大に取り上げられたのかもしれない。正確なところは知らないし今ここでそれが問題なわけでもない。

ポイントは、空想をたくましくすることによって、独自の視点を小説に導入できる可能性があるだろう、というところである。


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 16:52:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
模造記憶
模造記憶 (新潮文庫)模造記憶 (新潮文庫)
(1989/07)
P.K. ディック

商品詳細を見る


久々の更新です。先日ブックオフで見つけたんで、懐かしくなって買いました。105円でした。これは決してディックの最高の短編集ではないのでしょうが、それでも十分楽しめました。
その中の特に一番面白いというわけではない「欠陥ビーバー」のあらすじを紹介しますと、妻に虐待され精神科医にぼられる安月給のしがないビーバーに、「あなたを愛しています」という手紙が届いて有頂天になって返事を書こうとすると、それは妻の策略で、浮気者め、とさらに罵られてしまう。そして再び、別の女性から同様の手紙をもらうのだけれども、彼女が妻の作り出した罠なのか、実在の女性なのか非常に不安であり、何度も手紙のやりとりをして確認し、とうとう会いに行く。何より彼女が妻の罠でもなく自分の作り上げた妄想でもなく、実在することが肝心だと考えているビーバーの前で、その女性は三人に分裂し、そのそれぞれが魅力的な女性だった。彼女たちはますます強く実在し始め、おしゃべりし続け、一方で、ビーバーのほうはだんだん実在しなくなって、影のように消えていく。
あまりうまい要約とは言えませんね。とにかく、非常に実験的な作品で、にもかかわらず面白く、そして「現代人の存在の不安」というやつが素直に伝わってきます。実験といえば、純文学こそが最も前衛的な実験を行える場であるはずですが、そういった実験はすべて何十年も前にSF作家たちがすっかりやってしまったのかもしれません、しかもずっと面白く。
100年後、古典として残るのは、凡百の現代文学ではなく、フィリップ・K・ディックかもしれません。


2007/03/03

逃避シンドローム(模造記憶、P・K・ディック、新潮文庫、1989)
  1. 深夜の高速道路で、ジョン・クパチーノはスピード違反で警官の尋問を受ける。彼はガニメデの植民地から地球に来て間もないらしく、何もかも非現実的に見える病気で、精神科医の治療を受けているらしい。警官は、ジョンがガニメデに自生する麻薬の一種、フロヘダドリンの中毒で、今もガニメデにいて地球の幻覚を見ているという妄想に捕らわれているのではないかと言う。するとジョンは、車の計器盤に手を突っ込んで見せる。手首までが計器盤を突き抜けて消えた。警官は不安になり、ジョンの掛かりつけの精神科医、ドクター・ハゴビタンに電話する。ジョンは、どういうことかそのわけはわかっている、妻のキャロルが死んだせいだ、とつぶやく。

  2. サンノゼの下町にあるドクター・ハゴビタンの診療所で、ジョンは、キャロルを殺すんじゃなかったと言うが、ドクター・ハゴビタンは、キャロルは生きている、ロサンゼルスで暮らしている、キャロルを殺したというのはジョンの妄想だと言う。そしてキャロルの住所をメモして渡し、キャロルに会いに行くよう勧める。

  3. ジョン曰く、ジョンは以前ガニメデの六惑星教育企業で働いていた。ガニメデで反乱が起ころうとしていて、それに六惑星教育企業が関わっていた。キャロルはジョンへの憎しみと個人的虚栄心から、それを新聞社に漏らそうとした。ジョンはそのことで腹を立て、レーザー銃でキャロルを殺し、その後地球にきた。ドクター曰く、それは妄想だ、ガニメデでジョンがキャロルを殺したと思っているその夜その現場にキャロルはいた、だからキャロルを訪ねて話を聞け。

  4. ジョンはキャロル宅を訪問する。キャロルは言う、2014年3月12日、ガニメデのニュー・デトロイトGにある高層アパートで、ジョンはキャロルを殺そうとした。理由は、キャロルが離婚調停の裁判で到底受け入れられない経済的条件をジョンに突きつけ、ジョンがそれを断ると、反乱計画を新聞社にばらすと脅迫したからだ。ジョンはレーザー銃でキャロルを撃ったが、外れた。キャロルは逃げ出し、ジョンは逮捕され、心神喪失だったとして、強制的に精神科の治療を受けることになった。

  5. ジョンがなぜ自分はキャロルを殺したと記憶しているのだろうと聞くと、キャロルは言う、六惑星教育企業のドクター・エドガー・グリーンがそのような偽記憶を植えつけたのだと。理由は、反乱計画のことをキャロルに話したのはジョンであり、そのことで自分を責めて、ジョンが自殺することを恐れたためだ。ジョンはその後すぐにガニメデを離れ地球に向かうが、その旅行の途中で自殺を図った。そのときの新聞記事の切抜きを持っている。キャロルはそう言ってその新聞記事を取りに部屋を出て行くが、ジョンはそんな新聞の切り抜きなど見つかりっこないと思う。キャロルが戸惑った表情で戻ってきて、ばつの悪そうな表情で、新聞記事をなくしてしまったと言う。

  6. キャロルは流星会の取締役会長のコンサルタントの仕事をしていた。流星会は持ち株会社で、六惑星教育企業もその傘下にあるという。キャロルは自分だけ朝食を食べ、ジョンには何も勧めなかった。ジョンは、自分がガニメデの牢獄か精神病院にいると考える。病院食をキャロルの朝食だと思い込み、看守か看護人をキャロルだと思い込んでいるのだろう。ただしドクター・ハゴピアンは実在する自分の精神科医だろう。

  7. ドクター・ハゴピアンから電話がかかってくる。ジョンは、自分がガニメデにおらず、地球の自由な市民なら、治療を拒否できるだろうと言うが、ハゴピアンは、妻殺害未遂の罪で精神療法を受ける義務があるからだめだと答える。ジョンは、キャロルが六惑星教育企業の親会社に雇われていることがわかった、彼女は自分を見張るために雇われていたのだろう。自分がキャロルに反乱計画を話してしまったため、信頼できないということになり、キャロルに自分を殺させようとしたが失敗し、関わったものはみんな地球の当局に処罰されてしまった。キャロルだけは六惑星教育企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れたのだろう、と言う。ハゴピアンは、一応もっともらしく聞こえるが、反乱は実際に成功したのだと言う。キャロルも、反乱が失敗したというのはジョンの妄想だと言う。ジョンが片手を伸ばすと、手がテレビ電話のスクリーンの中に入って消えた。この幻覚システムはよくできているが十分ではない、とジョンは思う。ジョンはハゴピアンの治療を打ち切ると宣言するが、ハコピアンはそれはできないと言う。ジョンは電話を切り、彼は嘘をついていると言う。

  8. バークレーにあるアパートに戻ると、ジョンはガニメデの六惑星教育企業のドクター・エドガー・グリーンに電話した。ジョンはグリーンに見覚えがなかった。グリーンは反乱計画に関わっていたと認めた。ジョンはグリーンに、反乱計画を守るため自分の頭に妄想を埋め込んだのではないかと問う。グリーンはそのようなことは(技術的には可能だが)やってないと答える。ジョンは会社での心理療法の記録ファイルを送ってくれと頼み、グリーンはビデオ回線で地球に送ると答える。しかしその後で、ジョンは、六惑星教育企業なら容易にファイルを改竄できると気付く。夕方届いたファイルには、妄想を埋め込むような治療を行った記録はなかった。ファイルが改竄されたか、キャロルが思い違いまたは嘘をついているのか。ファイルは手書きであり、その筆跡を分析すれば、三年前の反乱当時に書かれたものかどうかわかる技術があるので、ジョンはカリフォルニア大学の言語学者に電話して、鑑定を頼んだ。

  9. スピード違反で尋問を受けたとき、警官がフロヘダドリンの常用者であると自分を疑ったのは、実際にそのような症状を呈していたからではないか、もしかすると幻覚の世界を維持するために、フロヘダドリンを食事に混ぜて投与されているのかもしれない、とジョンは考えた。それをはっきりさせるために即刻血液検査を受けるべきだと考え、検査設備のある勤務先に向かおうとするが、不意に、自分がどこに勤めているかわからないことに気付く。ハゴピアンに電話すると平然とジョンの勤務先を教えてくれる。ジョンは、キャロルはやはり死んだのであり、自分は狭い場所に閉じ込められていると訴える。ハゴピアンは、ここが幻覚の世界なら血液検査も大学に筆跡鑑定を頼んだファイルも幻覚かも知れず、意味がないと言う。ジョンは、ハゴピアンが筆跡鑑定については知らないはずだ、だからこの世界は現実ではないとハゴピアンの矛盾を指摘する。さらに、キャロルをもう一度殺してみることによって、幻覚か現実かわかると言う。

  10. ハゴピアンは、いくつか隠していたことがあると言う。反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。戦況は芳しくなく、非常食で生き延び、後退し続けている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームであり、密告したキャロルもガニメデの牢獄にいる。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。

  11. キャロルは、ケチな個人的恨みから反乱計画を挫折させ、ガニメデ全体を憎むべき負け戦に陥れたのだ、とジョンは思う。ジョンは箪笥からレーザー銃を取り出し、タクシーを呼び、ロサンゼルスのキャロルのもとへ向かう。

  12. ジョンはハゴピアンのオフィスで、ロサンゼルス・タイムスを読んだ。再度キャロルを殺したというはっきりした記憶があるのに、ロサンゼルス・タイムスにはそれが載っていなかった。ハゴピアンは、暴力沙汰を避けるため、ジョンをキャロルに会わせなかったと説明する。そしてジョンが見ている新聞はロサンゼルス・タイムスではなく、ガニメデのニュー・デトロイトG・スターだと。それでもジョンは、自分は確かにキャロルを殺したと言い張る。ハゴピアンはテレビ電話にキャロルを呼び出し、ジョンと話をさせる。

  13. ハゴピアンに説得され、車で自宅に帰る途中、ジョンはもう一度やってみることはできると気がついた。おれはいつも失敗する運命にあるということにはならない。ジョンは再びロサンゼルスに向かうことにした。おそらく今度こそ反乱は成功するだろう。そう思いつつ、自分の理屈にどこか欠陥があるようだとも思うが、それを指摘するには疲れすぎていた。おかしい、なぜ新聞にキャロルの殺害の記事が載らなかったのだろう? ジョンは車を自動運転に任せ、目を閉じた。車は時速160マイルで、ジョンがロサンゼルスだと信じている方向に、そして妻が眠っていると信じている方向にむかって勢いよく走っていった。

さてそこで逃避シンドローム、短い作品なのに要約しようとするとなぜか長々しくなってしまうのは、状況を変化させる動的モチーフが非常に多いからだ。いや、一般的にいうところの動的モチーフとはちょいと異なっていて、いくつものストーリー候補が重ね合わせられ、一行ごとにどっちがメインかがくるくる変っていくのだ。

まず、基本的な設定としては、三年前、ガニメデは地球に対する反乱を計画していた。多くのガニメデ人が愛国的立場から反乱計画に協力していて、ジョンもその一人だった。ジョンは反乱計画を妻のキャロルに話してしまうが、その後キャロルと関係が悪化して、離婚することになって、キャロルは離婚調停を有利にするため、反乱計画を新聞に売ると脅迫する。ジョンは憤ってキャロルをレーザー銃で射殺しようとする。

第一のストーリーは、ジョンはキャロルを射殺し、裁判で心神喪失が認められて、精神科医に定期的に治療を受けるということを条件に、地球に行き、そこで一般市民として暮らしている。ガニメデの反乱は成功している。

第二のストーリーは、ジョンはキャロルの殺害に失敗し、キャロルはロサンゼルスで暮らしている。ジョンは反乱計画をキャロルに話してしまってガニメデを危機に陥れた自責の念から自殺の恐れがあり、ガニメデの彼の職場の精神科医が、キャロル殺害に成功したという偽の記憶を植えつけた。それ以外は第一のストーリーと同じ。

第三のストーリーは、キャロルはジョンの監視役としてジョンの勤務先の親会社から秘密裏に派遣された女である。ジョンがキャロルに秘密を漏らしたため、キャロルはジョンを殺害しようとするが失敗。また、ガニメデの反乱も失敗して、ジョンを含む反乱に関わったものは地球の当局に逮捕された。ジョンは今、ガニメデの牢獄か精神病院の中で幻覚を見ている。ただし、キャロルは反乱に関わっていた企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れた。

第四のストーリーは、反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームであり、密告したキャロルもガニメデの牢獄にいる。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。

2007/03/17

「逃避シンドローム」は、まず基本的な設定としては、三年前、ガニメデは地球に対する反乱を計画していた。多くのガニメデ人が愛国的立場から反乱計画に協力していて、ジョンもその一人だった。ジョンは反乱計画を妻のキャロルに話してしまうが、その後キャロルと関係が悪化して、離婚することになって、キャロルは離婚調停を有利にするため、反乱計画を新聞に売ると脅迫する。ジョンは憤ってキャロルをレーザー銃で射殺しようとする。

第一のストーリーは、ジョンはキャロルを射殺し、裁判で心神喪失が認められて、定期的に精神科医の治療を受けることを条件に、地球に行き、そこで一般市民として暮らしている。ガニメデの反乱は成功している。

第二のストーリーは、ジョンはキャロルの殺害に失敗し、キャロルはロサンゼルスで暮らしている。ジョンは反乱計画をキャロルに話してしまってガニメデを危機に陥れた自責の念から自殺の恐れがあり、ガニメデの彼の職場の精神科医が、キャロル殺害に成功したという偽の記憶を植えつけた。それ以外は第一のストーリーと同じ。

第三のストーリーは、キャロルはジョンの監視役としてジョンの勤務先の親会社から秘密裏に派遣された女である。ジョンがキャロルに秘密を漏らしたため、信用できないということになり、キャロルはジョン殺害を命じられるが失敗。また、ガニメデの反乱も失敗して、ジョンを含む反乱に関わったものは地球の当局に逮捕された。ジョンは今、ガニメデの牢獄か精神病院の中で幻覚を見ている。ただし、キャロルは反乱に関わっていた企業の正式な社員ではなかったので処罰を免れた。

第四のストーリーは、反乱計画をジョンがキャロルに話し、キャロルが新聞に密告したため、反乱は完全には成功せず、地球との対立が続いている。ジョンの幻覚は、自責の念に駆られたジョン自らが作り出した逃避シンドロームである。ガニメデにおいて、ジョンは処罰されず、密告したキャロルは牢獄に入れられた。ジョンはキャロルに会いに、ロサンゼルスではなく、ガニメデの刑務所に行ったのだ。

四つのストーリーのどれが正しいともどれが幻覚ともはっきりしないまま話が終わってしまう。つまりこの小説は、あるひとつの物語内容を、効果的に読者に印象付けるために物語言説化したのではない。そもそもディックは物語内容にまるで興味がないように見える。でもそれは、特に珍しいことでもないし、SFならではのことでもない。

小説とは、複数の異なる視点を順番に読者に提示していくものだ。これは当たりまえのことだし、小説の書き方本にもしばしば書かれてあることだ。けれども、それを本当に自覚して小説を書いていくことはとても難しいことだと朝野は思う。作者は、読者が読む順番と同じように小説を冒頭から少しずつ書いていく場合であっても、読者よりもずっと多くのことを知っている。ここでは悲しんでいる美女が実はちっとも悲しんでないくて陰謀を企んでることや、元気な若者が次の章では死んでしまうことを知っている。だから(朝野のような)シロウト作家は、ついそれが行間から滲んでしまって、微妙にネタバレしてしまう。キャラの書き分けみたいなわかりやすい例だけじゃなくて、テーマについても、結末の衝撃的イメージについても、作者がそれを重要だと思ってるほど、すべてのシーンに無意識のうちにそれをにじませ、それと矛盾しない表現を選んでしまう。結局、完成後に読者が読むと、同じテーマ性やモチーフの解釈が各章に同じように表れてきて、平坦だと感じてしまうのだ。プロの作品はそれとは全く違う。ダイナミックな変化が読者の読解の順序に合わせて示されている、その当たりまえだがそれゆえに自覚しづらいことが、ちゃんとできている。

まず目に付くのは、はっきりした真相なんかないにもかかわらず、伏線が丁寧に小出しにされているところである。冒頭ではキャロルが死んだとだけ記述され、次に、殺した、となり、中盤でようやく殺意を抱いた理由が紹介されるが、まずはキャロルの個人的虚栄心から反乱計画を新聞社に売ろうとした、とあり、その後でようやく、離婚調停で揉めていた話が出てくる。そしてキャロルに反乱計画を話してしまったのはジョンであり、ジョンがそのことに強い自責の念を持っていることが明らかになる。実はキャロルがジョンを殺そうとしたのだという新たな仮説が提示され、ジョンの疲労困憊する様子が長く描かれた後で、最後の最後に、「キャロルは、ケチな個人的恨みから反乱計画を挫折させ、ガニメデ全体を憎むべき負け戦に陥れたのだ」と、ジョンの義憤が述べられる。そして最後まで読んでみると、どこまで幻覚なのかは別として、ジョンの激しい憤りが読者の心に強く伝わってくる。

ジョンは、キャロルと会っている間は、キャロルが美しいとか自分には朝食を用意してくれないとかブツブツ言っていたのである。キャロル殺害の動機よりも、これが現実か幻覚かを見極める判断材料としてキャロルを見ているようだったのである。ところが、結局現実か幻覚かは捨て置かれて、元妻を激しく憎み同時に自分を責め続けるジョンのどろどろした憤怒がラストに湧き上がってきて、それがこの構成の戦略だったのだろうと気付く。

タイトルからも明らかなように、この構成は、自分が認めなくない事実を少しずつ認めていく過程をなぞっている、いや、正確には、自分が認めたくない事実を少しずつ認めていくときのあの嫌な「感じ」をなぞっているのだ。事実ではなく、事実の「感じ」を読者に伝えることこそが小説の目標であるのだ。

2007/03/24

名探偵は事件の真相を追及することによってプロットを展開させるが、ちょうどそのように、ジョンもこの世界が現実なのか幻覚なのかということにこだわり続け、それを追求し続ける。しかしてその過程から伝わってくるものが小説のテーマ性であり、真相の暴露それ自体は小説の戦略という視点から見てそれほど重要ではない。

すでに要約した1~4の四つのストーリーは、そのような順序で読者に示されるのだが、この順序を見ていくと、一番目では、キャロルに反乱計画を話してしまったものの、その代償としてキャロルの殺害に成功している。二番目では、それすら失敗してしまう。三番目では、ガニメデの反乱自体が失敗してすでに地球に降伏している。四番目では、反乱が中途半端に失敗して、地球との消耗戦が続いているが、ガニメデに資源が乏しく、兵糧攻めされていて勝目のない様子が描かれ、そういった意味では、完全な失敗よりさらに救いのない状態だとも言える。つまり状況のイメージがどんどん悪化し続けてるんだね。そういう方向への一貫したイメージの変化が描かれているのだね。

もしもこの四つの中から選べと言われたら、四つ目が真相なのかもしれない。ガニメデの救いのない状態から逃げ出したい、ガニメデの救いのない状態を作り出したキャロルを殺してしまいたい、しかし本当は、なにより、キャロルに軽はずみに反乱計画を話してしまった馬鹿な自分自身から逃げ出したいのだろう、ということが、最後になって読者に伝わってくる。最後に本人が独白するとおり、ジョンは何度やっても失敗してしまうのだ。現代の閉塞状況とか現代人の実存的不安とか、そういったものを連想させる興味深いテーマ性を備えた作品と言えるのではないか。いや、別に現代が閉塞してるなんて感じ、ぼくにはないけどね。そんな鋭い芸術肌の感性があれば、とっくに傑作小説書いてるだろうけどさ。でもまあ、小市民・朝野は、失敗続きのジョンに共感してしまうなあ。

さて、とにかくも、この取っ掛かり皆無の取り付く島のないように見えた小説が、四つのストーリーを語る四つのパートから成るということがわかったのは、良かった。これを手掛かり足掛かりとして構成を分析して行こうではないか。そうすると、ひとつ目と二つ目のストーリーでは、共に車の計器パネルやテレビ電話のモニタ画面に自分の腕が突き刺さってしまうという不可能事が起こってしまう。だから読者はこれが幻覚で、幻覚を暴こうとする方向にストーリーが進んでいくんだろうなと思う。キャロルは腹を空かしたジョンに食事を勧めることを思いつきもしないし、ドクター・ハゴピアンは、ジョンが治療を拒否すると言うと大いに慌てる。ジョンが自殺未遂したという新聞記事は見つからない。ここまでは、ジョンが外側の世界を追求する体裁が守られているのだが、三つ目では、ジョン自身が自分の勤務先の名前や住所を思い出せなくなってしまう。また、血液検査をするべきだと思いつきながら、なぜか尻込みしてしまう。四つ目に至っては、ハゴピアンが、ここはガニメデで、ジョンは幻覚を見ている、と認めたにもかかわらず、ジョンは、地球の自宅近くからロサンゼルスへ向けて車を走らせていく。ジョンの周囲の世界が幻覚か現実かと考えているうちに、いつのまにかジョン自身が信用できない語り手へと変容していってしまうのだ。ここがミステリと違うSFの醍醐味だ。

2007/03/31

「逃避シンドローム」の構成について改めて考えてみると、結局のところ、第四のストーリーが一番耐え難いわけである。ガニメデは敗北必死の兵糧攻めで苦しみながら死につつある。その原因であるキャロルを罰することにも失敗している。そしてキャロルに秘密を漏らしてしまった自分も、心神喪失だか耗弱だかが認められて、無罪放免。そこから逃げるために第三のストーリーが作られたわけである。自分は罰せられ、キャロルはそもそも悪くない。ガニメデは兵糧攻めで苦しんでいるのではなくあっさり負けている。でもそれでもまだ苦しい。そこから逃げるために、偽の記憶を植えつけられた、という第二のストーリーへ。そこからさらに逃げて、地球で一般市民として暮らし、キャロルは殺せている、という最初のストーリーへ。

ストーリーの順に考えると、地球で普通に暮していて、ガニメデの幻覚を見てるというのが、一番ましで、でもなんか納得できない。深層意識から、自分がウソをついているという感じが常に突き上げてくる。そこで、医者から偽の記憶を植え付けられたのだという第二のストーリーへ逃げ込む。それでも逃げ切れない。やっぱり自分は失敗したのだ、それを認めざるを得ない、ただ、ちゃんと罰せられているのだ、という第三のストーリーへ。けれども、最後に、最も見たくないストーリーに直面する。キャロル殺害にもガニメデの反乱にも失敗し、その責任を負うべき自分は発狂して周りから同情されているという第四のストーリーへ。

読者はジョンが何から逃避しているかを考えつつストーリーの変化を追っていく。そうしていくうちに、逃避の感覚それ自体を実感するのだ。



SF/ファンタジー/ホラー | 【2011-05-14(Sat) 16:47:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
Z00
ZOO 1 (集英社文庫)ZOO 1 (集英社文庫)
(2006/05/19)
乙一

商品詳細を見る
ZOO 2 (集英社文庫)ZOO 2 (集英社文庫)
(2006/05/19)
乙一

商品詳細を見る


2007/02/17

たまたま群像2005/10月号を手に入れて、宮崎誉子の名前があった。そう言えば、三島由紀夫賞の選評で、全審査員が好意的だったなと思い出し、読んでみた。最初の一行がこうだ。
あたしは小六で、担任には嫌われている。
(p.258 ガシャポン ガールズ篇、宮崎誉子、群像2005/10月号)

私は石川忠司を読んでないので、彼がなんと言っているか知らないが、確かにかったるさを排除した描写であるように見える。そしてそれはわりとよくあるやり方のような気がする。私は宮崎誉子の冒頭の一行目を読んだ途端、次の冒頭の一行を思い出した。
ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか。
(p.9 カザリとヨーコ ZOO1、乙一、集英社、2006)

現代のある種の純文学が敬遠されるのは、描写がかったるいからである。かったるい描写を読み込んでいっても何を伝えたいのかさっぱりわからんからである。そのわけのわからなさがポストモダンだとかさらに人をバカにしたようなことを言うからである。だから彼らは嫌われるのである。

でもだからと言って、エンタメ風にすればすべて解決なんだろうか。宮崎誉子を初めて読んだが、私はさしていいと思わなかった。ネタバレしますが、ガシャポンでは、小六の語り手の女の子をしつこくデートに誘う教師が登場して、最後に、実は彼はゲイだった、というつまらんオチがつくのである。こんなつまらん中途半端なオチを読ませるために長々ひっぱってきたんかい。

その点、乙一のカザリとヨーコのほうがずっと潔いわけである。こっちもネタバレさせてもらうけど、カザリとヨーコは一卵性の双子なんだが、母親はカザリばかりかわいがって、ヨーコを苛める。それもハンパじゃなくて、カザリはお姫様みたいな格好をさせ、ヨーコは古着を着せられ風呂にも入れないでいつも薄汚れて学校でも苛められてるわけである。この奇妙な設定は、結末で、カザリとヨーコが、ちょうど王子と乞食の話のように洋服をとっかえっこして、カザリをヨーコと間違えた母親が、カザリのほうを殺してしまうのであるが、それを意外な結末とするために、リアリティ皆無の設定やら伏線やらが周到に配置されているのである。

一方で、ガシャポンの結末は、そのようなエンタメ風味におもねるようなそぶりが感じられるものの、意外性も周到な伏線もなく、ただ話を打ち切るためだけに唐突にゲイというものが持ち出されるだけである。冒頭の一行も、似てるのは表面だけで、実は宮崎と乙一ではまったく違っていて、乙一は結末を暗示しているのに対して、宮崎は単にちょっと奇妙な雰囲気を醸し出そうとしているだけにしか見えない。最初の一行は、エンタメならばプロットと結びついてなければならないし、リアリティを重んじるならテーマ性と結びついてなければならないが、宮崎の場合、そのどちらであると考えても非常に不徹底である。

どうもこれでは、エンタメを読み慣れない純文学系の編集者またはエンタメびいきだけど純文学系を担当させられている編集者の気を引くというだけのことではなかろうかと、純文学もエンタメもあまり読んでない朝野は思うのだった。でも問題はそこではなくて、あるべき描写とはなにかということであり、それはモチーフの発見ということであり、小手先のテクニックではなくて、読者にモチーフそれ自体が新鮮だと感じさせなければならない。


ミステリ/エンタメ | 【2011-05-14(Sat) 16:18:27】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ひぐらしのなく頃に
TVアニメ「ひぐらしのなく頃に」スペシャルプライスDVD-BOXTVアニメ「ひぐらしのなく頃に」スペシャルプライスDVD-BOX
(2010/12/22)
保志総一朗、中原麻衣 他

商品詳細を見る


2007/01/27

「ひぐらしのなく頃に」を全話見た。なんとなく雰囲気ミステリ? みたいなつもりで見始めたのだがSF的説明抜きでパラレルワールド的展開が続く。なんだこれ、と思って途中でウィキペディアを見ると、サウンドノベルが原作だそうだ。そうすると、これから「ひぐらしのなく頃に」について語るわけじゃないのだが、というのも解決編の半分がアニメ化されてなくて、結末を知らないからなんだけど、とにかく、サウンドノベル一般が、同じ設定の複数のストーリーを持つそもそもの原因は、手法でも描写でもなくて、ゲームという性質上、選択肢を持っていて、プレーヤーがどの選択肢を選ぶかわらかないから複数用意しておくということが始まりなんだろう。

そこで、去年初めてドラゴンクエスト7をやった程度の朝野の数少ないゲーム経験から推理すると、まずロールプレイングゲームがあって、最初期のロールプレイングゲームは洞窟探検だった。コンピュータ上の二次元の地図を自由に移動して探検するわけですな。そしてある場所には敵がいたり、宝箱があったりするわけだが、どういう順序でどこを探検するかはプレーヤーによって異なるから、複数のイベントが並列的に配置してあるわけだ。一方で、アドベンチャーゲームと呼ばれる系譜もあって、これは、たとえば、目を覚ますと見知らぬ部屋にいて、自分が誰かの記憶も失っていて、部屋から脱出するためにあれこれコマンドを打ち込むわけです、テーブルの上を調べたり、引き出しからライターを取り出したり、手に入れたライターを点火したりする、これも結局、仕組みとしては洞窟探検と同じなわけだ、コンピュータからすれば、プレーヤーの選択に従って「洞窟を移動した」と表示するのも、「ドアを開けた」と表示するのも同じことですからね。

そしてサウンドノベルというのは、ゲームからノベルへ傾斜した日本で流行ってるアドベンチャーゲームの一種らしい。実ははるか昔に、友だちに「かまいたちの夜」を借りてやってみたことあるけど、さしておもしろいと思わなかった。でもすごくヒットした作品らしくて、それ以来たくさん出ているらしい。あと、ゲームブックというのも、自分はやったことないが、マルチストーリーらしい。

コンピュータ・ゲームのマルチストーリーが、「プレーヤーに選択肢を提供する」というところから派生したことは間違いないだろう。そしてその後二つの大きな流れを生むことになったらしいのも当然だ、その二つとは、作者の決めたストーリーラインによってプレーヤーの選択を制限する方向と、複数のストーリーを並立させる方向だ。

たとえば、ドラゴンクエストは、洞窟やらお城やらの空間的移動はたいてい制限なくどこでも行けるが、ストーリーラインは一本道で、作者が決めたイベントをひとつずつクリアしていかないと話を先に進めることができない。これに対して、どうやら「ひぐらしのなく頃に」は、登場する複数人の女性それぞれが主人公格になる複数のストーリーによって構成されているらしい。ネタバレさせてもらいますけれども、主人公の男の子が、「この世界に似た別の世界で、彼女を信じてやれなかった」とかなんとか言うわけである。そうやって読者は、同じような設定のストーリーを複数の異なる視点から何度も繰り返し見せられる。そうすると、「物語」とか「物語の消費」とかの耳慣れない言葉を使う人たちが、ふだん何を「消費」しているのか、おぼろげに見えてくるようである。

いったい、ゲームというものは、目的があり、ルールに従って勝ち負けがあるから面白いのであって、洞窟探検のRPGも、選択肢が自由なのは空間的移動とか装備などだけであり、経験値を高めて敵を倒し宝を持ち帰るのが目的なわけである。それに対して、複数のストーリーが並立してあり、どれを選択するのが正しいとか間違ってるとかではないサウンドノベルは、もはやそのような意味でのゲームとは言えないのではないか。

いや、まあ、何がゲームかゲームでないかは、どうでもいいことだった。私は今「描写」について考えているのであった。複数視点からひとつの事件を見るというのは、小説の描写においてごく普通に使われる手法である。

2007/02/03

古典で言えば、芥川の「藪の中」は複数視点で互いに矛盾するものが並立しているわけである。ミステリで言えば、名探偵ポアロが映画の中で新しい推理をするたび、回想シーンみたいに容疑者が登場して、毎度異なる方法で犯行を行ってみせるわけである。

小説とは描写であり、描写とは発見であるから、小説の各シーンはそもそも矛盾し対立し際立って自己主張しているのである。サウンドノベルは入力に対してリアクションできるコンピュータを使ったゲームから進化して、偶然、複数視点から描写を重ねていくことによってモチーフを際立たせるという小説の一手法に辿り着いたのである。

さらに少し話が飛ぶようだが、日本の小中学校での作文教育が非論理的であるために大学で学生が論理的なレポートを書けないという話を聞いたことがある。だが、現代日本の作文教育は、論理的なレポートを書くときだけじゃなくて、小説を書くときも非常に邪魔なのである。当たり障りのない感想文には主張もなく感性もなく、宿題として出された小説を読んだというアリバイ作りのためだけに書かれた文章であり、外で遊んできた夫の妻への言い訳のごとく無内容で瑣末な辻褄あわせのみに汲々としたものになってしまうわけなのだ。そんな論理性も芸術性もない毒にも薬にもならぬ文章をたくさん書かされた結果、Bという結末を予感しつつAというシーンを書くうち、Bという結末に向けて無意識のうちに一貫性や整合性を取ろうとしてしまって、必要以上にBを匂わせたり、Aというシーンが萎縮したものになってしまったりするのだ。なるほど、よく知っている人を紹介する文章を書くのならば、その人のAという側面だけでなく、同時に、そこにBという側面を書き加えるだろう。そうした書き方のほうが穏当で公平だろう。しかしそれでは小説にはならないのだ。ストーリーの破綻を恐れて描写を弱めてしまっては、小説としてまったく本末転倒なのだ。描写こそが小説だからだ。
(オリガ・イワーノヴナは)夫のほうを顎でしゃくってみせ、自分がなぜ、こんなぱっとしない、ごくありふれた、どこといって取りえのない男と結婚するのかを説明したがっているふうだった。(p.377)
(オリガ・イワーノヴナは)いきなりわかった、あの人はほんとに非凡な、めったにないほどの、自分の知っているどんな人とくらべてもすぐれた人物だったのだ、と。(p.407)
「気まぐれ女」(チェーホフ小説選、チェーホフ、水声社、2004)

チェーホフは短編の最初と最後でいつも違うことを言う。それどころか、最初と途中、途中と途中、途中と結末でもそれぞれまったく違うことを言って平気である。これは自分でやってみればわかることだが、意外にとても難しいことなのである。作文教育で、全体の辻褄が合ってないと厳しく減点されたために、私たちは自分らしい文章や本当の気持ちを自主規制して、言葉をより穏当で意味の広いものに差し替えたり、用語の使い方を統一したりといったことばかりに執心してきた。無意識のうちに後から言い訳しやすいような言い回しを選び、世間に認められた常識的な感傷を付け加えてそれを自分の本当の気持ちを述べた感想だと称してきた。本当はそれこそがウソなんだけど、学校の教師が問題にするのはウソそのものではなくて、形式的な辻褄が合ってるかどうかなんだ、だから辻褄あわせのためにウソをつくことが習慣化しているわけなんだ。そこで改めて、小説としてのウソをつこうとすると、無意識のうちに、辻褄を合わせなければならない、一方的な書き方はしないほうが得だ、といった抵抗感がこみ上げて邪魔してしまうという、非常に情けない救いのないことになってしまってるわけなのだ。

小説では、まずAという側面を描ききって、読者にそのイメージを十分に伝えた後で、おもむろにBという側面をもちださなければならない。読者に矛盾を突きつけ、読者自身が彼の胸のうちにそれを止揚するように仕向けるのだ。これが作文と小説の違いだ。だから、評論家がしたり顔で言うところの「小説は人間を描く」なんて言葉を鵜呑みにしてはだめなのだ。人間を描くのは作者ではなくて読者の仕事なのだ。


映画/ドラマ/アニメ・マンガ | 【2011-05-14(Sat) 16:12:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説の技法―視点・物語・文体
小説の技法―視点・物語・文体小説の技法―視点・物語・文体
(1989/03)
レオン・サーメリアン

商品詳細を見る


2006/10/21

レオン・サーメリアン「小説の技法」(旺史社)には、構成とモチーフの関係に関するおもしろい例が載っている。(p.p.182-187)
「エウリピデスのヒッポリュトス」ヒッポリュトスは狩猟に明け暮れ愛と結婚から逃げていたが、アプロディテーはそれを侮辱と感じて彼の命を奪う。

「アンナ・カレリーナ」既婚のアンナは独身のウロンスキー伯爵と不倫し、世間はアンナを非難する。アンナはウロンスキーと同棲するが、ウロンスキーから以前のようには愛されてないと感じ、自殺する。

「アルメニアの叙事詩の主題となった実話」オスマントルコと戦い、アルメニアのために命を捧げると誓ったキリスト教徒のアルメニア人のゲリラ兵士の男が、イスラム教徒のクルド人の娘と恋に落ち密かに結婚するが、そのことが仲間にばれて、革命法廷で裁かれ、クルド人の娘は死刑を宣告され、男は革命兵士として復帰を許されるために妻の処刑を命じられる。男は妻を射殺し、ゲリラに復帰する。

よくわからない要約をさらに要約したのであれなんだけど、要するに一言で言えば、古いってことさね。特に3番目、ハリウッドでの映画化は不可能だね。夫婦が宗教の違いから殺しあうなんてストーリー、ありえないわけで。いや、実は、これはオスマン・トルコ時代の話らしいけど、現代でも、テロも起こってるしイスラム教徒とキリスト教徒が憎み合い殺しあってるのは事実なんだけど、でも現代小説の構成としては使えないということなんだね。

クルド人の娘をアンドロメダ星人に変えてもだめだろうね。たとえば、ギャラクシークエストでは、主役級の男がタコ型異星人の女と恋に落ちてラストで結ばれるし、タイムラインでは、中世にタイムトラベルした現代の若者が、中世時代の娘と恋に落ちて、中世にとどまりそこで一生を過ごす。今や、ハリウッドには、愛し合う若い二人以上の大義は何一つ存在しないのだ。同じように、2番目も古臭くて、不倫程度で死ぬことはないだろ、と読者は思ってしまうだろう、いや、「アンナ・カレリーナ」読んでませんけど。

つまりね、ぼくがここで言いたいのはね、構成っていうと、技法とか技術とかテクニカルなものって感じだけど、実はモチーフと不可分なんだね。でもって、モチーフは現代社会と不可分なのさ。

2001/12/29

レオン・サーメリアンは「小説の技法」(旺史社、1989)の最初の章で、小説を書く方法を場面と要約に分けている。場面とは戯曲のような文章、要約とは梗概のような文章のことである。しかしそのすぐ後で、場面もまた要約の一種であると認めている。なぜならどんなに忠実に場面を描写しても、文字が伝えることのできる情報量は映画に遠く及ばず極めて少量であって、常に作者による省略が行われるからである。結局彼は、生き生きとした臨場感を持つ描写を場面と言い、誰かの報告を聞いているような説明調の部分を要約と呼んでいるようだが、それは読者が読解の過程で受ける印象である。たとえば、臨場感溢れる場面描写の前に短い要約がつくことはよく行われるが、場面に先立つ要約を場面へ読者を導入するための単なる説明と考えるよりも、本来場面と要約が同じものであるならば、場面と要約が共にあるイメージを喚起するための仕掛けであると考えた方がずっと整合的ではないだろうか。小説の中には特に戯曲を思わせる描写もあるが、演劇と違って場面転換がなく、生き生きとした場面描写の中にも外にも説明的要約を挿入したり回想を交えたり心理描写を書き加えたりできる。それら一体となった仕掛けを戯曲的特徴や報告書の印象や手紙や会話や内的独白のイメージによってばらばらに分解していくことが創作の役に立つだろうか。同様に、主人公や脇役や小道具を抜書きする方法も、ただ小説の創作と言う立場からは疑念を禁じ得ない。たとえばある人物の性格は彼の事件への態度や実際の行動によって示されるのである。作者はある人物とある事件を分かちがたく連想する。またある場面に登場する男Aが女Bに対してある行動を取った時、それはAの描写であるだけでなくBの描写でもある。さらには後段に起こる事件の伏線でもある。主人公の事件に対する行動をぼんやり連想し始めている創作初期の重要な段階で、主人公の細かな性格付けを先に完成させたり、事件を抜き出してここにスリルがある、ここに葛藤があるなどと数え上げることがより良い創作方法だとは思えない。正に切り落とした魚の頭と切り身と尻尾を別々に用意して、生きた魚を生み出そうなど正気の沙汰ではない。

一方で分節を単位にして小説の構造を考える時、私たちはずっと自然に小説の創作の実態に即した理解へ流れ着く。私たちはまずあるイメージを読者に喚起させる仕掛けを作ろうとする。そのために最も適した文章は生き生きとした場面描写なのだろうか。歯切れの良い簡潔な要約なのだろうか。たいていはそれらを混ぜ合わせたひとつの意味的まとまりであろう。そこには、人間の記憶がそうであるように、女の顔があり心に残る警句があり美しい自然や都会の喧騒やじっと見上げる子供の瞳や亡き祖母の心配そうに差し伸べたしわくちゃの手がある。それらが渾然一体となった分節は、語句や文章や小説全体など様々なレベルがあるけれども、ここでは代表的な分節として、それが読者の中にあるイメージを喚起するある程度の長さの文章のまとまりであるものを中心に考えよう。以前に触れた娼婦エステルの描写、聖女のエステルの描写、そして娼婦の中に見る聖女のイメージの描写というように。振り返れば分節の構造化が異化効果を生む理由として、第一のイメージ、それと相反する第二のイメージ(大江の「小説の方法」においては第一のシーンまたは第一のエステルと呼ばれていた)、そして背反するイメージの両面を具有する第三のイメージ(大江における第二のシーンまたは第二のエステル)をその後に置くことによって、読者の中に自動化された知識を生き生きと活性化したイメージに変換することができるはずだという仮説を立てたのであった。大江はエステルを取り上げた次にいくつかの小説を例として引いて、たとえばトーマス・マンの「ヴェニスに死す」の冒頭の短い書き出しに、小説全体を覆うレベルの仕掛けを読み取っている。つまりある程度の長さの描写や会話から成り立つ分節に限っても、それらの組み合わせや仕掛けの全体との関わりは色々な形態があるということだろう。


評論/ノンフィクション | 【2011-05-14(Sat) 16:00:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
岬 (Hayakawa Novels)岬 (Hayakawa Novels)
(1998/06)
チャールズ ダンブロジオ

商品詳細を見る


2003/01/25

表題作の短編「岬」の粗筋を要約してみる。

1.」父が自殺して以来母は酒を飲み羽目を外すようになった。自宅でパーティを開いた母は、ぼくの寝室に来て、ひどく酔ったガーニーさんを自宅へ送るよう頼んだ。
2.ここ何年も、ぼくは酔っ払った来客を自宅に送ることをしていた。パーティには、母同様寂しい人たちが集まった。ガーニーさんもそんな人たちのうちの一人だった。
3.ガーニーさんは途中の浜辺で反吐を吐き、反吐で汚れたスカートを脱いで海で洗った。そして砂浜に横たわり服を全て脱いだ。
4.ぼくは13歳でガーニーさんは38歳だった。しばらくの会話後、ぼくはうまく隠しおおせる、かまうことはないと思った。
5.ぼくは涙を流すガーニーさんにキスした。それから家まで送り届けて自宅に戻った。
6.その後裏庭で父が母に宛てた古い手紙を読んだ。父が自家用車の中で拳銃自殺し、それを最初に発見したのはぼくだった。ぼくはその時のことを思い出した。

プロットの要約はモチーフの意味関係を表している。父が自殺したから母は酒を飲むようになった。寂しがり屋の同類はしばしば集まってパーティを名目に酒を飲む、ゆえに母も自宅でパーティを開く。13歳の子供である「ぼく」は母に頼まれ酔っ払いを自宅に送り届ける役を引き受ける。ガーニーさんは寂しいから「ぼく」と浜辺で寝た。ここまではモチーフが因果関係で結びついているのである。ただし、ラストで父の古い手紙を読むあたりだけ、意味の繋がりが弱くなる。なるほど時系列的には浜辺での童貞喪失の直後だ。全体として童貞喪失の前後の短い時間をほぼ省略なしに描いている。けれども、初めてのセックスと父の自殺との意味の繋がりがよくわからない。

2003/02/01

それでは次に、喚起されるイメージのリストを作ってみようと思うが、しかし、モチーフからイメージだけを取出すと後から読んでどのモチーフと対応しているのかわけわかんなくなる恐れがある。また状況を変化させる動的なモチーフにもイメージが伴うが、それを抜書きするとプロットの要約と変わらなくなってしまう。そこで下拵えとして静的なモチーフのリストを作ってみる。ただし、父のモチーフが重要かもしれないと感じたので、父に関する言及だけ特にカッコ内に抜書きした。(下記参照)

かなり時間をかけて長々リストを作ってみた。モチーフのラベルだけではなんのことかわからないだろうが、いちいち註釈すると作品より長い文章が必要だろう。印象に残ったところだけ順に触れておこう。

まず冒頭の悪夢は、サーカスで風船を買うぼくと父である。これがなぜ怖い夢なのかわからない。父は風船にサヤエンドウを結び付けたため風船はどこかへ飛んで行ったとあるが、何の比喩かわからない。私が知らないだけで、サヤエンドウはよく知られた象徴的意味があるのだろうか。中に種の入った鞘というところから子宮、あるいは細長い形状からペニスを象徴しているのか。

パーティの様子は退廃的である。語り手の少年は、岬の住民はまっとうな人たちと、母や母の友達のように理性を無くして飲んだくれる人たちに二分されると言う。しかし、登場する酔っ払いたちは、会計士であったり弁護士であったりする。自殺した父は医者だったし、ガーニーさんも、街中に家を持っていて、週末だけ岬に来るとあるので、別荘を持つ金持ち階級であろう。みな社会的に成功した人たちばかりなのである。だから毎週のようにパーティを開いて騒いだりできるのである。

続いて、クラッチフィールドさんが妻とうまく行かず浮気をしていたことが語られる。次に、ガーニーさんも夫に愛されていないとある。亡き父が岬の人たちを「イカレてる」と言ったのは、そのような不安定な精神面のことをを指しているのだろう。語り手の「ぼく」は13歳で、酔っ払いたちを家に送り届ける仕事を義務と考え、大人達のゴシップに詳しくなってそれを口外しない自分の態度を、前半では、司祭に喩えている。これは、後半、ガーニーさんに誘惑された時、うまく隠しおおせると思ったことと対照を成している。ガーニーさんとの会話は取り留めなく、まあ、男女が誘い合っている時の会話はそういうものかもしれない。肝心の初めてのセックスについては描写が避けられており、直接的な感想もない。けれども間違いなくやったとわかるようには書かれてある。

私は、これは「通過儀礼」の話だな、とはたと気付いた。タイトルが「THE POINT」で、訳者のあとがきにも「この七編に共通しているものは、“あるポイント”を通過した瞬間の人々を描いていることである」とある。間違えようがない。さてそこで、司祭を自負していた「ぼく」が大人になったわけだが、彼の考える大人像を小説の描写から探し集めると、たとえばクラッチフィールドさんで、彼は蟹を採る時欲張ったため海に落ちて溺死したわけだが、「ぼく」は彼に、浮気してもいい、ばれなきゃいいと言ったわけである。それは酔っ払ったクラッチフィールドさんが考えすぎて(心理的な)ブラックホールに落ち込み、家に帰れなくなるのを防ぐための方便だったが、今まさに自分自身が大人になる時、同じ理屈を使ったのである。つまりこの少年の描く大人像というのは、限りなく苦く切ないものなのである。そう考えると、ラストの数行も腑に落ちてくるわけである。彼は、大人になることは、内側が汚れていくことだと考えているのである。

頭の一部が吹き飛んで、血と髪と骨がフロントガラスに飛び散っていた。まるで、父さんは何か恐ろしいところを車で通り抜けてきたばかりで、フロントガラスのワイパーを使わないと、勢いよくワイパーを動かして外が見えるようにしないととても走れない、といったありさまだった。でも、ワイパーを動かしても父さんの役には立たなかっただろう。なぜなら、あの汚れは、内側についたものだったのだから。(p.p.37-38 チャールズ・ダンブロジオ「岬」早川書房、1998)


モチーフのリスト
1.寝室
1.悪夢
2.パーティの様子
3.母親(父の拳銃自殺)
4.ガーニーさん(ヴェトナム戦争で衛生兵だった父)
5.会計士のフレッド(父の友人だったフレッド)
2.運動場
1.ガーニーさん(人生の中のある種の物事は、たとえば父の場合のように、取り返しがつかない)
2.岬の人たち
3.弁護士のクラッチフィールド
3.防波堤の前の遊歩道
1.ガーニーさん(父は、ここの住民はみんなディンキー・ダウ《ヴェトナム兵の隠語でイカレてるという意味》だと言っていた)
2.クラッチフィールド夫妻
3.人生のブラックホール
4.浜辺
1.反吐を吐く大人の悲惨な姿
2.煙草――嫌悪すべき習慣
3.取り留めなく続く会話
4.ガーニーさんの家
5.アスピリン、メキシコ製の毛布
6.二人の息子
5.帰宅
1.パーティーの様子
2.父の銀星章と名誉負傷章、医学部の卒業証書、野球のボールなど
6.裏庭
1.父の古い手紙
2.夜の岬の風景
3.ブランコ
4.ヴェトナム戦争当時の父の近況について書かれた手紙の内容
5.ヴェトナム戦争について話す父の思い出
6.ブランコを漕ぐ
7.自殺した父を最初に発見した時のこと

2003/02/08

この小説を「通過儀礼」がテーマだと気付いた途端、より深く理解できた気がした。またディテールの印象がより鮮やかになったように感じた。それというのも、この小説の構造に理由があるに違いない。まず気付くのは、全編に渡って物悲しいイメージが漂っていることである。冒頭の悪夢から始まって、父の自殺のことが何度も思い返される。登場人物は寂しさを抱え込んだ酔っ払いたちばかりである。結婚生活がうまくいってない話が長々と語られ、なんとか酔っ払いを家まで送り届けた後は、自殺した父を最初に発見した時の痛切な思い出で締め括られる。どこまでも悲しい話なのである。狂騒的なパーティ、酔い潰れたフレッド、溺死したクラッチフィールド、自殺しそうなガーニー、ベトナム戦争で殺されゆく人たち、そして自殺した父の思い出。しかしこれらのモチーフは相互にどのように関連しているのだろうか。一方で強いイメージを持つはずの初めてのセックスについてはまるで語られない。その理由はなんだろう。キリスト教的奥床しさだろうか。語らないことによって語る文学的技法なのだろうか。私はそうではないと思う。この小説は寂しい悲しいことばかり書かれてあって、全体から受ける印象もそのようなものである。初めてのセックスそれ自体を(男の立場から)描こうとしているとは到底思えない。むしろ初めてのセックスを通過儀礼というふうに一段階抽象化した時、ぶつ切りに並べられたモチーフが繋がってくる感じがある。つまり少年は大人になったのだ。この少年にとって、大人とは、寂しくてパーティばかり開いている母親や、酔い潰れて満ち潮の波の中で目を覚ましたフレッドや、結婚生活に失敗したクラッチフィールドや、13歳の子供を誘惑しなければならないほど精神的危機を抱え込んだ38歳のガーニーや、そしてなにより拳銃自殺した父親のことなのだ。大人になるという視座から見てそれらのモチーフが結びつくのだ。初めてのセックスは視座におかれるべきであり、視野にあってはならないものだからその描写が省かれているのだ。もしも初めてのセックスの詳細な描写や長々とした感想が書かれてあったら、読者はそれこそを手に取り味わうべきディテールだと思い込むだろう。そしてそのディテールをどのような視点から見ればいいのだろうと思うだろう。そうではなくて、寂しく切ない大人達の右往左往ぶりが連綿と描写されてあるから、私たちはそれに目を近付けてその奇妙な模様を眺めたり手に取って肌触りを確かめたりするのだ。そしてあれこれ推理を巡らした挙げ句、ようやく、通過儀礼の話だと気付くのだ。まさか童貞卒業の思い出話がこんなに悲しいわけないという真っ当な先入観を持って読書に臨むために、初めてのセックスの前後をほぼ省略なしに語った少年の初体験談から込み上げてくる悲しさ切なさに当惑するのである。そして通過儀礼というテーマに気付くのに少し時間が掛かるのである。テーマに気付いた時にはすでに、作者の狙い通り、悲しい切ないイメージが読者の胸一杯に広がっているのである。

2003/02/15

改めて整理してみよう。この小説を面白くしているのは次のような点ではないか。

1.イメージの明確なモチーフ(初めてのセックス)を階層の上位に持ってくるが、それ自体については描写せず、読者の能動的関与を誘う。
2.モチーフを短い時間の一視点の中に限定(少年がガーニーさんを送り届けて帰る)し、モチーフの並びが明らかにひとまとまりのものであるように描いておく。
3.一方で、それら下位のモチーフから見て意外な上位のモチーフを持ってくることによって、読者がモチーフの意味を吟味し、視点を構築するのに若干手間取るように仕掛ける。
4.視点の構築に能動的・積極的に関わった読者は、モチーフのディテールをより深く味わうことになる。

言わば、初めてのセックスがアンパンのへそみたいになってるのだ。それ自体にアンコはないのだ。ここまで考えた時、私は自分でも同じパターンで書けるんじゃないかと思った。そして次のようなメモを書いた。

通過儀礼:死体の発見
テーマのイメージ:恐怖、残虐、腐敗、死
モチーフのイメージ:賑やか、お祭り、家族愛、絆、成長

この死体の発見とは、スティーブン・キングの「スタンドバイミー」である。実は映画をビデオで見ただけなんだが、その後ある批評家が、少年たちの成長を描いた作品だと言っていたのをふと思い出したのである。冒険が、通過儀礼なんだね。

早く成果を確かめたいので、これを1000字で書いてやろうと思った。そしてあわよくば短編に投稿してやろう。でも1000字だと、冒険は無理だな。少年たちが集まって準備をしているうちに軽く1000字をオーバーしてしまうだろう。「岬」に習って、誰かを送り届ける途中で死体を発見すればいい。でも、子供が大人を送る理由って、あまりないよな。「岬」に習って酔っ払いにすると、死体の発見の時邪魔な気がする。少し考えた後で、年寄りで足元がおぼつかないという理由を思い付いた。そこで次のようなメモを書き足した。

楽しい団欒、一人の老婆
老婆を送っていく
死体の発見
老婆を送り届けて帰る
家族に自慢

「岬」ではテーマのイメージは(気持ちいいか悪いか、どっちかと言えば)いいのに対して、死体の発見は、悪い。大切なのはテーマとモチーフの関係性であり、それが対照的で一見結びつきそうにないからイメージの喚起力が増すという仮説に私たちは立っているのである。だから、テーマが気持ち悪いのであれば、それが結び付ける下位のモチーフは対照的に明るいものにすれば良いのではないか。そして、テーマ(上位のモチーフ)は描写しないんだ。そこはへそだからだ。むしろ明るいディテールを細かく描写するんだ。しかし、なぜ死体を発見してしまうのだろう。偶然なら通過儀礼にならないのではないか。それに死体を発見した後話が長引きそうだぞ。警察に通報しないわけにいかないし。やっぱり死体はやめよう。通過儀礼ならいいんだ。冒険ならいいんだ。本人にとって肝試しになっていればいいんだ。肝試しと言えば墓場だな。墓場へ行くことだって広義の「死体の発見」だ。すぐ近くなんだけど、墓場の横を通らなきゃならないんだ。だから初めは渋るんだ。でも母親に言われて老婆を送る。それを成し遂げたら自慢なんだ。「岬」の少年よりずっと幼い感じだな。まだ小学生だろう。妹に「恐いの?」と聞かれてムキになるんだ。

ここまで思い付けば、後は1000字にまとめるだけだった。そうやって書いたのが「橋本のお婆さん」である。みなさんは実際にそれを読んで確かめてみることができる。

橋本のお婆さん
http://tanpen.jp/6/11.html
短編
http://tanpen.jp/

2003/02/22

分節が階層構造を持つこと、最上位の分節のイメージをテーマと呼んでかまわないこと、「岬」の分節構造は、テーマについて直接語ることを強く避け、またテーマとディテールのモチーフが一見結びつかないために読者の注意がディテールに向かうことがわかった。「岬」をお手本にした「橋本のお婆さん」を読んでいただいたみなさんは、表題の橋本のお婆さんに注意しているつもりがいつのまにか下位の明るい家族団欒のイメージの方が胸に広がってきたのを確認して頂けたことだろう。

分節構造は、絵画の構図に喩えることができるかもしれない。同じモチーフを違う構図で描くことができるし、違うモチーフを同じ構図で描くこともできる。ちょうどそのように、分節構造とは、分節のイメージの関係性のことである。イメージには類似したものがあり、対照的なものがあり、共通項を持っていたり包含関係にあったりする。

分節構造を模倣しつつ、テーマもモチーフも異なる習作を、盗作と呼ぶことは無理だろう。勉強になったので、作品の末尾に「参考:チャールズ・ダンブロジオ『岬』」と入れたいくらいだが、返って読者を混乱させて、「世界的名作の『岬』とテメーのドシロウト習作になんの関係があるんじゃゴルァ!」とか脅迫メールが来そうなので自粛した。それでも、プロットに過度に敏感な人は、「岬」と「橋本のお婆さん」を読み比べて、どちらも誰かを送り届けて帰ってくる話だと言うかもしれない。しかしそれはモチーフを入れ替える時にたまたま残った残滓に過ぎない。私は「岬」をお手本にしてもう一本1000字を書いたが、それは「臨死体験」を通過儀礼としている。それを思い付いた時のメモは次の通りである。

通過儀礼:臨死体験
恋人と先妻の話になる
臨死体験で先妻と会う
恋人との絆を強める

先妻が病気で死んでそのことを引きずっている男が、新たな恋人に向かってもう一歩踏出せないでいる。その後、交通事故によって一時危篤状態になり、夢の中で先妻と会う。その体験から生きることの大切さを再確認して、むしろ現在の恋人との絆を深めるという話である。「愛なかりせば」というタイトルで7期短編に投稿したのでご一読頂ければ幸いである。この作品では、テーマとして「臨死体験」があり、それは人知を超えた体験である。そこに視座を置いて見詰める下位のモチーフは、恋人とのどこにでもあるような日常のディテールである。さてそこで、「岬」ではセックスが通過儀礼だったから相手が必要で、だからガーニーさんを送っていったのだが、この作品では、一人で車を運転しているうちに勝手に事故るのである。誰も送り届けたりはしないのである。イメージの関係性を損なわないことだけに専心して、プロットに関わるモチーフを完全に置換えてしまえば、ソース元のプロットはコンパイル後跡形もなく消え去ってしまうのである。

愛なかりせば
http://tanpen.jp/7/13.html


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 13:59:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
桃太郎
桃太郎 (新・講談社の絵本)桃太郎 (新・講談社の絵本)
(2001/05/18)
齋藤 五百枝

商品詳細を見る


2002/05/25

桃太郎の話を4つに分けると、こんな感じだろうか。

1.桃から生れた桃太郎は怪力の持ち主だった。
2.桃太郎はお殿様から鬼退治を頼まれた。
3.きびだんごをやって、犬、猿、雉をお供にした。
4.お供と共に鬼退治をして、宝ものを持ち帰った。

これはまあ、起承転結に対応しているわけじゃないかもしれないし、桃太郎の話のどこが「転」になるのか正直わからない。が、「起承転結」には構成とか構成法という意味もあるようなので、そのようにおおざっぱに考えて先に進もう。まず思うのは、この順番に何か意味があるのか、すなわちこの順番を入れ替えたら失われるものは何かということである。

1.謎の若者がきびだんごをやって、犬、猿、雉をお供にした。
2.実は、彼はお殿様から鬼退治を頼まれたのであった。
3.彼は見事鬼退治をして、ある老夫婦の元に宝ものを持ち帰った。
4.謎の若者の正体は、桃から生れた桃太郎で、その老夫婦に育てられ、怪力の持ち主に成長したのだった。

どうだろう。別に順番を入れ替えても、話の辻褄を合わせることはできるよね。

1.お城に呼ばれた若者が、お殿様に鬼退治を命じられた。
2.彼の名は、桃太郎。桃から生れ、不思議な怪力を持つ若者だった。
3.桃太郎は見事鬼を退治し、宝ものを持ち帰った。
4.そしておじいさんとおばあさんに、共に戦った犬、猿、雉と出会った経緯を話すのであった。

小説の冒頭部で伏線をちゃんと説明しておかないと、クライマックスが唐突に感じられはしないだろうか。といって、冒頭から設定説明ばかりだと、退屈だろうし…。結局、小説の「起」って、どうあるべきかなあ、などと、生真面目な朝野十字は悩むのであった。しかしてハリウッド映画などでは冒頭からアクション・シーンが連続することがほとんどお約束みたいだし、それは観客を惹きつけるためだろうが、よく見ていると、アクション・シーンの合間に、背景やキャラ説明のシーンが必ず入っている。当り前のことだが、説明しなければならないことは説明しなければならないのだ。「説明しなければならないこと」は「起承転結」の「起」でもなければ、「設定・葛藤・クライマックス」の「設定」でもない。

次に「承」について考えてみる。「起」を桃太郎の生まれ育ちにすると、その後で鬼退治の話がくる。鬼退治の話をする時には既に、桃太郎についての説明は終わっているので、アクションの描写に専念できるだろう。逆に鬼退治の話を先にして、その後で桃太郎の生い立ちや鬼退治に行くことになったきっかけについての説明をする場合、鬼退治のシーンで、桃太郎やお供についてある程度は触れているわけであるし、いくつかの事柄――たとえば、桃太郎が怪力の持ち主であることの説明――を省略するか短い説明で済ませて、謎の解明にフォーカスできるだろう。

演劇などでは、起承転結に似た構成の方法として、「設定・葛藤・クライマックス・結末」などともいうようだが、「葛藤」については、たとえば探偵役の主人公が、犯人を追及する過程で様々な障害に遭うことも含めて、かなり広い意味で使われているようだ。だとすると、ストーリーは、冒頭で設定された枷がクライマックスで解決されるまで、常に葛藤を保持していることになる。そして、登場人物が気付かない悲劇が次第に近付くというストーリーもありうるだろうし、その場合、葛藤は読者の側にあり、登場人物の無邪気な言動のいちいちがサスペンスを盛り上げるわけである。そのような観点から桃太郎を見ると、確かに「葛藤」は存在するのであって、桃太郎の話は、不思議な出自の怪力を持つ桃太郎が、その怪力故に鬼退治を命じられ、主尾よく鬼を退治して宝ものを持ち帰る話なのであるが、冒頭で不思議な出生を果たした桃太郎が、どのように不思議な人物なのかと思って読み進めると、しょうこがない、だの、わらじがない、だの言って、薪取りに行くことを嫌がり、とにかく桃太郎は怠け者だという叙述が延延と続くわけである。そして非日常な出自と日常的怠惰の関連をつかめず読者の葛藤が募った挙げ句に、ようやく薪取りに出掛けて、そこで大木を引き抜くというモチーフが登場する。ひょっとすると、怠け者だったのは、近所の若者を庇うためで、というのも、力持ちの桃太郎が毎日山へ出掛けて大木を引き抜き続ければ、たちまち山は禿山になり、他の若者たちの仕事がなくなってしまうだろう、などと後から考えるわけであるが、それは読者の側の勝手な解釈であって、怠け者であることと怪力の持ち主であることの関係について、物語はなんの説明もしない。それでも、不思議な出自と不思議な怪力のイメージは整合的に並立するし、間に怠け者のモチーフが長々と入ることによって、(読者の側に葛藤が生じて、その解消としての)怪力の不可思議さがより印象深く読者に喚起される。さらに桃太郎が怪力であるかどうかは、鬼退治に行く資格があるかないかという意味を持ち、桃太郎が鬼退治というクライマックスに向かう途中の「葛藤」の一部であると考えることができる。

結局、葛藤が主人公の内面にあろうと、戦争や災害のように社会的なものであろうと、読者がそこにスリルやサスペンスやドラマを感じてこそ意味があるのであり、読者がそれらを感じることができれば、登場人物が悩んでなくても、葛藤の論理的説明がなくてもかまわないのだ。

ところで、小説は、時系列や因果律に合わせる必要がないので、どのモチーフをどこに持ってきても良い。現在から始めて過去に溯っても、結果から先に話してもかまわない。そして、小説の冒頭をどこから始めるべきか、その次にどのようなモチーフを置くべきか。また、その理由は何か。それらを考える時、私たちは、「起承転結」とか、「設定・葛藤・クライマックス」というような構成の分類法が、無力であることに気付く。私たちは、桃太郎が生れたところから始めても良いし、鬼退治をしているところから始めても良い。生い立ちから始めれば、これから起こるべき(鬼退治のような)事件へ向かって、事件から始めれば、そのような事件を起こすに到った(不思議な桃太郎の誕生のような)謎に向かって、ストーリーが進んでいく。つまりは、読者が冒頭から順に小説を読む以上は、どのモチーフが冒頭に来ようと、それがその小説の「起こり始め」であり「設定」になるのだ。どのようにモチーフを並べようとも、クライマックスに向かってストーリーのテンポが速くなり、緊迫感が増していくのは、もっぱら前段の内容を踏まえて後段を書いていく結果、説明が減り、事件または謎の解明がどんどん近付いてくるからである。

モチーフを入れ替えても物語が成立するということは、つまり、冒頭に相応しいモチーフや、結末になり得ないモチーフなどが存在するのではなく、どのモチーフも物語のどの場所にも置かれ得る可能性を秘め、そしてそこに置かれた後でその場所に相応しく成長する能力を予め備えているということだ。そして「起承転結」や「設定・葛藤・クライマックス」などの言葉は、どのモチーフをどこに置くべきかについて何も教えてくれない。それらの言葉は、すでに置かれたモチーフを場所によって分類したラベルに過ぎず、すでにある名作小説を説明するには便利な用語だが、ただの言葉の言い換えに過ぎない。単に冒頭に描かれたシーンが、作品全体の「起」であり「設定」であるのだ。それに続くのが「承」であり「葛藤」であるのだ。話が終わるところを「転結」とか「クライマックス」とか言うのだ。「起」とか「設定」とかは、「冒頭部」と同義で、「承」や「葛藤」は、(緊密に関連付けられ積み重ねられた)物語の中ほどの呼び名で、「転結」「クライマックス」は物語の終わりの部分の名称だ。それらの言葉はそれ以上の何ものも説明しないのだ。

小説の基本構成





児童書 | 【2011-05-14(Sat) 11:44:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
白昼の悪魔
アガサ クリスティー, Agatha Christie, 鳴海 四郎
白昼の悪魔 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
アガサ・クリスティー, 鳴海 四郎
白昼の悪魔 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1‐82))

小説の基本構成



2001/02/16

駄ハウツー本に、映画と違う小説の利点は、曖昧な描写によって読者それぞれに自由なイメージを喚起させることができるところだとあるが、そんなことはあり得ないのである。より多数に同一のイメージを喚起できてこそ、仕掛けが成功していると言えるのであり、仕掛けが成功しているからこそ、誰もが認める名作と言えるのである。どうせ彼らの言ってることは、ある映画女優がある役を演じると、その女優のイメージが固定されてしまうが、小説で単に「美人」と書けば、読者がそれぞれ自分の好きな女優のイメージを当てはめることができるとか、その程度のくだらない話なのである。馬鹿は黙ってろ。読者が女優を当てはめるのは、小説の仕掛けが成功して美人のイメージが喚起された後に決まってるだろ。でなきゃなんで小説と全然関係ない女優の名前を読者が突然連想すんだよ。

私たちはこれから、名作小説が喚起するイメージに注目して、分節に分解していく。それは今までの通常の読解とどのように異なるアプローチなのか。

たとえばある小説を、背景・人物・事件に分解する。その時点ですでに、読者は小説のありのままの構造に背を向けて、小説から醸し出されたイメージに恣意的補助線を引いた読者オリジナルの物語空間を作り上げてしまっているのである。彼らはまるで登場人物が実際に存在するかのようにその性格を分析し、舞台や舞台を流れる時間の推移を事細かに論じる。ある小説が読者にそこまで興味を持たせ、鮮明なイメージを喚起できたのであれば、それはすでに小説として成功したと言っていいのである。なぜならば、つまらない小説は読者の興味を引かず人物のイメージが思い浮かばず、そもそも出版されないからである。読者が作品のプロットを理解し、テーマを把握した時にはすでに、小説の面白さを喚起する仕掛けはその機能を発揮し終わり、役割を終えている。その仕掛けは、読者の心の中に華々しく構築された物語世界の側ではなく、そこから読者が学んだことでは更になく、あくまでも、白い紙に黒いインクで染み付けられた印刷物そのものの側にあるのだ。

ところで、人間の心の知覚perceptionは全て、印象impressionと観念ideaに還元される。印象と観念の違いは、心を打つ強さと生気の度合いの違いであり、質的相違ではない。強い方(感覚sensation、情念passion、情動emotionなど、心に最初に現れるもの)を印象、弱い方(思考や推論に用いられる印象の像)を観念という。(David Hume 1711-1776)

ここでは、「印象」と「喚起されるイメージ」をほぼ同じ意味で使う。読解の直後に心に浮かぶ印象に対して、文章の意味や論理的関係に注目し、プロットを理解した後で私たちの意識に浮かんでくるものは、印象よりも生気の薄れた観念である。従来の粗筋や要約と呼ばれるものは、後者を中心にして組み立てられていると考えられる。

最初に、殺人が起こる直前の第1章4節~第3章1節までを取り上げたい。この区間でイメージを喚起する描写を抜書きし、次に全体としてどのようなイメージが喚起されるかを考える。そしてその後で、この区間がひとつの分節であると考える根拠を説明しよう。また、従来通りの要約を併記してその違いを考察しよう。

ところで、クリスティのような古典的推理小説は明確なパターンを持ったジャンルである。古典的推理小説を読む時、私たちは、犯人は誰だろうと思いながら読み、登場人物を容疑者として観察する。そこで、まず登場人物のイメージを中心に見ていこう。(図表26-A参照)なお、表中、人物名をアルファベットで代用することがある。文頭の括弧で括られたアルファベットは、それに続く文がその登場人物の発言または独白であることを表している。人物とアルファベットの対応は表の下にまとめてある。

ある場面におけるある登場人物の描写は、その登場人物の一断面にしか過ぎないという言い方は、本末転倒である。登場人物とは、描写の断片の集積から読者が心の中に作り上げた架空のイメージである。そして名作小説の喚起するイメージは、人物に関するものも含めて、齟齬がなく破綻がない。特に推理小説の場合、人物の思考能力や性格も重要な手がかりであるために、原則として途中で急に頭が良くなったり、性格が変わったりしないはずだ。だから名作推理小説の人物のイメージを要約するためには、小説中のある程度の長さの人物描写を抜書きした上で、それを要約すればいいはずだ。

ある人物のイメージを喚起する描写としては、地の文、本人の発言や行動、他人の噂話などがあるが、論理的な吟味を経る前の印象としては、どれもそれほど変わらない強さを持つと考えていいはずだ。なにしろどれもが紙に印刷された黒いインクの染みに違いないのだから。

表に、第1章4節~第3章1節から主要人物の描写を抜書きした。次回は、さらにそれらを要約して、各人物のイメージをまとめるところから始めよう。(つづく)

図表26-A(人物のイメージを喚起する描写 第1章4節~第3章1節)

I.アリーナ・マーシャル
大女優、堂々たる貫禄、照れも気後れもない、自分の出現の効果を知り尽くしている、すらりとした長身、美しくむらのないブロンズ色の肌、彫刻のような完璧さ、ねっとりと燃えるような赤褐色の髪、いくぶんけわしさの漂う顔、三十年の歳月、全体の印象はむしろ若々しく、生命力の見事な勝利、中国人のような無表情、釣り上がった目、ひすい色の厚紙の洒落た中国風の笠、浜辺の他の女性はすべて霞んでしまう、それだけの風格、居合わせた男性の視線が集中、Aは口髭が震え、Dは興奮のあまりギョロ目が飛び出し、Eは体を強張らせる、人魚のよう、不安げに夫の顔を見やる、魅惑的な目付き、抵抗できる男性は数少ない

(A)若くはない、美人ではある、アリーナが狙っているのは男だけ
(D)いい目の保養になる、妖婦、器量がいい
(E)全身これ悪のかたまり
(F)悪魔の化身、徹底した悪人、よく知っている
(G)コドリントン卿にあっさり振られた、彼を契約不履行で訴えた、金づるに吸い付くタコ、男たらし、今はパトリックを狙っている、男を食い漁る虎
(H)きみのことならよくわかってるつもりだ
(J)けだもの、別に不親切ではない、リンダに目を向けることは滅多にない、人を軽蔑して楽しんでいる感じ、洗練された動き、優美な姿態、悪い女、殺してやりたい、死んでくれないかな
(K)美女
(L)立派だけど野獣のよう、例外、わるもの、パトリックはひどい目にあう

K.パトリック・レッドファン
はったりに自信がない、やたらに誇張

(A)感嘆の目で、人間としての完成品、ひきしまってブロンズ色に日焼けした体、広い肩幅、引き締まった大腿部、明るく快活な様子、純真素朴な性格、どんな女性にも、またたいていの男性からも好まれるタイプ
(F)すてき、水泳の達人、ばか
(G)ハンサム、単純、奥さんを愛している、女遊びはしない

H.ケネス・マーシャル
40歳ぐらい、金髪、日焼けした体、感じのいい顔立ち、タイムズを読んでいる、いつものように無表情、深刻な顔で妻を見下ろし、けわしくなり、楽しげな表情は消えた、穏やかに、「死、ふたりをわかつまで」妻と別れない

(A)アリーナが前を通っても顔を上げない例外的な男
(D)よさそうな男、おとなしい
(G)義侠心からつまらない結婚をする
(J)アリーナのせいで昔のパパはどこかへ隠し込まれた、ロザモンドに会って嬉しそう、若返った、笑った

L.クリスチン・レッドファン
銀色がかったブロンド、四肢も抜けるように白い、白い真面目くさった顔、けっして不器量ではない、手足は小造り、華奢、一同を見るとにっこりして、「日光浴すると体中火ぶくれになりソバカスだらけになるのでしない」、不安を感じさせる声、今は激して震えを帯びている

(D)なまっ白い、火が通ってない
(F)高いところが恐い、日光浴をしない、かわいそう、いい子、結婚してまだ1~2年
(G)かわいい奥さん、色の白いきれいな人、教師で、物質よりも精神という考え方、ひどいショックを受けるだろう、かわいそう、だれかがなんとかしてあげなくちゃ

G.ロザモンド・ダーンリー
ポアロが賛美する女性、名声、優雅な姿態、誇らしげな隙のない頭のもたげ方、品よく艶やかな黒髪、皮肉のこもった微笑、高価で渋いドレス、一流ドレスメーカー、「私は成功した女の典型、だけど夫がいない」、嬉しさは押し隠した

(A)大勢が羨んでいる
(H)カーッとなってぼくの首を絞めた、身内みたいのもの
(J)いい人、さえている人、髪の毛の感じもぴったり似合ってる、ドレスもいい、自分に対しておかしがっているような笑顔、やさしい、感情的にならない、あれこれ言いたてない、馬鹿にした顔をしない、リンダを一人の人間として扱ってくれる、心底から感謝

図表26-B(登場人物)
A.エルキュール・ポアロ(私立探偵)
B.オーデル・D・ガードナー
C.ガードナー夫人
D.バリー少佐
E.スティーブン・レーン(牧師)
F.エミリー・ブルースター
G.ロザモンド・ダーンリー
H.ケネス・マーシャル
I.アリーナ・マーシャル
J.リンダ・マーシャル
K.パトリック・レッドファン
L.クリスチン・レッドファン
M.ホレス・ブラット
N.ミセス・カースル(ホテルの経営者)
O.グラディス・ナラコット(メイド)
P.ニーズドン(医師)
Q.コルゲート(警部)
R.ウェストン警視正(州警察本部長)

アガサ・クリスティー「白昼の悪魔」ハヤカワ文庫、1986

2001/02/23

映画は総合芸術であり、大勢の人間によって作り上げられる。それが映画の長所であり、短所でもある。脚本家の思いも寄らない斬新な視点で監督が映画を撮るかもしれないし、監督の期待を越える名演技で役者が応えるかもしれない。一方で、小説はたいてい一人の作家によって書かれ、読者に伝えられる情報量はずっと少ない。実はこれが小説の強みでもある。

映画の場合、脇役が名演技で主役を食ってしまったりすることがあるかもしれないが、小説の場合は、すべてを作者が仕切ることができる。作者は小説全体を綿密にチェックし、一言一句をおろそかにしないことができる。映画の場合、観客がよそ見したりうたた寝したりしている間に、監督入魂のワンカットが流れ去ってしまうことも有り得えないではないが、小説の場合は、読者が字を拾って文章を理解するまで、次へ進まず待っていることができる。作者は、自分の計算通りの情報を、計算通りの量・計算通りの順序で、読者が受け取るだろうと期待することができる。

何百年か前、イギリスの哲学者が、「すべて印象が観念に先行する」ことを発見した。また思考とは心の中の観念を操作することであると定義した。これをテクストの読解という閉じた世界に当てはめて考えてみよう。読者は読解の過程で色々な観念、容疑者とか手掛かりとかプロットとかを心の中で操作し、こいつが犯人じゃないかなとか、こっちも怪しいなとか思考しているのであるが、それらの観念はすべて先行する印象に基いているのである。喚起される印象を限定することによって読者の思考の材料を限定できるのである。そして印象が喚起される仕掛けは、すべてテクストの中にあるのである。だから小説の作者は映画監督よりずっと確実に、ある狭い範囲に読者の印象を限定し得るのである。映画だと、ヒロインが広末だとか、この前ワイドショーで話題になってたとか、このベテランバイブレーターが犯人役に違いないとか、なにそれ、バイプレーヤーだろとか、あ、ポップコーンちょうだい、おい二列前の正面に座ってる奴、異常に座高が高いよなとか、観客のイメージはとめどなく散漫になる可能性があるのに対して、小説は巧みな描写と省略を組み合わせることによって、より正確でピンポイントのイメージだけを読者に喚起し、彼の思考の道筋を操ることができるのである。

2002/03/30

言葉の綴られたものを前にする時、その前提に作者が存在することは一見自明に思えるが、よくよく考えるとそうでもない。誰かの書いた文章が――その誰かは狂人でも詐取を目的としているのでもなく、私たち同様の常識を持ち、誠意を持って何かを伝えようとしているのだとしても――書き手の伝えようとした内容が読み手によって正確に読み取られ得ることを何が保証しているのだろうか。

ある言葉の並びが確かにある意味を持っていると保証できるのは、人間しかいない。いずれコンピュータが意味を理解する日が来ると言う人もいるが、今のところは、私たちはただ、人間というものを信じる他に意味を保証できない。シャンポリオンはヒエログリフを血の通った人間の作った意味のあるもの、解読に値するものだと確信し、シュリーマンはただホメロスの言葉を信じてエーゲ文明を発掘した。善良な作者を仮定することは、言葉の連なりから意味を取出す人間的で困難な作業のために必要な前提であるが、これはトートロジーである。私たちは文章を読んでその意味を理解できるから、作者を信じることができる。そして作者を信じるから、言葉の綴りに意味を見いだす。読解の前提として作者を仮定することは、読者の側の要請によるのである。

嘘が書かれていると思って文章を読む時も、私たちは、作者を人間であると信じていることに変わりない。嘘をつけるのは、嘘が意味を持つのは、人間だけだからだ。そして彼の話の矛盾をつこうとするのだが、そのためには背理法を使わなければならない。彼の話をまず論理的に整合すると仮定して読解していくのである。そうした作業の後で初めて、論理的な矛盾を指摘できるのである。

フィクションの場合はどうだろう。私たちは本を開く前までは、それがフィクションであることを確かにわきまえているのだが、読み始めるとすぐに――もしその小説が手だれの作家によるものであれば――物語の世界に入り込んでしまう。私たちはそれを読み終わるまで、そして読み終わった後も、それが単なる空想の産物であり、登場人物はすべて実在しないし、ゆえに彼らが泣いたり笑ったり成功を勝ち得たりすることも決してないという事実をすっかり忘れてしまう。一方で、下手な小説を読むと、物語に入り込めず、それがフィクションであることが嫌でも意識に上ってくる。ちょうど映画館で隣席の人が音を立ててものを食べたり、大きな咳をすると、映画に集中していた意識がそがれて、ここが映画館であることを再認識するようなものだ。このふたつの世界は互いに排他的であって、物語の枠組みが露わになると物語の意味が意識から遠ざかり、物語の意味を汲み取ることに専念すると、枠組みを忘れて物語の中へ感情移入してしまう。 そして大事なことは、普通の文章を読む時とフィクションを読むときとで、私たちが読解の方法を変えているわけではないという点だ。

フィクションを読むときも、私たちは言葉の並びを読み取り、意味を汲み取ろうとする。フィクションという嘘を読解する時、私たちはそれら言葉のひとつひとつに真実の意味を認める。そして意味を伝えたい作者を――恋文を読む時と同様に――仮定し、作者の誠意を――そうでなければ意味を汲み取れないから――信じる。そしてそのような意識の働きが、それと矛盾する事実――これが現実でなく、実在の人物について書かれたことでなく、ゆえに実際的な意味を持たないという事実を、意識から外へ外へと押し出し続けるのである。

それではそのような方法で私たちが読解する有りのままの有り様を、できるだけ詳しく、お馴染みの「白昼の悪魔」第1章4節を例にとって、分析してみよう。

この節では、まずスチーブンが「悪は実在する」と言う。正確には、作者がスチーブンについて語り、スチーブンが言ったことを私たちに伝えている。作者が信頼に足る人物で、意味あることを伝えようとしているのだという前提に立つと、作者は自分の考えを代弁するためにスチーブンを登場させたのか、またはこの後でスチーブンを批判するのだろうか。あるいは社会や人間やその他の問題について何かを言うための素材として、スチーブンを例示したのかもしれない。続いてポアロがスチーブンの意見に「あるところまでは同感する」と言う。「ポアロは冷静に答えた」という叙述から、作者がポアロを信頼している様子が伺える。そこで私たちも、もちろん一定の留保をしつつ、「悪は実在する」という命題を「あるところまでは同感」して次に進もう。

次にバリー少佐がインドの托鉢僧の話を言いかけるが、回りの人たちによって中断させられる。クリスティは、「バリー少佐の長話を一同は警戒した」と述べている。また少し後で、「おかげで托鉢僧の話は回避された」とも言っている。どうやらバリー少佐の長話は嫌がられているようである。しかし、もし、どんなに嫌がられようと、バリー少佐の話が重要だとクリスティが思えば、クリスティはバリー少佐にもっと話させるか(ここで私の意識は若干物語の枠組みの側に後退している)またはクリスティ自身が托鉢僧についてなにがしかの補足説明をするだろう。しかしそんな様子が全くない以上、クリスティもまた、托鉢僧の話は重要でないと考えているに違いない。ゆえに私たちも托鉢僧の話は忘れよう。

バリー少佐の話を遮ったのは、エミリーとクリスチンである。エミリーは海岸に泳ぎ着いたパトリックを見て、素敵なクロールだ、すごい水泳の達人だと言う。ほぼ同時にクリスチンは、湾の外れを横切るヨットがかわらしい、赤い帆をつけている、あれはホレスのヨットであると言う。続いてバリー少佐が「真っ赤な帆だなんて」とうなるが、バリー少佐は重要人物でない。しかもその直後に頭脳明晰な名探偵ポアロが、パトリックについての長めの叙述を行う。つまるところ今の話題の中心はパトリックである。クリスチンは夫を誉められて恥ずかしくてヨットの話をしたのだろうか。とにかくヨットはそろそろ湾の外に行ってしまったはずだ。だからパトリックに注目しよう。ポアロの叙述をまとめると、パトリックはハンサムで、明るく快活、純真素朴、誰からも好かれる男である。高名な探偵がそこまで言うのだから、まあ、そうなのだろう。

次に、アリーナの描写がある。アリーナの描写は非常に長く、綿密である。クリスティがアリーナを非常に重視していることは明らかである。アリーナ自身の描写だけでなく、アリーナを見た回りの人たちの反応も細かく書き込んである。ポアロは目を見開き、バリー少佐は起き直り、スチーブンは大きく息を飲む。間違いなく、アリーナは美女である。そしてそのことは重要である。

出し抜けに、エミリーが、「アリーナは徹底した悪人だ」と言う。さらにエミリーは、自分はアリーナをよく知っていると言う。アリーナが悪人である証拠も、エミリーがどれくらいアリーナを知っているかも、私たちは知らない。おそらくこの後にそれについての説明があるはずだと信じて先に進む。

次にバリー少佐のインドに関する長話が引用される。クリスティは、托鉢僧については重要でないが、今回の話は重要であると思っているようである。バリー少佐は、「インドのシムラであった女を思い出すな。やっぱり赤毛だった」と言う。なぜ思い出したのか、何が「やっぱり」なのか。その直前にバリー少佐は「興奮のあまりギョロ目を膨らませて」アリーナを見ている。また、アリーナは赤毛である。さらに今、みんなの間で話題になっているのもアリーナである。さてそこで、バリー少佐はアリーナを見て、インドの赤毛女を思い出した。これからバリー少佐が話すことは、何かアリーナに関係することで、しかも、バリー少佐を重視しないクリスティがあえてこの話だけを引用しようと思ったほど、重要なことである。

バリー少佐は言う。「インドの赤毛女に、男たちはうつつを抜かし、女たちは、目の玉をくりぬいてやらんばかりのけんまく!」

続いてスチーブンが低い声に激しい怒りを込めて言いかける。「そんな恐ろしい女こそまさに――まさに――」

彼らの話は今一つ要領を得ない。彼らは今ここの話をしているのではなく、例示によって今ここの話をわかりやすく説明しようとしているのだろう。で、今ここでは、何が起こっているのか。

クリスティは言う。パトリックは妻に「今そっちに行くよ」と言っておきながら、直後に、磁石のようにアリーナにひきつけられた。アリーナは微笑み、岩の横に寝そべった。パトリックはその隣に腰を降ろした。出し抜けにクリスチンは席を立ってホテルに駆け込んだ。

ここまで読んで、私の頭の中には、大きなクエスチョン・マークがある。クリスティの意見や判断が最後にあるだろうと思って我慢して読み進めてきたが、彼女は事実を羅列しただけでそれ以上何も言わない。これらの事実を見れば、その意味は明らかだろう、とクリスティは考えているのだ。

2002/04/13

名探偵・朝野十字は、第1章4節で、クリスティが言おうとしたことは、「アリーナという悪が実在する」である、と推理した。そこで直ちに、次のような疑問が生まれてくる。――もしそうなら、なぜ、クリスティは、そう言わないのか。

これは批評家たちが、小説のテーマやプロットについて語る時、常に付きまとう疑問と同じである。彼ら批評家は、自分たちは文学がわかっているし、ある小説家のこともよく知っているし、そしてこの小説のテーマもわかっていると言う。そしてこの小説のテーマは、「愛は美しい」だ。「友情は尊い」だ。あるいは、「人間って素晴らしい」だ。とか言う。しかし、もし、そうなら、なぜ、作者は、そう言わないのか?

「アリーナという悪が実在する」というタイトルで、もし私が文章を書くとすれば、次のようになるだろう。

パトリックは純真素朴で騙されやすい。また、ハンサムであるため誘惑の対象となりやすい。対して、アリーナは美女で、パトリックを誘惑する能力がある。現に、妻のところへ行こうとしたパトリックは、アリーナを見付けると彼女の方へ引き寄せられてしまった。この後のことは十分予想ができる。たとえば、インドのシムラにいた赤毛女は、アリーナのように、よその夫を誘惑した。その結果、たくさんの家庭を壊した。同様に、アリーナがパトリックとクリスチンの仲を引き裂く危険性がある。もしそうなれば、アリーナは悪である。なぜならば、よその家庭を壊すことは悪だからである。そして、アリーナは、この島に悪が実在することの正に実例となるだろう。

明解で簡潔、まさにお手本のような文章だ。では、なぜ、クリスティは、私のような論理的文章を書かないのか。なぜかって、それは言うまでもなく、クリスティは、「アリーナという悪が実在する」なんて言いたいと思ってないからである。これは、クリスティの仕掛けなのである。名作小説は分節からなり、分節とはイメージを喚起する仕掛けのことなのである。この節では確かにアリーナとパトリックとクリスチンの三角関係に関する強いイメージが喚起されたのだ。そしてそれは、分節の木構造から説明できるのだ。分節の構造がこうなっているために、フォルマリストのいう意味の引き延ばしが成し遂げられているのだ。そして読み終えた後も、アリーナが悪であるという確信を持てない。そこで想像力が稼動して、アリーナに関する豊潤なイメージが喚起される。結局、アリーナが悪であるという確証は得られず、私たちは、この節における分節の構築に失敗する。そして、それでいいのだ。これは名作小説なのだ。そして今ここに、朝野十字が、名作小説がイメージを喚起する仕組みを解明したのだ。

勇者・朝野十字は、面白い小説の構造の尻尾の一番端を、今確かにつかんだ! ピロロピッロロ~♪

 ぼうけんの書にSAVEしますか?

 はい

ミステリ/エンタメ | 【2011-05-13(Fri) 22:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ミステリの書き方
H.R.F.キーティング, H.R.F. Keating, 長野 きよみ
ミステリの書き方


2001/09/29

まずどこが面白かったかと言うと、トリックの書き方について具体的に触れているところだ(第一章第四節 手がかり)。キーティングは、具体的な手がかりの描写方法を述べつつ、手がかりの基本となる技術は、文学研究家が「習慣的反応」と呼ぶものに頼っているという。そして例として、ある部屋の様子を事細かに描写すると、読者はこの部屋に住んでいる人物を説明しようとしていると思うだろう、そしてその中に重要な手がかりが書かれていても見逃してしまうだろうと言う。これを読んで私が目からウロコを落としたのは、推理小説において、

1.騙す相手は、読者
2.騙す方法は、叙述

という当り前の事実に初めて気付いたからだ。作中の知能犯が考え抜いたトリックであっても、作者はそれを謎でもなんでもなく解説することができる。実際小説の最後ではそうするのだ。それが謎になるのはトリックではなくて、推理小説の小説としての構造によるのだ。叙述トリックの話ではない。どんなトリックもそれを謎にするのは小説の叙述なのだ。

実際の犯罪者は、まず状況を観察し、次にトリックを思い付く。確かにこのような方法で完全犯罪を思い付くには、特別に頭が良くなければならないだろう。だが作者は状況をいかようにも作り上げることができる。だからまず謎にし易そうな犯罪を(頭の中で)犯して、その後でそれをどう謎にするかじっくり考えれば良いのだ。万一奇抜なトリックを思い付かなくても、状況や解明の手順を工夫すれば魅惑的な謎を作ることができる。推理小説においてトリックとプロットが密接に関係するというのはきっとそういうことだ。

普通の小説では、作者はテーマや人物をより印象付けるために様々な叙述上の工夫をする。それには前述の「習慣的反応」を利用する。ある人物を描写するために彼の部屋を事細かに説明するのだ。ところが推理小説は、このような小説の技法を逆手にとって読者を騙すのだ。文学の技法をメタに利用すると言う意味において、推理小説は文学と正反対な方向を向いていると言えるだろう。

この本では、推理小説を書くコツとして、J・D・カーの「逆から考えろ」という言葉を紹介している。これは推理作家の間では有名な言葉なのかもしれない。と言うのも、二階堂黎人のホームページに、推理型の小説の書き方として次のように述べられているのである。
  1. トリックやプロットを考える(結論)。
  2. トリックやプロットに状況や舞台をあてはめる。
  3. 状況に人物を当てはめる。
  4. 状況と人物にふさわしい物語を考える。
  5. 全体のプロットを再構成する(発端)。
(全体のプロットを、ほぼ最初に立てる必要がある)二階堂黎人のHP:http://homepage1.nifty.com/NIKAIDOU/

文学界に連載中の河野多惠子の「創作心得」を立ち読みすると、小説の書き方として、先に結末を書くなどもってのほかだというようなことが書かれてあった。普通の文学はそうなのかもしれない。そしておそらく推理小説はそれとは逆さまなのだ。

この本にはその他にも大変興味深い内容が書かれているので、ミステリ好きの方はぜひ一読されれば良いと思う。私は今年の正月に生まれて初めて推理小説を書いた。出来はともかくとして、推理小説を一本書き上げることが出来たのはこの本のお陰である。


評論/ノンフィクション | 【2011-05-13(Fri) 22:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
朝の書評事務局よりお知らせ
書評ブログなのに全然書評してないじゃん。
そもそも本あんまり読んでなくない?

実はそうなのです。
そうなのですが、そうでない部分もちょこっとあって、というのは、以前iswebでホームページを持っていて読んだ本の感想を書いていたんですが、無料iswebを楽天が買収してかき回した上に潰してしまったので膨大な感想も消滅してしまったのであった。
そこから本の感想部分をサルベージしてブログに再アップしていこうという企画です。

(本日の追加分)
ミステリの書き方
http://asanojuji.blog61.fc2.com/blog-entry-130.html
小説の方法
http://asanojuji.blog61.fc2.com/blog-entry-168.html
白昼の悪魔
http://asanojuji.blog61.fc2.com/blog-entry-138.html

この企画は引き続き暇を見てやっていきたいと思ってます。


未分類 | 【2011-05-13(Fri) 21:37:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
ここいらで東電原発事件を整理しておこう
20110507.png
(参考)
http://takedanet.com/2011/05/to_7db5.html


新之助の推理日誌 | 【2011-05-07(Sat) 11:26:31】 | Trackback:(0) | Comments:(0)

お薦めサイト

福岡ストーリー|無料で読みやすい小説・ライトノベル

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。