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子守つ子[掌編]

子守つ子子守つ子
(2012/09/13)
アントン チェーホフ

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とりあえずチェーホフは読んどけ。



純文学・随筆/その他 | 【2012-12-04(Tue) 21:01:46】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
世辞屋

世辞屋世辞屋
(2012/09/14)
三遊亭 円朝

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明治時代の新作落語か。いいねえ。書生の物言いなんざ読んでて笑いを禁じ得ないってやつだね。
それにしても、落語こそ日本最強のパブリックドメインであるはず。落語協会だって落語には著作権はないと認めている。全作品がアマゾンで無料で読めて当然である。
なのに、そうなってない。
だれが悪いかしらないが、だれかが悪いことはまちがいない。
文化継承の妨害者、伝統守護の破壊者がこの日本国内に存在するのだ。

地獄に落ちろ!


純文学・随筆/その他 | 【2012-12-03(Mon) 21:20:39】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
北海道に就いての印象

北海道に就いての印象北海道に就いての印象
(2012/10/07)
有島 武郎

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たいていアルコールは冷やしたほうがうまい。極寒のロシアに大酒飲みが多い所以だ。赤ワインを常温で飲むなんざだれが言い出したことだろうかねえ。

酢豆腐って落語があってね。粋がりの江戸っ子に腐りかけの豆腐を食わすんだが、この江戸っ子が意地を張って、腐りかけの豆腐が粋だと屁理屈をこねるんだがね。同じく冷蔵庫のない時代のパリジャンが常温のワインを粋だと決めつけたのが所以ではなかろうか。

さてなんの話だっけ? そうそう、youtubeで酢豆腐で検索して聞いてみたら古今亭志ん朝 - 酢豆腐いやあ素晴らしいですね。東京以前の江戸弁のかっこ良さ。しびれるね。ワインが常温なんて酢豆腐ですよ。冷やして飲みたきゃお飲みなさい、だれに臆することも無いですよ。

あとね、酒を一人で飲むのはさびしいとかの俗論ね。これも直ちに論破しますよ。そもそも朝野は仏教徒だからね。大勢でおおっぴらに酒を飲むなんざ明らかに破戒です。そんなこと許されるわけがない。我慢して我慢して、それでも魔が差して、つい一人でこっそり飲んでしまう。飲んで飲んで酔いつぶれて翌朝二日酔いで目覚めて、悪人正機、懺悔することの繰り返しですよ。

だからなんの話かというとね、酒、ダメ。ゼッタイ。

日本政府に申し出があります、禁酒したいので酒よりも害の少ないと言われる大麻を解禁してください。

さてなんの話だっけ? え、有島武郎?? 東京出身だろ。赤ワインを冷やさずに飲むんだろ。と思いきや、長年北海道で暮らしたという。北海道いいやね。道産子娘は冷やさず人肌温度であっため合いたいもんだね。でもむかしむかし北海道出身の女の子にそう言ったら、道産子は馬のことだと叱られましたけどね。

さてなんの話だっけ?


純文学・随筆/その他 | 【2012-11-28(Wed) 23:09:34】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
小説の戯曲化

小説の戯曲化小説の戯曲化
(2012/09/13)
芥川 竜之介

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芥川龍之介って、否定の否定の否定みたいな同じ所をぐるぐる逡巡して結局何が言いたいのかわかんない文章書くやつだな。わからんほうがバカだと言われれば、なるほどバカかもしれん。が、若いころは無批判に読んでいたけども、よくよく考えるとあまり好きな作家じゃないかもしれない。

芥川がくしてるようなくさしてないような、くさしてないふりをしているような、そんな勘ぐりをするほうがゲスなんだという言い訳までちゃんと織り込んであるような、どうにも頭が良いにちがいないが、でもやっぱおまえこいつきらいはきらいなんだろと勘ぐってしまいそうな、そんな気がする菊池寛を、そのうち読んでみようと思った。



純文学・随筆/その他 | 【2012-11-25(Sun) 03:32:28】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
猫の事務所

猫の事務所猫の事務所
(2012/09/27)
宮沢 賢治

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宮沢賢治ってあの共産党の書記長のね。それは宮本顕治。

小学生のとき教科書に載ってるのを授業で読んだくらいしかないなあ。なんでも象が「ぐららあがあ」と鳴く話だった。

これはなんかタイトルがおもしろかったので気軽にダウンロード。日本文化の守護者アマゾン万歳。

猫かあ。民家の軒下なんぞでゴロゴロしてるのを通りすがりに見るとかわいいだけだけど、擬人化されると急に不気味になるね。井上ひさしの百年戦争〈上〉 (講談社文庫) 百年戦争〈下〉 (講談社文庫)のあらすじはあらかた忘れたが、ひょんなことから主人公が猫に変身してしまい、近所の猫たちに挨拶に行くシーンは不気味だった。自分が猫になってしまって猫の社会に公園デビューすると、なかなかに緊張してしまうし、ボス猫あたりに睨まれるととっても怖いだろうねえ。なにしろ人間の常識が一切通用しないからね。ところがそもそも人間の常識ってなんなの、むしろそっちへの疑惑も高まってくるあの感じを活写していたね。

だから猫を主人公にすることのパワーね。この作品を読んで、そういうものを痛感しました。

宮沢賢治ってヘンだよね。すごいヘン。なんかこうメルヘンチックの真反対な感じの、いや、そういうメルヘンチックについてのおれのメルヘンな認識こそがまちがっているのだろうか。メルヘンは怖い。メンヘルと紙一重である。そんなことを考えさせられた問題作であった。

筒井康隆の乗越駅の刑罰(将軍が目醒めた時 (新潮文庫 つ 4-4))をふと思い出した。




純文学・随筆/その他 | 【2012-11-10(Sat) 04:09:37】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
チェーホフ、中二階のある家にて
「中二階のある家」の感想をパブーに書きました。
中二階のある家に住んでみたいな(^^;
http://p.booklog.jp/book/47886


中二階のある家―ある画家の物語中二階のある家―ある画家の物語
(2004/04)
アントン・P. チェーホフ

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純文学・随筆/その他 | 【2012-04-07(Sat) 11:15:16】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
谷間
チェーホフ小説選チェーホフ小説選
(2004/08)
アントン チェーホフ

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2007/07/07

「谷間」を読んだ。後半劇的なクライマックスがあって盛り上がった。「ざくろ屋敷」と比較すると、自然描写もあるけれども、工業化していく様子が対比的に描かれている。登場人物が多くて、複数人物のエピソードが重ねられてプロットが展開していく。どの人物も二面性があって、ひとつめのイメージを喚起するエピソードの次に、それと異なる二つめのイメージが登場する。そして結局、そのような多様な側面を並立して持つ人間として読者は受け止めるだろう。けれども「ざくろ屋敷」でも、私たちは読み終わったあと、主人公の美しい生と悲しい死を一体として受け止めるのである。

「谷間」の主な登場人物は、食料品店の主人のグリゴーリーと、後妻、二人の息子夫婦である。「谷間」の一番大きな変化は、当初グリゴーリーの視点で、美人で働き者と見られていた弟の妻のアクシーニアのイメージがヘビが鎌首をもたげるように悪者へと変化していくところだろう。これは経時的変化ではない。彼女は元々そのような面を持った女であったのだ。けれども、最初はグリゴーリーの視点で美人で働き者と描写され、次に兄の妻のリーパの視点で少し恐い人と描写される。ここまでも経時的変化ではない。視点を変えることによって変化の感覚を作り出しているのである。その後、アクシーニアが財産目当てに鎌首をもたげ、最後にグリゴーリーから実権を奪って店も工場も手に入れるのは、なるほど経時的変化であるが、経時的な変化であることが重要なのではない。読者が一定方向に段階的に変化するイメージを受け取っていくようにエピソードが並べられていることがポイントだ。

一定方向への段階的変化のことを、私たちはプロットと呼ぶのかもしれない。


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 16:55:36】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
夜と霧の隅で
夜と霧の隅で (新潮文庫)夜と霧の隅で (新潮文庫)
(1963/07)
北 杜夫

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2007/06/16

北杜夫は「夜と霧の隅で」を書くとき、一度もドイツを訪れなかったそうである。ときとして、作家の空想力がルポルタージュより優れてリアリティを持つことがある。

なるほど、空想のほうがより作者の独自の視点が入り込みやすいのかもしれない。なぜかというと、私たちは現実に現実のものを見るとき、すでに既成概念に大きく支配されているからである。だから手品師のトリックを見破ることができないのである。現実をどう見るかという枠組みをすでに与えられていて、その枠組みの中でしかものを見ないのであれば、いくら現地に行って名勝を回ったりうまいもん食ったり土地の人と話したりしたところで、単なる観光旅行でしかなく、独自の視点で現地の風土を斬るということはできないわけである。それに対して、自分の知らない行ったことのない町やそこに暮らす人々ってどんなことを考えどんなふうにして生活しているんだろう、と一生懸命空想するとき、自分の知識や経験を自分の知らない環境に当てはめていくから、そこには、自分の本来の人間観や世界観が自然と投影されるわけだ。

外国人が日本文化を語るとき感じる違和感は、私たちとは違う視点でこの国を見ているところからくるのだろう。ふと思い出したが、フランスの女性の社会党党首がサルコジに負ける前に訪日して、日本女性はかわいそうだとかなんとか言ったそうだ。ネットで検索してみると、ウィキベディアに「日本は男女格差社会とするエスノセントリックな批判を行った」と書かれてあった。なるほど、彼女は男女格差に敏感で特にそのような視点から日本を見ているのだなと思ったのである。あるいは、フランス人女性はそうしたことばかり気にするという思い込みが我々の側にあって、彼女のそのような発言ばかりが針小棒大に取り上げられたのかもしれない。正確なところは知らないし今ここでそれが問題なわけでもない。

ポイントは、空想をたくましくすることによって、独自の視点を小説に導入できる可能性があるだろう、というところである。


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 16:52:35】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
岬 (Hayakawa Novels)岬 (Hayakawa Novels)
(1998/06)
チャールズ ダンブロジオ

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2003/01/25

表題作の短編「岬」の粗筋を要約してみる。

1.」父が自殺して以来母は酒を飲み羽目を外すようになった。自宅でパーティを開いた母は、ぼくの寝室に来て、ひどく酔ったガーニーさんを自宅へ送るよう頼んだ。
2.ここ何年も、ぼくは酔っ払った来客を自宅に送ることをしていた。パーティには、母同様寂しい人たちが集まった。ガーニーさんもそんな人たちのうちの一人だった。
3.ガーニーさんは途中の浜辺で反吐を吐き、反吐で汚れたスカートを脱いで海で洗った。そして砂浜に横たわり服を全て脱いだ。
4.ぼくは13歳でガーニーさんは38歳だった。しばらくの会話後、ぼくはうまく隠しおおせる、かまうことはないと思った。
5.ぼくは涙を流すガーニーさんにキスした。それから家まで送り届けて自宅に戻った。
6.その後裏庭で父が母に宛てた古い手紙を読んだ。父が自家用車の中で拳銃自殺し、それを最初に発見したのはぼくだった。ぼくはその時のことを思い出した。

プロットの要約はモチーフの意味関係を表している。父が自殺したから母は酒を飲むようになった。寂しがり屋の同類はしばしば集まってパーティを名目に酒を飲む、ゆえに母も自宅でパーティを開く。13歳の子供である「ぼく」は母に頼まれ酔っ払いを自宅に送り届ける役を引き受ける。ガーニーさんは寂しいから「ぼく」と浜辺で寝た。ここまではモチーフが因果関係で結びついているのである。ただし、ラストで父の古い手紙を読むあたりだけ、意味の繋がりが弱くなる。なるほど時系列的には浜辺での童貞喪失の直後だ。全体として童貞喪失の前後の短い時間をほぼ省略なしに描いている。けれども、初めてのセックスと父の自殺との意味の繋がりがよくわからない。

2003/02/01

それでは次に、喚起されるイメージのリストを作ってみようと思うが、しかし、モチーフからイメージだけを取出すと後から読んでどのモチーフと対応しているのかわけわかんなくなる恐れがある。また状況を変化させる動的なモチーフにもイメージが伴うが、それを抜書きするとプロットの要約と変わらなくなってしまう。そこで下拵えとして静的なモチーフのリストを作ってみる。ただし、父のモチーフが重要かもしれないと感じたので、父に関する言及だけ特にカッコ内に抜書きした。(下記参照)

かなり時間をかけて長々リストを作ってみた。モチーフのラベルだけではなんのことかわからないだろうが、いちいち註釈すると作品より長い文章が必要だろう。印象に残ったところだけ順に触れておこう。

まず冒頭の悪夢は、サーカスで風船を買うぼくと父である。これがなぜ怖い夢なのかわからない。父は風船にサヤエンドウを結び付けたため風船はどこかへ飛んで行ったとあるが、何の比喩かわからない。私が知らないだけで、サヤエンドウはよく知られた象徴的意味があるのだろうか。中に種の入った鞘というところから子宮、あるいは細長い形状からペニスを象徴しているのか。

パーティの様子は退廃的である。語り手の少年は、岬の住民はまっとうな人たちと、母や母の友達のように理性を無くして飲んだくれる人たちに二分されると言う。しかし、登場する酔っ払いたちは、会計士であったり弁護士であったりする。自殺した父は医者だったし、ガーニーさんも、街中に家を持っていて、週末だけ岬に来るとあるので、別荘を持つ金持ち階級であろう。みな社会的に成功した人たちばかりなのである。だから毎週のようにパーティを開いて騒いだりできるのである。

続いて、クラッチフィールドさんが妻とうまく行かず浮気をしていたことが語られる。次に、ガーニーさんも夫に愛されていないとある。亡き父が岬の人たちを「イカレてる」と言ったのは、そのような不安定な精神面のことをを指しているのだろう。語り手の「ぼく」は13歳で、酔っ払いたちを家に送り届ける仕事を義務と考え、大人達のゴシップに詳しくなってそれを口外しない自分の態度を、前半では、司祭に喩えている。これは、後半、ガーニーさんに誘惑された時、うまく隠しおおせると思ったことと対照を成している。ガーニーさんとの会話は取り留めなく、まあ、男女が誘い合っている時の会話はそういうものかもしれない。肝心の初めてのセックスについては描写が避けられており、直接的な感想もない。けれども間違いなくやったとわかるようには書かれてある。

私は、これは「通過儀礼」の話だな、とはたと気付いた。タイトルが「THE POINT」で、訳者のあとがきにも「この七編に共通しているものは、“あるポイント”を通過した瞬間の人々を描いていることである」とある。間違えようがない。さてそこで、司祭を自負していた「ぼく」が大人になったわけだが、彼の考える大人像を小説の描写から探し集めると、たとえばクラッチフィールドさんで、彼は蟹を採る時欲張ったため海に落ちて溺死したわけだが、「ぼく」は彼に、浮気してもいい、ばれなきゃいいと言ったわけである。それは酔っ払ったクラッチフィールドさんが考えすぎて(心理的な)ブラックホールに落ち込み、家に帰れなくなるのを防ぐための方便だったが、今まさに自分自身が大人になる時、同じ理屈を使ったのである。つまりこの少年の描く大人像というのは、限りなく苦く切ないものなのである。そう考えると、ラストの数行も腑に落ちてくるわけである。彼は、大人になることは、内側が汚れていくことだと考えているのである。

頭の一部が吹き飛んで、血と髪と骨がフロントガラスに飛び散っていた。まるで、父さんは何か恐ろしいところを車で通り抜けてきたばかりで、フロントガラスのワイパーを使わないと、勢いよくワイパーを動かして外が見えるようにしないととても走れない、といったありさまだった。でも、ワイパーを動かしても父さんの役には立たなかっただろう。なぜなら、あの汚れは、内側についたものだったのだから。(p.p.37-38 チャールズ・ダンブロジオ「岬」早川書房、1998)


モチーフのリスト
1.寝室
1.悪夢
2.パーティの様子
3.母親(父の拳銃自殺)
4.ガーニーさん(ヴェトナム戦争で衛生兵だった父)
5.会計士のフレッド(父の友人だったフレッド)
2.運動場
1.ガーニーさん(人生の中のある種の物事は、たとえば父の場合のように、取り返しがつかない)
2.岬の人たち
3.弁護士のクラッチフィールド
3.防波堤の前の遊歩道
1.ガーニーさん(父は、ここの住民はみんなディンキー・ダウ《ヴェトナム兵の隠語でイカレてるという意味》だと言っていた)
2.クラッチフィールド夫妻
3.人生のブラックホール
4.浜辺
1.反吐を吐く大人の悲惨な姿
2.煙草――嫌悪すべき習慣
3.取り留めなく続く会話
4.ガーニーさんの家
5.アスピリン、メキシコ製の毛布
6.二人の息子
5.帰宅
1.パーティーの様子
2.父の銀星章と名誉負傷章、医学部の卒業証書、野球のボールなど
6.裏庭
1.父の古い手紙
2.夜の岬の風景
3.ブランコ
4.ヴェトナム戦争当時の父の近況について書かれた手紙の内容
5.ヴェトナム戦争について話す父の思い出
6.ブランコを漕ぐ
7.自殺した父を最初に発見した時のこと

2003/02/08

この小説を「通過儀礼」がテーマだと気付いた途端、より深く理解できた気がした。またディテールの印象がより鮮やかになったように感じた。それというのも、この小説の構造に理由があるに違いない。まず気付くのは、全編に渡って物悲しいイメージが漂っていることである。冒頭の悪夢から始まって、父の自殺のことが何度も思い返される。登場人物は寂しさを抱え込んだ酔っ払いたちばかりである。結婚生活がうまくいってない話が長々と語られ、なんとか酔っ払いを家まで送り届けた後は、自殺した父を最初に発見した時の痛切な思い出で締め括られる。どこまでも悲しい話なのである。狂騒的なパーティ、酔い潰れたフレッド、溺死したクラッチフィールド、自殺しそうなガーニー、ベトナム戦争で殺されゆく人たち、そして自殺した父の思い出。しかしこれらのモチーフは相互にどのように関連しているのだろうか。一方で強いイメージを持つはずの初めてのセックスについてはまるで語られない。その理由はなんだろう。キリスト教的奥床しさだろうか。語らないことによって語る文学的技法なのだろうか。私はそうではないと思う。この小説は寂しい悲しいことばかり書かれてあって、全体から受ける印象もそのようなものである。初めてのセックスそれ自体を(男の立場から)描こうとしているとは到底思えない。むしろ初めてのセックスを通過儀礼というふうに一段階抽象化した時、ぶつ切りに並べられたモチーフが繋がってくる感じがある。つまり少年は大人になったのだ。この少年にとって、大人とは、寂しくてパーティばかり開いている母親や、酔い潰れて満ち潮の波の中で目を覚ましたフレッドや、結婚生活に失敗したクラッチフィールドや、13歳の子供を誘惑しなければならないほど精神的危機を抱え込んだ38歳のガーニーや、そしてなにより拳銃自殺した父親のことなのだ。大人になるという視座から見てそれらのモチーフが結びつくのだ。初めてのセックスは視座におかれるべきであり、視野にあってはならないものだからその描写が省かれているのだ。もしも初めてのセックスの詳細な描写や長々とした感想が書かれてあったら、読者はそれこそを手に取り味わうべきディテールだと思い込むだろう。そしてそのディテールをどのような視点から見ればいいのだろうと思うだろう。そうではなくて、寂しく切ない大人達の右往左往ぶりが連綿と描写されてあるから、私たちはそれに目を近付けてその奇妙な模様を眺めたり手に取って肌触りを確かめたりするのだ。そしてあれこれ推理を巡らした挙げ句、ようやく、通過儀礼の話だと気付くのだ。まさか童貞卒業の思い出話がこんなに悲しいわけないという真っ当な先入観を持って読書に臨むために、初めてのセックスの前後をほぼ省略なしに語った少年の初体験談から込み上げてくる悲しさ切なさに当惑するのである。そして通過儀礼というテーマに気付くのに少し時間が掛かるのである。テーマに気付いた時にはすでに、作者の狙い通り、悲しい切ないイメージが読者の胸一杯に広がっているのである。

2003/02/15

改めて整理してみよう。この小説を面白くしているのは次のような点ではないか。

1.イメージの明確なモチーフ(初めてのセックス)を階層の上位に持ってくるが、それ自体については描写せず、読者の能動的関与を誘う。
2.モチーフを短い時間の一視点の中に限定(少年がガーニーさんを送り届けて帰る)し、モチーフの並びが明らかにひとまとまりのものであるように描いておく。
3.一方で、それら下位のモチーフから見て意外な上位のモチーフを持ってくることによって、読者がモチーフの意味を吟味し、視点を構築するのに若干手間取るように仕掛ける。
4.視点の構築に能動的・積極的に関わった読者は、モチーフのディテールをより深く味わうことになる。

言わば、初めてのセックスがアンパンのへそみたいになってるのだ。それ自体にアンコはないのだ。ここまで考えた時、私は自分でも同じパターンで書けるんじゃないかと思った。そして次のようなメモを書いた。

通過儀礼:死体の発見
テーマのイメージ:恐怖、残虐、腐敗、死
モチーフのイメージ:賑やか、お祭り、家族愛、絆、成長

この死体の発見とは、スティーブン・キングの「スタンドバイミー」である。実は映画をビデオで見ただけなんだが、その後ある批評家が、少年たちの成長を描いた作品だと言っていたのをふと思い出したのである。冒険が、通過儀礼なんだね。

早く成果を確かめたいので、これを1000字で書いてやろうと思った。そしてあわよくば短編に投稿してやろう。でも1000字だと、冒険は無理だな。少年たちが集まって準備をしているうちに軽く1000字をオーバーしてしまうだろう。「岬」に習って、誰かを送り届ける途中で死体を発見すればいい。でも、子供が大人を送る理由って、あまりないよな。「岬」に習って酔っ払いにすると、死体の発見の時邪魔な気がする。少し考えた後で、年寄りで足元がおぼつかないという理由を思い付いた。そこで次のようなメモを書き足した。

楽しい団欒、一人の老婆
老婆を送っていく
死体の発見
老婆を送り届けて帰る
家族に自慢

「岬」ではテーマのイメージは(気持ちいいか悪いか、どっちかと言えば)いいのに対して、死体の発見は、悪い。大切なのはテーマとモチーフの関係性であり、それが対照的で一見結びつきそうにないからイメージの喚起力が増すという仮説に私たちは立っているのである。だから、テーマが気持ち悪いのであれば、それが結び付ける下位のモチーフは対照的に明るいものにすれば良いのではないか。そして、テーマ(上位のモチーフ)は描写しないんだ。そこはへそだからだ。むしろ明るいディテールを細かく描写するんだ。しかし、なぜ死体を発見してしまうのだろう。偶然なら通過儀礼にならないのではないか。それに死体を発見した後話が長引きそうだぞ。警察に通報しないわけにいかないし。やっぱり死体はやめよう。通過儀礼ならいいんだ。冒険ならいいんだ。本人にとって肝試しになっていればいいんだ。肝試しと言えば墓場だな。墓場へ行くことだって広義の「死体の発見」だ。すぐ近くなんだけど、墓場の横を通らなきゃならないんだ。だから初めは渋るんだ。でも母親に言われて老婆を送る。それを成し遂げたら自慢なんだ。「岬」の少年よりずっと幼い感じだな。まだ小学生だろう。妹に「恐いの?」と聞かれてムキになるんだ。

ここまで思い付けば、後は1000字にまとめるだけだった。そうやって書いたのが「橋本のお婆さん」である。みなさんは実際にそれを読んで確かめてみることができる。

橋本のお婆さん
http://tanpen.jp/6/11.html
短編
http://tanpen.jp/

2003/02/22

分節が階層構造を持つこと、最上位の分節のイメージをテーマと呼んでかまわないこと、「岬」の分節構造は、テーマについて直接語ることを強く避け、またテーマとディテールのモチーフが一見結びつかないために読者の注意がディテールに向かうことがわかった。「岬」をお手本にした「橋本のお婆さん」を読んでいただいたみなさんは、表題の橋本のお婆さんに注意しているつもりがいつのまにか下位の明るい家族団欒のイメージの方が胸に広がってきたのを確認して頂けたことだろう。

分節構造は、絵画の構図に喩えることができるかもしれない。同じモチーフを違う構図で描くことができるし、違うモチーフを同じ構図で描くこともできる。ちょうどそのように、分節構造とは、分節のイメージの関係性のことである。イメージには類似したものがあり、対照的なものがあり、共通項を持っていたり包含関係にあったりする。

分節構造を模倣しつつ、テーマもモチーフも異なる習作を、盗作と呼ぶことは無理だろう。勉強になったので、作品の末尾に「参考:チャールズ・ダンブロジオ『岬』」と入れたいくらいだが、返って読者を混乱させて、「世界的名作の『岬』とテメーのドシロウト習作になんの関係があるんじゃゴルァ!」とか脅迫メールが来そうなので自粛した。それでも、プロットに過度に敏感な人は、「岬」と「橋本のお婆さん」を読み比べて、どちらも誰かを送り届けて帰ってくる話だと言うかもしれない。しかしそれはモチーフを入れ替える時にたまたま残った残滓に過ぎない。私は「岬」をお手本にしてもう一本1000字を書いたが、それは「臨死体験」を通過儀礼としている。それを思い付いた時のメモは次の通りである。

通過儀礼:臨死体験
恋人と先妻の話になる
臨死体験で先妻と会う
恋人との絆を強める

先妻が病気で死んでそのことを引きずっている男が、新たな恋人に向かってもう一歩踏出せないでいる。その後、交通事故によって一時危篤状態になり、夢の中で先妻と会う。その体験から生きることの大切さを再確認して、むしろ現在の恋人との絆を深めるという話である。「愛なかりせば」というタイトルで7期短編に投稿したのでご一読頂ければ幸いである。この作品では、テーマとして「臨死体験」があり、それは人知を超えた体験である。そこに視座を置いて見詰める下位のモチーフは、恋人とのどこにでもあるような日常のディテールである。さてそこで、「岬」ではセックスが通過儀礼だったから相手が必要で、だからガーニーさんを送っていったのだが、この作品では、一人で車を運転しているうちに勝手に事故るのである。誰も送り届けたりはしないのである。イメージの関係性を損なわないことだけに専心して、プロットに関わるモチーフを完全に置換えてしまえば、ソース元のプロットはコンパイル後跡形もなく消え去ってしまうのである。

愛なかりせば
http://tanpen.jp/7/13.html


純文学・随筆/その他 | 【2011-05-14(Sat) 13:59:29】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
道草
道草 (岩波文庫)道草 (岩波文庫)
(1990/04/16)
夏目 漱石

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そう言えばこれ、まだ読んでなかったな――。
本棚の片隅に角川文庫版の道草を見つけて手にとってみました。
いわゆる神視点で描かれており、主人公健三の気持ちにも妻お住の気持ちにも入り込んで心理描写があります。二人の仲がうまくいかない様子が描かれていて、それだけ読むとちょっと暗い気持ちになります。

話は主人公健三の生い立ちに及び、彼が強情で冷淡な性格になったのには、欲得ずくで彼を育てた養父母や、まったく愛情を示さなかった実父の影響があるのではないかと思わせます。

けれども、これが自伝的要素の強い作品で、作家として成功し経済的にも裕福になった現在から、貧乏だった若いころを振り返って書いているのだと思うと、また別の感慨が生まれてくるようです。

たとえば、姉の夫をモデルにしたという比田は、相当俗物に描かれていますが、本人が読んだら、たとえ事実だとしても不愉快だろうし、今だったら名誉毀損で訴えて勝てそうな気がしますが、そこはベストセラー作家の威光でごり押ししたってことでしょうか。

そして当然、漱石の妻も読むでしょうし、そうしますと、口では言えないものの内心では妻を心配している様子が事細かに描かれていて、それを読めばうれしいにちがいないでしょうに。神視点で妻の心情が描かれているところも、現実の妻からすれば、夫から、「おまえはあのとき実はこう思ってたんだろう?」と言われているような感じがするのではないでしょうか。

小説としては、愛情をうまく表現できず妻と折り合えない夫を描きながら、それを実の妻が読むことを想定して語られているところを鑑みるに、どうやらこの道草は、夫から妻へのラブレターのように思えてきます。

比田と長兄の会話も、話の内容は暗いのに、やりとりに落語のような滑稽味があって、どこかユーモアを失わないところが、ベストセラー作家・夏目漱石の面目躍如たるところではないでしょうか。

純文学・随筆/その他 | 【2009-04-19(Sun) 10:21:51】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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