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小説の方法
大江 健三郎
小説の方法 (〈特装版〉岩波現代選書)

大江 健三郎
小説の方法
私は小説の書き方関連の本を読み漁った結果、小説の構成法について具体的・論理的に書かれた本がほぼ皆無であることに気付きました。言わば、カレーの作り方関連の本を読み漁った結果、どれもカレーの作り方の手順については書かれておらず、材料の買い付け方のコツとか、お皿に盛り付けるとき見栄えがする方法とか、カレー粉の成分と種類とか、カレー作りに欠かせない鍋やガスコンロの選び方とか、自分がカレーを作るようになったきっかけとカレーへの深い愛情とか、はたまたログハウスの作り方を長々述べた後で、何かを作るという点ではカレー作りも同じことだとか、そんなことばかりが書かれてあったようなものです。そういうバカバカしいことが、なぜか小説の書き方本に関してだけは、堂々と許されています。そんな中で、小説の構成法を小説を書く立場から具体的・論理的に描こうとしたほとんど唯一の小説の書き方本が、これです。この作者によると、小説の構成法のキモは、小説を分節化して把握していく、ということです。小説とは分節が組み合わさった立体的な構造物であって、そのような構造物として小説の構成を立体的に捉える捉え方が、本書では具体的に説明されています。分節化について作者の言葉を引用しておきますと、「ある長さの文章・パラグラフにおいて、ひとつのイメージのかたまりを作る。そのようにして分節化したイメージを、かたまりからかたまりへ連結する。それをつうじて、小説の全体が作りだされる」(p.194 新しい文学のために)
実は引用部は、「新しい文学のために」のほうなんですね。「小説の方法」をわかりやすく書き直したのが「新しい文学のために」だと作者本人が言ってますから、これでいいんです。けれども、「小説の方法」の白眉、「浮かれ女盛衰記」の構成分析が、「新しい文学のために」のほうには載ってませんから、やっぱりこっちも読んどかなきゃなりません。で、こっちは「新しい文学のために」よりもさらに悪文なので、何度も読み返す必要があります。借りるんじゃなくて買ったほうがいいでしょう。

小説の基本構成




2001/10/06

この本は全編に渡って小説の技法である「異化」について語られている。大江は冒頭で異化を定義して、およそ創作の全ての過程(構想、言葉、文章、分節、小説全体)で「異化」が有効であると述べている。また「分節」という言葉を、この本だけで通用する用語として、「多様なレヴェルにおいて、はっきりしたまとまりをなすある部分を、他からくっきりと分離して把握し、全体への繋がりを考えるという意味(p.11)」と定義する。

この本で言う大江の「異化」は社会運動や人類の未来にまで役立つようだが、とりあえずシロウト作家の創作という卑近な例に当てはめて考えると、小説は言葉が集まって文章になり、文章が集まってひとつの意味的固まりになり、それらが集まって小説全体ができている。そしてその組み合わせを工夫することによって、読者に驚きや感動を与えることができるということのようだ。当り前じゃんと一瞬思うが、当り前だで済ませて実はわかっていないのがシロウトという奴かもしれないと反省しつつ先を読む。

具体例として、大江は第四章でまずバルザックの「浮かれ女盛衰記」を取り上げる。筆者は未読だが、大江によるこの小説の要約をさらにここで要約すると、魅力的な娼婦エステルが、リュシアンという男を愛するようになり、それを契機に一旦は娼婦をやめる。ところがリュシアンが何かの理由で危機に陥り、彼を救うために娼婦に戻り金満家の男爵の思い者になることを自ら決断する、という話らしい。「思い者」ってなんだろうな。妾になっちゃうのかな。


大江は、エステルが娼婦に戻るシーンを特に取り出して解説する。このシーンは二つの部分から成っており、前半では「エステルの悲嘆に満ちた決断の清らかな美しさをくっきりと映し出している(p.79)」。その直後にエステルが元の魅力的な娼婦だった頃の感覚を取り戻したかのように下品な言葉で召使いをからかい、すっかり観念したように「つまりさ、ひとっぱたらきしましょうよ」と言うシーンが続く。大江は前半を第一のシーン、または第一のエステルと呼び、続く第二のシーンとのつながりにおいて「ダイナミックな転換」があると言う。

大江がわざわざ分節という言葉を定義しておきながら、ここでシーンと言い換えているのは、シーンが分節の一例だからだろう。そして分節の構造上の工夫から異化の効果が生まれると言うことの具体例なのだろう。

しかし、創作系のウェブによくある小説の書き方の中の、「キャラを立たせるには意外な一面を持たせると良い。たとえばマッチョな大男なんだが実は甘い物好きとか」なんて書かれてあることに比べて、ここで大江が言っていることは何ほどか高級なことなんだろうか。確かにこのワンシーンは、ここだけを読んでも魅力的であると認めるが、それは単にバルザックの小説が面白くて人物が魅力的であるということではないのか。

大江は第一と第二のエステルは、一人物中に並立する二つの性格ではなく、第一のエステルが第二のエステルに「転換」するのだと言う。そして最初の愛を知らない娼婦と、最後の愛する人のために男爵の「思い者」になることを決断した娼婦とは、外見が同じでも中身が違う、その変化が読者の想像力を活性化すると言う。しかしそれは物語上の理由だろう。エステルがそういう魅力ある女性だという話だろう。それを思い付いたバルザックは天才だなあということじゃないのか。分節を注意深く構造化することにより読者に物事の新しい感触を与える「異化」という技法を説明するための具体例に、なってるのか。



異化 ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何物かを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」としてもっているものを「感触」として伝えたということだ。異化とは、つまるところ「独創性」の同義語である。(p.88 小説の技巧、デイビッド・ロッジ、白水社、1997)


2001/10/06

大江が「小説の方法」を書き、その中で文学の技法として「異化」を取り上げ、その具体例としてバルザックの小説を持ち出してるわけだろうが、ゴルァ! でだな、大江がそこまで言うんならだな。その技術ってやつをちょこちょこっとパクッてさらさらっと小説書いて、それを応募して賞金ゲットなんだよ、shit!

分節のある特定構造が異化という文学上の効果を生み出すんだよな、間違いないよな。じゃあ、試しに置換え不可能な構造を残してその他を総入替えしてみよう。

  1. コワモテの殺し屋、エースの輝(てる)(通称エース・テル)がいた。
  2. 竜さんという風俗店経営者と親しくなり、それを契機に殺し屋をやめ竜さんの会社の経理事務の仕事をするようになる。
  3. ところが竜さんはヤクザと揉めて命を狙われる。
  4. 竜さんが死ぬと堅気の職を失ってしまう。かといって、竜さんを守るためには、対立するヤクザの親分を殺すしかない。
  5. 輝は殺し屋に戻って、ヤクザの親分を殺す決意をする。


ばかばかしいよなあ。構造主義の本、これから読もうかなと思ってるが、そんなもんで文学を語れるわけないと思うけどな。……でも、未練たらしくもう少し考える。エースの輝、確かに冒頭の殺し屋であるという設定と、ラストにまた殺し屋に戻るということの間には大江の言う通り、外見は同じでも中身が違うと言えるかもしれないなあ。ただ、その変化が私の想像力をまるで活性化しないのが難点だな。

ところでしつこくつまらない思い付きに拘るが、例の創作系ウェブのマッチョな大男が、大暴れした後で救出したヒロインそっちのけで苺ケーキ食べてたらちょっと笑えるかも。おお、そうだ、なかなか微妙だが、マッチョがケーキを食べた後で大暴れしても別に笑えない。私は前回「マッチョな大男なんだが実は甘い物好き」と書いた。この「なんだが実は」の部分にすでに物語が潜在しているではないか。逆にエステルの話をわざと平坦な設定にしてみると、こんな感じかな。「美人で蓮っ葉な娼婦。しかし惚れた男には一途に尽くすような一面がある」。キャラ設定したり最初のシチュエーションを決めると、プロットを書かなくても物語を転がしていけると言う人がいるが、物語を潜在させたキャラやシチュエーションを思い付くってことなのかもしれないね。

結局、エステルの話は、魅力的な娼婦一般に対する読者の同情がなければ成立しない話なんじゃないか。だったらごちゃごちゃ言わずに、魅力的なキャラを描け、でいいじゃんか。魅力的な人物が多面的な性格を持っていて、多様な面を描き分けることにより立体的な人物描写をするわけだろ。いちいち分節の構造化による異化効果とか言うほどのことかよ。どこが異化なんだよ。わかんねえよ。なんだそのキツネザルみたいな眼鏡、マジ似合ってると思ってんのかよ、あー?

結局、構造主義の構造ってなんのことなんだろうな。まずそれを調べないといかんのだが、面倒なので想像で話を進めるが、もしも、娼婦がどの民族にも共通する神話的存在であり、その死と再生を描くことが物語の構造だ、なんてことならどうしよう。なんとなく、構造ってからは建物の柱みたいなもので、物語でいえばプロットをもっとすかすかにしたやつかいなと思っているのだが。大体が、社会科学系で言う構造って違和感あるよなあ。普通構造つったら、花にはおしべとめしべという構造があって、虫とか風とかで受粉する、その花の機能を裏打ちするのが構造だみたいに使うものだろ。複数の民族間に共通の規範ってのは、民族に共通の構造が生み出す機能と言うべきじゃないのか。

すみません、無知のため止めどなく妄想が広がってしまいました。

2001/10/06

エステルに戻ろう。「第一のエステルの次に第二のエステルを置くことにによって順番に読み進む読者の想像力を活性化する」というのは小説の立体的な構造により踏み込んだ方法論だと言えるだろう。第一のエステル、第二のエステル、そしてそれに先立ってまだ愛を知らない魅力的な娼婦の描写があり、それらがこの順番で並ばなければならないというのは感覚的に分かるような気がする。

娼婦エステルを最初に描写する時、そこにはまだエステルが純愛に目覚める可能性について明示されていない(はずだ、読んでないけど)。そして読者は、正にフォルマリズムの言う「自動化」によって娼婦一般に対するイメージを自分の中に作り上げ、その中には純情と背反する多情というようなイメージが無意識の内に組み込まれる。次にリシュアンと出会うことにより、純情可憐なエステルが新たに提示される。この時点で読者は既にスリリングな印象を受けるのであるが、それはまだ、自動化された「多情」のイメージが「純情」のイメージに置換えられたに過ぎない。ところがラスト(かどうか読んでないのでわからんが)で第二のエステルが現れた時、読者は「娼婦」の中に「純情」のイメージを不可避的に見出す。それは無意識の内に読者の中に自動化され手垢のついた「娼婦」のイメージを打ち壊し、また「純情」のイメージを打ち壊し、それらの再構築を読者に強要(=異化)する。

ということかな。いきなり結論でちゃったけど。大江はこの部分でそれほどはっきりとこう言ってるわけじゃない。もう一度この本を最初から注意深く読み直せば、全体としてはこのような方向で話をしているかもしれない。でも、今直ちに再読するのは面倒なので、今回はこの辺で勘弁しといてやろう(爆)。みなさん、自分で読むように。まあ、私もそのうち再読するかもしれない。

で、最後にもう一度しつこく「マッチョでケーキ好き」を再考してみよう。もし大江の理論がなにがしか応用可能な技法となり得る可能性があり、単にバルザックが天才と言うことでなく、エステルという特定の人物が魅力的であるというだけでないなら、同じ理論で「マッチョでケーキ好き」を説明してみやがれ、糞野郎!

まずマッチョが悪漢をやっつけるシーンを見ると、なんかそういう正義の味方に関する手垢のついたイメージが湧いてくる。その後でヒロインそっちのけで苺ケーキ食ってりゃ、そりゃイメージ壊れるわな。苺ケーキのシーンを先に持ってくるなら、まず女性的でエレガントなヒーローにするだろうな。趣味はケーキ作り。暴力反対の平和主義者で。でも、最後の最後で実はカンフーやってて、ヒロインを救出してしまう。あら、意外と内面はマッチョね、ってことだ。つまり分節の順序によってキャラに対するイメージの定着の順序が変わってくるので、結果キャラも変わってしまうのだな。じゃあ、エースの輝は。エースの輝は、最初に殺し屋としてのイメージを定着させる。それは冷酷非情とか、金を貰ってきっちり仕事するとかいうイメージだな、きっと。そしてラストで自分の地位や収入を守るためにヤクザの親分を殺すと決意しても、それは手垢のついた殺し屋のイメージの範疇に収まっているために、イメージの再構築の必要もなく、想像力が活性化されることもなかったのだろう。

2001/12/15

およそ芸術とか、芸術の発生とはどのようなものだろう。本当はそれら芸術一般についてもっともらしいことを述べた上で論を進めたいのだが、知識もないし時間もない。ただ、今、私が思い付いたことは、芸術は実用的なものから派生し、次第に非実用的なものとして発展しているように見える。たとえば、大昔は絵文字が使われていたし、図形は土地の測量のため研究されてきた。そして次第に絵画やデザインが芸術と呼ばれるようになった。歌は神話の伝承や遠隔地の連絡に使われていたし、建築や衣服もまた実用的なものだ。実用的なものが芸術に移行する境目はどこだろうか。根拠を示さず結論を急ぐが、実用からの逸脱による異化効果が人に感動を与えるのではないだろうか。

実用からの逸脱には二つの効果がある。まず実用に見えることでそれに向き合う者の態度が定まる。次にそこから逸脱することで新しい感触が与えられる。

古く仏教では「機」ということを言ったそうだ。お坊さんがいくら説教しても聞く耳がなければ効果はない。いや、別に宗教の話じゃないんで、要するに、小説に向き合う人の態度がある一定の範囲内にあることが大事じゃないかってことですね。読者がある一定の範囲内の態度を取るということが予め予想できなければ、彼らを驚かせ感動させるための小説の仕掛けを作ることもできないだろう。小説は直接観客の前で演じるものじゃないから、アドリブはきかないんだよね。

近代小説が生まれた初期には、伝記小説が最も一般的で人気があったという。たとえばロビンソン・クルーソーも実話であるかのように宣伝され出版されたという。また書簡形式の小説も好んで書かれたという。作家がそれらの形式で小説を書き、人々がそれを自然に受け入れたのは、伝記や書簡が当時一般的であったことと関係があるに違いない。

文字はまさに実用的なものであり、特に近代以降多くの人が教育を受け日常的に文字を扱うようになった。私たちは小説を読む時、無意識のうちに普段文字に接する時の態度を内面に形成する。ちょうど絵画を見る時に色彩や図形に注目するように、この文字の並びはどのような単語か、おのおのの単語はどのような意味的関係にあるか、さらには文章全体として何を伝えようとしているのかを考える。読者は頭ではフィクションだとわかっていながら、文字を読むことの長年の習慣からまるで事実の伝達を受けているような感覚を味わう。だから小説の枠組みを暴露するような描写には鼻白むし、論理的矛盾や感情的齟齬にも敏感だ。つまらない小説を読むと、つい、「何が言いたいんだよ、馬鹿」とか叫んでしまう。

文章をコミュニケーションの道具として考える時、それの主旨(テーマ)、それを書いた人の動機(モチーフ)、文章の意味的構造(プロット)がひどく気になるのは自然なことだろう。

結局、テーマ、モチーフ、プロットが重視されるのは、第一義的には、読者の読解のための慣習的態度から来ているのではないか。

2001/12/23

しかし小説はコミュニケーションの(実用的)手段ではない。

私たちは小説が最も自由な形式の芸術のひとつであると知っている。そして私たちが知りたいのは小説の一般的傾向や類型的構造ではない。面白い小説と面白くない小説の構造上の違いである。なによりそれは、創作の方法論として有効でなければならない。構造の理解が、実際に小説を書くことに役立たねばならない。

読解の立場から使われるテーマやプロットやモチーフという言葉。それらから無自覚に類推され当てはめられた「作者の言いたいこと」「設計図」「創作動機」などという無邪気な言葉。さらには人間や人間の社会を分析する科学を目指した構造主義。これらは創作のための役に立たない。彼ら読者は創作を目指していないし、創作について考えていない。

今までハウツー本を参考にしながら考えてきた中で、小説の具体的方法論に踏み込んでいるのは、「分節の構造化による異化効果」だけだ。小説の多様な広がりを見れば、他にも方法があるだろうと思う。けれどまず「異化」についてもう一度おさらいしよう。
異化
ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何物かを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」としてもっているものを「感触」として伝えたということだ。異化とは、つまるところ「独創性」の同義語である。(p.88 小説の技巧、デイビッド・ロッジ、白水社、1997)

現実の慣例的、習慣的描写により描写され得るモチーフがあって、それは我々がすでに「観念的知識」としてもっているものである。つまり異化効果を発揮させるには、平凡で手垢のついたモチーフが必要なのだ。次にそれを新たな感触として伝える。そこにテーマはない。ありきたりの事物に新たな感触を与える技法があるだけだ。新たな感触を受けた読者が人間や人生について考え直すことはあるだろう。読者はそれをその小説のテーマだと考えるだろう。テーマは読者の読解を助ける有効な方法と言えるだろう。けれど創作の際には関係ないのだ。

次に分節についておさらいしよう。
分節
…分節化(は)…多様なレヴェルにおいて、はっきりしたまとまりをなすある部分を、他からくっきりと分離して把握し、全体への繋がりを考えるという意味(p.11 「小説の方法」、大江健三郎、岩波書店、1993)

この分節の定義が作者の立場からなされていることに強い印象を受ける。分節は意味的なまとまりであり、それぞれの分節は意味的な違いによって互いに分離される。分節の意味は作者が読者の中にあるイメージを喚起させようとする仕掛けのことである。喚起されるイメージとその仕掛けは一対一に対応しているためにほぼ同じ意味で使われることがあるが、ここでは創作するという立場から使っていく。

以前私たちは分節の構造化による異化効果の例として、バルザックのエステルを取り上げた(第一部・5~7)。そこではエステルと言う人物のある一面を描写する分節と別の一面を描写する分節を順次並べることにより異化効果を生み出していた。異化効果を生み出すための分節は読者にあるイメージを喚起させるための仕掛けである。分節の最小単位は、ひとつのイメージを喚起させるためのひとつの仕掛けである。分節を他の分節と区切るものは段落でも場面でも章分けでもなく、ひとつのイメージを喚起させるひとつの仕掛けである。
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評論/ノンフィクション | 【2005-01-30(Sun) 09:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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